第15話 選択肢
「では、行ってきますわ」
頷いたマチルダを、フェリックスとモーリスは不安そうな眼差しで見つめている。
彼らを元気づけるように、マチルダは意識的に口角を上げた。
「大丈夫よ。それほど高い山ではないもの」
いつの間にか夜が明け、眩しい朝陽があたりを照らしている。
エルフが暮らしているという山は、ふもとからでも頂上が見えた。それなりに時間はかかるだろうが、歩けないほどじゃない。
何より、山頂に向けてきちんと整備された道があるのが、マチルダにはありがたい。
「気をつけて、マチルダ」
「はい。行ってまいります」
二人に背を向け、山道を歩き出す。緩やかな上り坂だ。
数歩進んだところで、マチルダは一度振り返った。
フェリックスは馬車に戻らず、じっとマチルダを見つめている。
「フェリックス様!」
大声で名前を呼んでみた。離れているから、フェリックスの顔はよく見えない。
けれど、想像することはできる。きっと、不安そうな顔をしているのだろう。
「貴方の妻を、信じてお待ちくださいませ!」
全力で叫び、マチルダは再び山奥へ向かって歩き出した。
「……思ってたよりきついわね」
一歩進むごとに全身が重くなる。それでも、足を動かさなければ前へは進めない。
それほど高くないと思っていたが、想像していたよりもずっと道のりが長い。
それに、どんどん、霧が濃くなっているわね。
けれど、道だけははっきりと見える……。
いつの間にか周囲は深い霧に包まれていた。しかし、頂上へ続く一本道だけはしっかりと見える。
すう、と大きく息を吸い込むと、澄んだ空気が肺を満たした。
「よし」
頂上まであとどれくらい歩けばいいのか、マチルダには見当もつかない。しかし、歩き続ける覚悟はある。
棒のような足を引きずって、マチルダはひたすら前へ進んだ。
周囲を包んでいた霧が晴れたのは、一瞬のことだった。
そして周りには、色とりどりの花が現れる。
しかも、魔王城にあるような毒々しい色のものではない。もちろん、人間界にあるものとも違う。
「まるで、天界にでも迷い込んだみたいだわ……」
甘い花の香りを嗅いでいると、今までの疲れがあっという間に消えていく。
「貴様、誰じゃ?」
不意に、背後から声が聞こえた。慌てて振り向くと、どこから現れたのか、一人の老婆が立っていた。
いや、ただの老婆ではない。両の耳が鋭くとがっている。
これ、エルフの特徴だわ……!
「ここが、我らエルフの里と分かってきたのか?」
次の瞬間、マチルダはたくさんのエルフたちに囲まれた。
「えっ?」
いつの間に現れたの……?
何もなかったはずの場所に、いきなり現れたとしか思えない。
そしてエルフたちはじわじわとマチルダに近づいてくる。
「誰じゃ、と聞いておる」
老婆の鋭い視線に背筋が冷えた。
ここには今、マチルダの味方は誰もいない。きっと叫んでも、ふもとまで声は届かないだろう。
怯えちゃだめよ、マチルダ。
心の中で呟いて、自分に言い聞かせる。マチルダは今、魔王城の使者としてここへきているのだから。
ピンと背筋を伸ばし、マチルダは老婆を睨み返した。
「わたくし、魔王様の妻ですわ」
エルフたちがざわついたのを肌で感じる。マチルダは指輪をつけた左手を高く掲げた。
「嘘ではないようじゃな。しかし、魔王の妻とやらが、いったい何の用がある?」
「薬をいただきたいのです」
「薬、とな?」
「ええ。魔王城で暮らす、わたくしたちの仲間のために」
マチルダは口の中で舌を噛んだ。そうしないと、身体が震えてしまいそうだったから。
「また薬を奪いにきた、というわけかのう?」
老婆の言葉に、他のエルフたちが殺気立ったのが分かった。
マチルダへ向けられた無数の視線はどれも、震えるほどの悪意に満ちている。
「違うわ。貴方たちを傷つけるつもりは、一切ないの」
「それを信じろと?」
「わたくしが一人でここへきたのがその証拠よ。人間であるわたくしが」
老婆は何も言わず、じっとマチルダを見つめた。
一瞬にも、一時間にも思える時が経った後、老婆がゆっくりと頷く。
「話を聞こう」
「感謝いたしますわ」
老婆はくるりとマチルダに背を向けて歩き始めた。慌てて、その後についていく。
そして大勢のエルフたちも、監視するようにマチルダの周りを歩く。
まるで、囚人かなにかにでもなった気分ね。
そっと右の手のひらで指輪に触れる。一瞬だけ目を閉じて、フェリックスの顔を思い浮かべた。
彼は今、マチルダを信じて待っている。その信頼を裏切るわけにはいかない。
「ここじゃ」
老婆が足を止めたのは、花に囲まれた小屋の前だった。
「入れ」
老婆に促され、小屋の中へ入る。見た目通り、中はかなり狭い。しかし、壁一面に設置された棚には、いくつも薬瓶が並んでいる。
「おぬしらは、そこで待っておれ」
老婆は他のエルフたちにそう告げ、一人で小屋に入ってきた。扉をしっかりと閉め、マチルダを正面から見つめる。
「では、話を聞くとしようかのう」
老婆は小屋の中央にある椅子に座り、向かい側にある椅子を指差した。
座れ、ということなのだろう。
すう、と大きく息を吸い込んだ。値踏みするような眼差しに、優雅な微笑みで応じる。
「単刀直入に言いますわ。わたくしと、取引をしていただきたいの」
「取引?」
「ええ。薬をもらう代わりに、わたくしたちは安全を提供するわ」
風が小屋の窓を叩いた。しかし、老婆は黙り込んだまま動かない。
「……どんな薬が必要なのじゃ?」
どんな、と言われ、マチルダは言葉に詰まってしまった。
エルフの薬なら、ノアの病を治せるかもしれない。
その言葉を信じてここまできたが、そもそも、病の原因もよく分かっていないのだ。
「病人も見ずに、薬を処方することはできん」
「そんな……!」
「当たり前じゃ」
「でしたら、魔王城まできていただけないかしら? そうすれば、きっと症状も分かるはずですわ……!」
ふっ、と老婆は笑った。
「それが罠ではないと、どう証明する気じゃ?」
「え……?」
「会ったばかりのお主を、信用することなどできぬ」
「……分かりましたわ」
心の中で小さく溜息を吐く。
できることなら、脅すような真似はしたくなかった。けれど、仕方ない。
「わたくしが薬を持ち帰らなかった場合、ルーク様がここを襲いにくるわ」
ルーク、という名前を出した瞬間、老婆は椅子から立ち上がった。
「あの、恐ろしい吸血鬼が……」
「ええ。倒れたのは、彼の大切な人なの」
馬車の中でフェリックスから聞いた。
ルークの名は魔王城の外にも広く知られていて、それはエルフの里も例外ではないということを。
そして、過去の記憶から、エルフが吸血鬼を恐れているということも。
「選択肢は二つしかないのよ。わたくしを信じるか、それとも、ルーク様に襲われるか」
怯えた顔の老婆と目が合う。ずきん、と胸が痛んだ。
「さあ、選んで。わたくしと魔王城へ行くか、ここへ残るか」
老婆に向かって右手を差し出す。
震える手で、老婆はマチルダの手を掴んだ。
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