第8話 食事の力
「わ、わ、どうしましょう、お湯がぶくぶくしてきて……っ!」
「あ、なんかこっちは、焦げ臭い匂いがします……!」
助けを求める声が、ほとんど同時に耳に入ってくる。
視線を向けると、それぞれ鍋とフライパンの前に立ち、ハンナとモーリスが右往左往していた。
「ハンナ。それはお湯が沸騰しているだけよ。気にしなくていいわ。それからモーリス、肉は焼く時、ひっくり返さなきゃいけないの」
モーリスの代わりに、フライパンにおいた肉をひっくり返す。調理しやすいように、先程薄く切ったものだ。
片面だけ焼き続けていれば、当然焼いている面は焦げるし、反対側はうまく火が通らない。そんなこと、常識だと思っていた。
しかしどうやら、一切料理をしてこなかった二人には未知のできごとらしい。
「確かに! 奥方様、すごいですね!」
「ありがとう。モーリスは肉が焦げないように、ひっくり返しながら様子を見ていて。火が通ったら、一度火を消していいわ」
「分かりました!」
きらきらとした瞳でほめられると悪い気はしない。それに、手際はかなり悪いけれど、二人ともやる気は十分だ。
大雑把に切った植物を、ハンナが沸騰させたお湯に入れる。素材の味をいかして、野菜スープのようなものを作る予定だ。
「ハンナ、かき混ぜながら様子を見ておいてくれる?」
「はい!」
「ありがとう」
これであとは、肉の味付けだけだ。
「お腹が空いてるし、がっつりした味がいいわよね」
マチルダは真っ黒い塊に手を伸ばす。見た目は完全に炭だが、限りなくニンニクに近い味をしている。
これをすりつぶし、他のものと組み合わせれば、かなり美味しい味に仕上がるはずだ。
なんだか懐かしいわ。こんな風に料理を作るなんて、いつぶりかしら?
母は平民出身で、料理はひととおり作ることができた。父と結婚してからも時折、趣味で食事やお菓子を作ってくれていた。
その影響もあって、マチルダは料理がそれなりに得意なのだ。
「ふふ、いい匂い」
これなら無事、美味しい昼食ができあがるに違いない。
「すごい……!」
できあがった料理を見て、ハンナはぶんぶんと尻尾を激しく振った。
「早く食べたいです!」
「ええ。できたてのうちに食べてしまいましょう。……あ」
「奥方様?」
「ノアさんを呼んできてくれないかしら? せっかくだもの」
元々、美味しいものを食べるような暮らしはしていなかった、とノアは言っていた。
だとすればノアは、美味しいものを食べる喜びを知らない。
それはとても寂しいことのように思えるのだ。
「モーリス、呼んできてよ」
「……ハンナが行って。だって、今たぶん、屋敷にいるし」
「だからあたしも行きたくないんだってば!」
急に言い争いを始めた二人に驚いたが、少し経つと、ハンナが呼びに行くことが決まったようだった。
「ハンナ、屋敷って、もしかして立ち入り禁止の?」
「はい。その、ノア様はルーク様のお屋敷に住んでいらっしゃるので、この時間はそこにいることが多いんです」
「ルーク様……」
フェリックス様が、ここで一番強いと言っていた方だわ。
そして、ノアさんが一緒にいるということは……。
「はい。ノア様の主人の、吸血鬼ですよ」
ハンナは溜息を吐いて、行ってきます、と弱々しい声で言い、厨房を出て行ってしまった。
なんだか、ものすごく悪いことをしてしまったかもしれないわね……。
「連れてきましたよ!」
五分も経たないうちに、笑顔のハンナが戻ってきた。出ていった時の暗い表情を思い出してほっとする。
「ノア様、たまたまお屋敷の外にいたんです!」
「別に、ルーク様は怖くありませんけどね」
ノアの言葉に、ハンナは勢いよく首を横に振った。
「で、昼食ができたと聞いたんですが」
「ええ。わたくし、料理をしてみましたの」
ハンナがノアを呼びに行っている間に、モーリスと二人で料理の盛り付けは終わらせてある。
ノアは一瞬、驚いたように目を見開いた。
「……貴女が?」
「そうですわ。わたくし、料理は得意なの」
そうですか、と頷いたノアの表情は相変わらずだが、ちらちらと何度も料理を見ている。
「さあ、みんなで食事にしましょう」
「な、なにこれ……っ! めちゃくちゃ美味しいです!」
ハンナは大声でそう言いながら、どんどん口の中へ肉を放り込む。モーリスは黙々と、ひたすら食事を続けている。
こんなに喜んでくれるなら、作った甲斐があるというものよね。
スープも味をつけて焼いた肉も、正直、手放しに美味しいとは言えない。けれど朝食と比べたら天と地の差だ。
「……美味しい」
ノアがぼそりと呟いた。スープの入った椀を両手で持ち、大切そうにゆっくりと飲んでいる。
ノアの表情がいつもよりずいぶんと柔らかく見えるのは、きっと気のせいじゃない。
やっぱり、食事の力って偉大だわ。
「ですよね、ノア様! 奥方様って、すごいんですよ。てきぱき動いて、食材を切るのなんかも速くて! まあ、ちょっとだけ、怖かったですけど」
「ハンナ、だめだよ。まあ、同意はするけど」
ハンナとモーリスが顔を見合わせてくすくすと笑い出した。
「ちょっと二人とも、別にわたくしは怖くないわよ」
「すいません、でも、なんか迫力があって。奥方様っていうより、姉御! みたいな感じで!」
ハンナの言葉に、声を上げて笑ったのはノアだ。驚いてノアを見ると、少しだけ気まずそうに目を逸らされる。
ノアさんって、笑うとずいぶん、雰囲気が変わるのね。
作り物めいた美貌とあいまって、無表情のノアは冷たそうに見える。けれど笑顔になると、とても柔らかくて、華やいだ雰囲気を纏っていた。
「確かに、奥方様、よりはしっくりくるかもしれませんね。魔王城へくる途中も眠るくらい、度胸のあるお方ですし」
「ノアさん……っ!」
からかうようなノアの言葉に、ハンナとモーリスが一斉に噴き出す。
「あ、あれは長旅だったから! わたくしだって別に、寝ようとしていたわけじゃないわ」
「無意識のうちに眠れるのも、かなりのものだと思いますが」
「それは……!」
言われてみれば、いつの間にか眠っていたマチルダはかなり図太い精神の持ち主なのかもしれない。
「あたし、奥方様のこと姉御って呼んでもいいですか?」
きらきらとした眼差しでハンナに見つめられたら、頷く以外の選択肢はない。
そんなマチルダを見て、モーリスは大笑いし、ノアは小さく笑った。
なんだか……すごく、いい雰囲気なんじゃないの?
美味しいものをみんなで食べて、笑いながら楽しい時間を過ごす。
些細なことかもしれないけれど、たぶんとても重要なことだ。
「姉御! あたし、おかわりもらっていいですか?」
皿を空っぽにしたハンナが立ち上がる。いいわよ、と答えると、待ってください、とノアが片手を上げた。
「私の分も残しておいてください」
ノアの昼食はまだ、半分以上残っている。それなのに彼は、おかわりする気満々らしい。
「安心して、みんな。まだまだ、たっぷりあるから!」
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