第6話 わたくしにできること

「きてくれてありがとう、マチルダ」

「いえ。こちらこそ、呼んでくれてありがとうございますわ」


 目が合うと、フェリックスは柔らかく微笑んだ。そしてマチルダの左薬指にはめられた指輪を見て、安心したように頷く。

 その表情を見るだけで、ぎゅうっ、と胸が強く締めつけられた。


「魔王城はどうだい?」

「えっと……ハンナが案内してくれて、一通り見てまわりましたわ。中に入れないところもありましたけれど」

「うん。僕も、入れない場所はあるんだ」

「えっ? フェリックス様も?」


 ここは魔王城、つまり魔王……フェリックスの城だ。それなのに、フェリックスでも入れない場所があるなんて。

 驚いていると、フェリックスは自嘲気味に笑った。


「僕は、出来損ないの魔王だから」

「フェリックス様……」

「言っただろう? 魔界は今、統制がとれていないと。それも、魔王の持つ力が弱いからなんだ」


 フェリックスが俯いて、表情が見えなくなる。膝の上で握られた拳がわずかに震えているように思えた。


「僕には、ほとんど力がない。歴代最弱の魔王なんだ。とても、皆を従えられるような力はない」

「そんな……」

「一応、魔王城の主は僕だ。でもみんな、僕よりもずっとルークに怯えている。彼はここで、一番強いから」


 ルーク……確か、敷地内にある屋敷の持ち主だ。ここには入れないと、ハンナが話していたのを覚えている。


「でも、魔力の過多で上下関係ができてしまう世界なんて、僕は間違ってると思う」


 顔を上げたフェリックスの瞳は、爛々と輝いていた。


「僕は、魔力が弱いものでも、安心して暮らせる世界を作りたいんだ」


 弱いものでも、安心して暮らせる世界……。

 頭の中に、石を投げられ、怯えていたハンナの顔が浮かぶ。もしそんな世界になれば、彼女はきっと石を投げられることもないだろう。


 ハンナは、フェリックスに拾われたと言っていた。きっと、フェリックスがハンナにも安心して暮らしてほしいと望んだからだ。

 もしかしたら、フェリックスはハンナに自分を重ねたのかもしれない。


「僕は、今までの魔王のように、力でみんなをまとめることはできない。だけど、魔王として、よりいい社会を作りたいと思ってる」

「フェリックス様……」

「だから、人間界のことが知りたかったんだ」


 熱のこもった瞳で見つめられ、鼓動が速くなる。ぐいっ、とフェリックスが身を乗り出したせいで、肩と肩がぶつかってしまった。


「ごめんね、マチルダ」

「いえ」


 少し触れただけで、痛みは全くなかった。謝るようなことじゃない。


 ……いや、そうじゃなくて、触れてしまったから、謝ったのかしら?


 プロポーズをされ、指輪をもらい、周囲には奥方と呼ばれている。

 けれど部屋は別で、まだ唇を合わせたことすらない。

 無理やり手籠めにせず、フェリックスはマチルダを丁重に扱ってくれている。ありがたいと思うのに、同時に寂しさを感じるのは我儘だろうか。


「力のない魔王なんて、情けないと思うかな」

「そんなことありませんわ!」


 反射的に、マチルダはそう叫んでいた。


「確かに、魔力が強いこと……力が強いことは、立派なこと。けれど、全ての人が皆、力を持っているわけじゃありませんもの。

 むしろ、そうじゃない人の方がずっと多いはず。

 だからこそ人々の上に立つ者は、弱い人のことを考えなくてはいけませんわ」


 父がよく言っていたことだ。上に立つ者は、下の者のことをきちんと考えなくてはならないと。

 上級貴族に対する愚痴もかなり入っていたけれど、父の言葉をもっともだと感じた。


「マチルダ……」

「フェリックス様の夢、立派だと思いますわ」

「僕の夢?」

「ええ。よりよい社会を築くことが夢なんて、これ以上に立派な王はいませんわ!」


 フェリックスの表情がだんだんと明るくなっていき、とうとう、声を出して笑い始めた。


「ありがとう、マチルダ。そう言ってもらえると嬉しいよ」

「だって、本当のことですもの」

「マチルダがきてくれて、本当によかったよ」


 わたくし、この方のお役に立ちたい。


 心の底から、そう感じた。


「わたくしも、フェリックス様の夢を叶えるために尽力しますわ」

「……マチルダ。抱き締めてもいい?」

「えっ?」


 頷くよりも先に、フェリックスに抱き締められた。人のような温もりはないけれど、ひんやりとした感触が心地いい。


 なんだか、わたくしだけ汗臭い気がしますわ……!


 フェリックスは冷たいのに、どきどきして、マチルダはどんどん熱くなってしまう。全身の毛穴から、一気に汗が出てきた。


「マチルダは温かいな」

「え、ええ。人間は、どうやら魔物に比べると体温が高いようですわ」

「それだけじゃない。マチルダといると、心が温められるよ」


 甘い囁きを残し、フェリックスがそっと離れていく。名残惜しくて、思わず手を伸ばしてしまいそうになった。


 そういえば、誰かから抱き締められたのなんていつぶりかしら?


「本当に、妻としてきてくれたのが君でよかった」




「うーん……」


 フェリックスの部屋から出てすぐ、マチルダは頭を抱えた。

 尽力する、と言ったものの、具体的に何をするべきかが、全く頭に浮かんでこないのだ。


「フェリックス様は少しずつ、仲間を集めようとしているみたいだけれど……」


 ハンナやモーリスも、フェリックスの理想に賛同する仲間だという。

 フェリックスはこの城に考えを同じくする同志を集め、組織作りを始めたいと考えているらしい。


「でもまだ、ここにいる魔物たちも考えは一つじゃないのよね」


 規則やルールを作る意味がないほど、ここで暮らしている魔物たちは統制がとれていない。

 そんな中で、いったいマチルダに何ができるのだろう。


「……あっ!」


 一つの考えが、マチルダの頭の中に浮かんだ。

 料理だ。

 現在、食堂には食料が保管されていて、各自が好きな時間に食事をとるためだけの場所になっている。

 けれどもし、みんなで、同じ時間に食事をとるようになれば、仲間意識が深まるのではないだろうか。


「人間の常識と魔物の常識が一緒かは分からないけれど、やってみる価値はあるわよね」


 それに今は、他にやることもない。


「よし。わたくしにできることから、コツコツ始めるわよ……!」


 そう呟くと、マチルダは厨房に向かって走り出した。

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