探偵は動かない
駒野沙月
序章
「やあ、明菜クン。今日はどんな事件を持ってきてくれたのかな」
壁も天井も石作りの小さな部屋で、彼はその真ん中で安楽椅子を揺らしつつも、鷹揚な態度のままで私を迎えた。
この小さな部屋に並ぶのは、数え切れないほどの本が窮屈そうに詰め込まれた本棚と、洒落っ気のない寝台、そして簡素な机くらい。必要最低限の家具だけが詰め込まれた部屋は、格子の嵌め込まれた小さな窓から差す陽光に照らされていた。
基本的に質素な物品が並ぶ中、彼のお気に入りとなっているアンティークな意匠の安楽椅子だけが、この部屋で異彩を放っている。
「…相変わらずお元気そうで」
「相変わらずって言ってもねえ…。つい先週会ったばかりじゃないか」
安楽椅子の上で偉そうに足を組んで私を見上げるこの男は
結局、こんな場所に居ても、彼の傲岸不遜さは身を潜めるということを知らなかった。見ている側としては安心すると言えば安心するが、あまりにも普段と変わらないその様子は、どこか危うさを内包しているようにも思えてならない。
「ああ、そういえば昇進したんだってね。おめでとう、明菜クン」
思い出したようにそう言った彼は、椅子の上で軽く手を叩いていた。自分から話題を振った割には然程興味もなさそうな態度だが、私は知っている。これでも一応、彼なりに祝福してくれているのだと。
「…よくご存知ですね」
「この前来た警官が言ってたんだ。ほらあの、髪が長めで不真面目そうな奴」
「…高橋ですか。巡査部長の」
「そうそう、それそれ」
そういえば、色々と観察するのは好きなくせに、人を覚えるという作業はめっきり苦手な人であった。それこそ、初めて出会った学生時代からずっと。
時折話くらいはしていたであろう同輩の方々のことも、その容姿と頭脳目当てに近づいてくる他人のことも、彼は誰一人として覚えようとはしなかったそうだ。
だが、そんな中では珍しく、私のことは名前も含めて記憶していたらしい
かつての先輩に初めて事件の協力を依頼しに尋ねた時、どうせ覚えていないだろう、と初対面として挨拶した私に、彼は突然「おや、金森クンじゃないか」と思い出したかのように告げたのである。
一体私の何が彼のお眼鏡に叶ったのか分からないが、そのお陰か、警官となった今でもこうして度々顔を合わせることができている。…いや、『警官になったから』、今もこうして彼と顔を合わせていられる、と言った方が正確だろうか。
「今日は事件はありません。貴方のお気に召すような難事件がぽんぽん起こってもらっても困りますよ」
「つまらないなあ」
「子供じゃないんですから、そういうことは言わないでください。もういい歳でしょう、貴方も」
「だって、此処退屈だから。面白い事件の一つや二つ、持ってきて貰わなきゃ割に合わないよ」
「…本当にお変わりないようで」
多くの探偵は仕事の時、足で稼ぐ。現場検証に次ぐ現場検証。周囲への聞き込み。時には実験のようなことをしながらも、事件を覆う難解な謎を解き明かしていくのが彼らの仕事だ。
しかし、彼の場合は、よっぽどのことでもない限り家(探偵事務所)から出てこない。迷宮入り一歩手前の事件に頭を抱えた刑事が苦渋の果てに持ち込む事件を、その話だけ聞いて解決する。それが、彼の探偵としてのスタンスだった。
それっぽい言い方をするならば、安楽椅子探偵という奴になるのだろうか?私から言わせれば、ただの引きこもりでしかないが。
警察官の間では、自分たちが汗水垂らして手に入れた情報を聞くだけ聞いて、本人は一切の苦労もせずに事件を解決させてしまう彼を嫌う者も多い。
幸か不幸か、本人は名声だとか栄誉だとかいうものにこれっぽっちも興味はなかったから、稀代の某名探偵がそうしていたように、手柄は全て警察に譲っていた。それもあってか、「そういう」意味では色々と気に入られていたようだが。
『面白い謎が解ければそれでいい』
時には自分のことを目の敵にし、時には甘い蜜を吸おうと寄ってくる身勝手な人間たちのことなどは歯牙にもかけず、彼は会う度にそう言っていたものだ。
たとえ仕事が来なくとも、貧乏によって飢え死に寸前の事態に陥ろうとも。自らの琴線に触れる謎だけを追い求める。それが阿久津大輔という男である。…まあ、聞いた話によれば、前者はともかく後者に関しては決して起こらなかったらしいが。
「仕方ないじゃないか。僕はこの檻から出られないんだから」
…そう。どんな事態が起ころうとも、彼のそんな気質は決して変わることはなかったのである。
─たとえ、自身が独房の中に囚われていようとも。
今の彼の身分は私立探偵ではなく、一人の囚人にすぎない。故に、現在私と彼が対面する時は、いつ如何なる時にも鉄の格子が間に存在している。
そしてきっと、それが消えることはないのだろう。
今から数年ほど前、とある場所で殺人事件が起こった。
詳しくは明言できないので表現をぼかしておくが、その場所では、とある人物が包丁で刺殺されていた。その現場はあまりにも凄惨で、犯人は一体どれだけの恨みを抱いていたのだろうと、当時は誰もが怖れと疑問を抱かされていたものだ。
─犯人は阿久津探偵である─
不躾に彼を指さし、関係者全員の前で宣言したのは、彼とは別の私立探偵であった。探偵は容疑者にはなり得ない、なんていう探偵小説お決まりの展開は、この世界には適応されなかったらしい。
結局、彼からすれば青二才でしかない青年探偵に犯人呼ばわりされた彼は、それを特に否定も肯定もしなかった。警官による拘束もやけにあっさりと受け入れ、彼は殺害犯として拘留された。
そして何度かの移送を重ねた上で、今のこの状況に至るのである。
現在彼と対面できるのは、私を含めた一部の関係者のみ。その中でも更に、格子戸の向こうへ立ち入ることを許されるのは、ほんの数人だ。
別に見張りの警官が四六時中控えている訳ではないし、部屋は彼のリクエストに合わせて上層部によって支給された物品で溢れているから、彼ほどの頭脳の持ち主であれば、それらを上手く使って脱出するくらいはわけないことだろう。
しかし、彼は決してこの場所から出ようとはしなかった。いつだったか、私の目の前で「此処も案外悪くないね」なんて言っていたくらいだ。…相変わらず、正気とはかけ離れた人である。
あの犯行は、彼であるはずがない。ただでさえ他人に興味を抱くことのない彼に、そのようなことをする意味はないのだから。
ただ、それを証明するだけの証拠が見当たらない。今も私はその事件について独自に調べているのだけれど、何故か毎回毎回邪魔が入ってしまって進まないのだ。
もしかして、あの事件はただの警官ごときの手には余るのだろうか―そんな疑念に苛まれた経験は、一度や二度ではない。
私の口からそれを聞いて、彼は「それなら期待し過ぎずに待っていることにするよ」と、然程期待した様子もなく笑っていた。
「じゃあ、今日は一体何の用だい?君だって暇じゃないだろう」
「ええ、貴方よりは。…私はただ、貴方の様子を見に来ただけですよ」
「ふうん。じゃあ、少し話し相手にでもなっておくれよ。ここの本も読み切ってしまってね、退屈してたんだ」
少し機嫌を直したらしい彼が椅子の上で体を動かせば、安楽椅子はぎこ、と音を立てる。
彼の背後に見える本棚には、彼の希望によって贈られた本がぎっしり詰まっている。あれだけ贈られたというのに、もう読み切ってしまったのか─と内心呆れつつも、私は彼の傍へと近づいていった。
彼愛用の安楽椅子は、上層部によって直々に贈られた支給品の1つだった。どうやら彼はこれをいたく気に入ったようで、それ以来この部屋ではそれをゆったりと揺らしながら、読書をしたり物思いに耽る彼の様子が度々見られる。
だが、私にはそれが何やら不吉なもののように思えてならない。まるで、彼をこの場所に縛り付ける電気椅子のように、私には見えるのだ。
探偵は動かない 駒野沙月 @Satsuki_Komano
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