やりかねないという想像

浅賀ソルト

やりかねないという想像

社内のコミュニケーション用チャットツール——弊社ではslack——のほぼ全社員向けのチャンネルに突然社長が、「新型コロナワクチンを接種した者は自宅待機」と書き込んだ。

こういう件でタマホームが2021年にやらかしたのだけど、弊社では2023年の9月になってのまさかの周回遅れである。

リモートワークも活用されてきていて自宅勤務の人間もIT部門を中心に何人かいたけど——あと、取引先が、「じゃあ会議はリモートで」と言うことも多くなったので完全な対面業務復活は未来永劫なりそうにない——自分も含めて多くの人間がオフィス業務に戻ってきていた。

社長のポストにリアクションで『いいね』とか『了解しました』みたいなのがたくさんついた。

空気を読まないのか読んでいるからなのか、IT部門の輩は『お前は何を言ってるんだ』というすごいリアクションを付けたりもしていた。

私はちょっと時間を置いて、みんなが一番多く付けているリアクションを増やすだけにした。なんのマークか覚えていないが『既読』みたいな奴だ。

そこからいくつか社長が陰謀論をいくつか垂れ流し、マスコミが報じない有益な情報とやらのURLがいくつか投稿された。

自分はそのリンクを開きもしなかった。

当然だが話題沸騰である。

「あの社長の陰謀論、本気なのかね?」

隣の席の同僚、四條がどこで掴んだ情報なのか、「いま、総務と広報が必死に確認しているらしい」と言った。

「どういうこと?」

「あれのスクショが文春に流れてみろ、いいカモだ」

「あー」文春とか別世界だと思ったけど、そういえばそうか。

「タマホームも文春だったんだぞ」

「ああ、そうなんだ。……すまん、四條、この先ってどうなるんだ?」

「うーん。文春に載らないにしても、どこかのSNSには流出するだろうな。そうすると取引先からも問い合わせが来て、ある程度は信用に傷がつく。あと、下手したら逆に『真実に気づいた仲間』ってことで怪しい取引先が増えるかもしれない。ま、業績に響いて給料が下がるのは確実じゃないか?」

ポコンと通知がきて、社長の新情報が届いた。

『総務の樫山さんはすでにワクチン接種済みで手遅れでした。自宅は汚染されています。○○には近づかないように』○○には郵便番号から部屋番号までの完全な住所が書かれていた上に後ろに電話番号まで書いてあった。

私はパソコンから顔を離して隣の四條と目を合わせた。まるでコントだった。思わずぷっと笑ってしまった。

「なんだよ、今の間は」

「そっちこそ」

「ん、これはなんだ?」私は言った。「社長は……」えーと……「気が狂ったのか?」

「言葉を選べ」四條は笑った。

「すまん。咄嗟に語彙がおかしくなった」

「なにか、急だな。いきなり人がこうなるというのもおかしな話だ」

私はパソコンを見ていた。いまの社長の投稿にも『既読』『了解しました』『いいね』とか、笑顔のような好意的なマークがついている。否定的なものは付いていない。IT部門の理系人間も反応していない。

ツールで、そういう好意的な反応をした人間の名前も確認できるようになっている。私は誰が好意的なのか名前を確認していった。四條の反応はなかったが、それなりの知り合いも何人か見つけられた。

とはいえ真意は分からない。まさか本気で同意している人間ではないと思うが、かといって全員が忖度しているとも限らないのがおっかないところだ。何人かは本気で賛同しているかもしれない。

さらに通知が来た。

「お」隣の四條が声をあげた。

『総務です。社長からパソコンを取り上げました。対応しますので本件に関してはしばらく問い合わせをお控えください』

「粛清されたか……」

私が冗談で言うと、隣の四條が、「これが終わったら結婚するって言ってたのにな……」と合わせてきた。

「どうなるんだ? 副社長が社長になるのか?」

石関いしぜきさんは真っ先に『かしこまりました』リアクション付けてたぞ」

そこに突然、きゃーという女の悲鳴が聞こえてきた。社長室は2階上の5階だ。非常階段の方から声が響いてきた。

3階の全員が無言になり、息を飲んだ。フロアが静まり返り、空調とパソコンの音がやけに大きく聞こえた。みんなが非常階段の方を見ていた。

バタバタと人が走る音がする。オフィスビルではまず聞かない音だ。

誰か分からないが「おいおいおい」という声が同じフロアから聞こえた。

人々がなんとなくふらふらと歩き始め、それから少しずつエレベーターと非常階段の方に集まり始めた。流れができると殺到してパニックになるのに時間はかからなかった。

誰かが「逃げろっ!」と鋭く叫んだ。

がたがたがたと音がして100人近い人間がエレベーターに殺到した。

始めは私も含めてぼんやりしている人が多かった。言葉にすると、「え? え? え?」という感じだ。しかし人が移動を始めると私も含めてじっとしていることもできなくなり、非常階段の方に移動を始めた。このビルは大きいので非常階段も東西に2箇所ある。私は絶対にエレベーターは無理だと思ってすぐに自分の席から近い西の非常階段へと向かった。すでに廊下に出る扉はパンクしていて廊下に人が溢れている状態だった。すぐには出られそうにない。

四條も同じように移動を始めたが、廊下の混雑を見て早々に諦め、スマホでその様子を写真に撮り始めた。

よく見るとそういう撮影班もけっこうな数がいた。私も真似して写真に撮ろうとスマホを取り出した。

どこかで人が集団で走っている音がする。悲鳴と怒号のようなものも聞こえる。非常階段の方だ。どうやらみんなが押しあいながら階段を下りているらしい。

押すな。焦るな。やめろ。落ち着け。おい、いてえだろ! やめて。痛い痛い痛い。ちょっと、やめろ。どうなってるんだ! 苦しい。助けて。

それでもなお階段に向かって押し入っていく人と、さすがにそれらの声に引いてしまって遠くからその様子を見るだけの人に別れた。

あとほかに2人か3人、本当に何事もなく我関せずといった様子でパソコンに向かって仕事をしている人もいた。それはそれでちょっとした恐怖だ。

「ええええ?」まさに私は困惑といった感じでそんな階段に殺到する人々の背中を撮った。カシャ。

廊下に出て非常階段に向かう人々の口から状況の噂話が流れてきた。

「社長はこの日のために準備してきたらしい」

「玄関は封鎖されている。ただし、裏の非常口は大丈夫」

「陰謀論の仲間が社内にいて、そいつらが玄関を封鎖している」

「副社長の石関さんや、会計の占部さんなんかの経営層が陰謀論者だったみたいだ」

話を聞いているうちに、私もこれはまずいと思った。ぼけーっと状況を見ていたら手遅れになる。不本意だが自分も人も非常階段に向かうしかなさそうだ。

私は廊下で詰まっているおしくらまんじゅうに参加しようと小走りになった。

しかし、人混みが非常階段からの強い力に押し返されてぐぐぐっといううねりになり、逆に廊下から何人かオフィスの中に戻されてそのままドミノ倒しになった。入口近くのデスクが押されて、その上にあった文房具が派手に音を立てた。

「うわーっ」という悲鳴になった。

バキッという音がして、痛い痛い痛いという悲鳴が聞こえた。

よく見ると廊下のガラス扉に女性が変な形で押さえつけられていて、顔が取っ手に当たって、その角が目に入っているような入っていないような、とにかく非常に危険な状態になっていた。

「痛い痛い痛い!」

もちろん私のいる場所からはどうにもできない。

女性の状態に気づいた近くの人が、「危ないって! とにかく押すな! 押!す!な!」と怒鳴り声を上げていた。

オフィスビルのガラス扉は頑丈である。これが日本家屋の襖や障子であれば、全部が外れてがたがたとなるところだが、ちっきりした構造物であるそれに、女性はがっつりと押しつけられていた。ガラスに貼り付き、さらに取っ手の部分が顔の凹凸にめり込んでいった。

私はまったく動けずにそれを見ていたが、最後の最後に目を逸らしてそのまま目を閉じた。

「おい、やめろ!」誰かの怒鳴り声が相変わらず聞こえていた。

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