第1章 理不尽な婚約破棄と一日だけの婚約者(4)


   ◇◇◇


 しばらく挨拶を続けた後で、ルードランはマティマナを特別な控え室へと連れ込んだ。

「一休みしようか。ここなら誰にも邪魔されないよ」

 食べやすそうな軽食が用意されていた。飲み物も好きなものが飲めるように、取りそろえられている。

 使用人などの姿はなく、誰かが入り込んでくる心配もないようだ。

 ルードランは椅子を引き、マティマナに座るよう促してくれた。そして自分は斜め隣の場所に座る。

「あ、飲み物、嬉しいです」

 緊張が続いて喉がカラカラだ。

 ホッとして飲み物に口をつけた。そんなマティマナの顔を、ルードランはじっと見つめている。

「改めて、僕と本格的に婚約してほしい。結婚しよう?」

 杯を卓へと置いた機会に、ルードランはマティマナの両の手を取り、当然のことのように笑みを向けて告げた。

 マティマナは驚きに緑の瞳をみはる。うたげのあいだだけ婚約者のフリをするというには無理があり、引っ込みがつかなくなったのだろうか?

 願ってもない、というより、下級貴族にとってあまりに過分すぎてマティマナは困惑していた。ただ、いつの間にかルードランには、すっかり惹かれてしまっている。大貴族の当主夫妻だというのにルードランの父母も、なにやらとても気さくだった。

 マティマナの手を取ったまま、向けてくるルードランの熱っぽい視線は懇願するかのようだ。

 確かに、夜会で大々的に紹介してしまったから、逃れ難い事態だ。一日だけの婚約者だったとバレたりしたら、マティマナはともかく、ルードランには多々のさげすみの視線が向けられることだろう。

「下級貴族ですよ、わたし? ライセル家に嫁ぐなんて畏れ多すぎです!」

 おろおろするものの、手を取られているので逃げられない。

「別に、貴族でなかろうと構わないよ? なにしろ、便利なお告げっていう言葉があるからね」

 ルードランは笑みを深める。

 一日だけ、と言いながら、ルードランは最初から正式に婚約するつもりだった節がある。だから少しもいとわず公の場で婚約披露などしたのだろう。とはいえ、本当にわたしでいいのだろうか? 一体、何を気に入ってくれたのだろう?

 ルードランがどうやら本気らしいのはわかったが、選んでもらえた理由がわからない。

「本当にお告げだったのですか?」

「それだけは、まぁ、本当なんだ」

 ルードランは神妙に応えた。お告げどおりの出逢い、ということで、ルードランはマティマナが正式の婚約者として相応しいと確信した、というところだろうか。

 なんだか、とても不思議な気分だった。

 ただ、ルーさまと一緒にいると、ドキドキもするのだけど、とても穏やかな気持ちになっているのよね。

 こんな特殊な状況なのに心は軽やかで楽しい。

 楽しい? 楽しいだなんて、そんな気持ち、とても久しぶり。

 いつ以来だろう?

 誰かの役に立ちたい思いは常にあったから、親の決めた婚約に従った。だが、そこにはカケラの喜びも楽しさもなかった。

 だがルードランとであれば思いを偽ることなく自分らしい生き方ができるような、そんな予感がある。

 ルードランの麗しい容姿にれ、陶然としている自分もいた。幸せな夢にとらえられてしまったような気分だ。

 引くに引けない? いや、そんな状況に後押しされてもいるが、それよりも甘美な心の動きにあらがえない。

 この方と共に歩けたら、どんなに素晴らしい世界が眼前に拡がるだろう?

 今夜はずっと、何度も、そんな思いが心をかすめていった。

 マティマナは一呼吸して心を決める。

「ルーさまに相応しい令嬢になれるよう、必死に務めます」

 ルードランには正直なところ心惹かれすぎていた。苦しいくらいときめいている。断る理由など、どこにもなかった。

「ありがとう! 嬉しいよ! 婚約成立だ!」

 ルードランはとして告げ、握っているマティマナの手を取ったまま大きく振る。何気に無邪気で良い感じだ。

「はい! 努力いたします!」

 とはいうものの、富豪貴族や上級貴族ですらない下級貴族の令嬢が王家由来の大貴族ライセル家に嫁ぐと本格的に知れ渡れば大騒ぎになるだろう。外部からだけでなく、ライセル家の内部からも苦言が呈されるに違いない。

「お告げの効果は絶大だけど、ただ、何人かは説得しないといけないね」

 ルードランは、にっこり笑って愉しそうに告げる。

 ライセル家の当主夫妻以外に、説得しないといけない人物がいるということのようだ。

「説得ぅ? わたしがですか?」

「まぁ、君なら大丈夫!」

 ルードランは満面の笑みで、婚約が一日だけでなく正式になったことを非常によろこんでくれていた。


 ライセル家へ嫁入りしたら、王宮へも出入りする。想像したことすらない世界だ。

 今までの気楽だった下級貴族生活から遠く離れ、全く新しい世界で全く別の人生を生きることになる。

 怖いと思う反面、マティマナは大きな希望も感じていた。ルードランのためになら、どんなことでも頑張れそうな気がする。

「そうだ。面白い魔法が使えるのだったね」

 不意にルードランは思い出したように呟いた。

「あ、でも、雑用魔法ですよ? こんな魔法のこと知られたら、ルーさまのお立場が危ういです」

「そういえば、ログス家は、いつも裏方の手伝いをしてくれているね」

「はい。手伝いは得意ですし。ですが裏方でしたから、ルーさまのお顔は存じ上げておりませんでした」

 今も、家人は手伝い側で大忙しだろう。

「ぜひ明日にでも、力を貸してほしいんだ」

 コッソリとした口調で囁く。ルードランはマティマナの隣で魔法を見ていた。他の誰にも、使っていることがバレたことのない魔法なのに不思議だ。しかし、ルードランは雑用魔法が何かの役に立つと考えているらしかった。

「はい。わたしにできることでしたら、なんなりと」

 雑用魔法で力が貸せるということなのだろうか?

 ただ、ルードランの何かを確信したような笑みを見ていると、マティマナは何事も無事にこなせるような、そんな気分になっていた。


 夜会の後は、ライセル家の別棟にある客間に泊まることになった。

 手伝いに駆り出されたときも、泊まり込みにはとても良い部屋が用意されたが、ルードランの婚約者ということで、豪華すぎる部屋になっている。

 夜会の高揚感と戸惑いが覚めやらぬうち、手伝いに来ている家人に、そっと逢いに行くこともできた。

 今回ログス家からは、母と、別の貴族に嫁いだマティマナの姉、それと弟が手伝いに入っていた。

 裏方でもマティマナがルードランの婚約者だとわかり、大騒ぎになっていたようだ。

「本当だったのね」

 豪華なくつろまとったマティマナの姿を眺めながら、母は、驚愕した表情のままだ。

 夜会での重い頭飾りなどは外され、身体に残る飾りはマティマナが元々身につけていた右耳のじょうえんに小さく付いた金細工風の飾りのみだ。

「近々、ログス家は上級貴族に格上げですって」

「あら、それだと手伝いに来られないわね」

 母は、ライセル家の裏方の手伝いができなくなることを残念がっている。

「あ、まぁ、そうだけど、今度は夜会に参加しなくちゃよ? 何かと付き合いは増えると思う」

 ルードランの婚約者の家人だから賓客として接待される側となるし、夜会などへの参加は必須だ。裏方などしている暇はない。なにしろルードランはライセル家の跡取り息子で、マティマナはその婚約者となった。ログス家は、やがてライセル家と親戚になる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る