第1章 理不尽な婚約破棄と一日だけの婚約者(3)

 会場最前には豪華なしつらえでライセル家のための一角が用意されていた。

 そこでカチコチになりつつマティマナが挨拶すると、意外にもルードランの父母である現ライセル家当主夫妻は、にこにこで、とてもご機嫌だ。

「ルードランが旅装束で捕まえた婚約者ならば、ライセル家の威光をカサに着ようとしている者ではないから安心だ」

 ライセル家当主マルゲーツ・ライセルは、威厳ある豪華衣装でたたずみながらうれしそうな親しみの感じられる声をかけてくれた。

「本当に。良いご縁です」

 ライセル夫人リサーナは、満面の笑みだ。マティマナへと優しい笑みを向けて満足そうにしている。

「バザックスは来ていないのだね」

 ルードランは、マティマナの手を取ったまま、父であるライセル当主へと問いを向けていた。バザックスはルードランの弟だ。

「ああ、こもりっきりで何やら研究しているよ」

 少しためいき交じりにはつらつとした印象の当主は応えた。

「少しは片づけをさせてほしいのですけどね」

 研究に夢中で部屋は散らかり放題らしく、ルードランの母リサーナは夫の隣ですこぶる心配そうな面持ちだ。

 華やかな王家由来の大貴族でも、いやだからこそ、抱える悩みは大きいに違いない。


 みやびな曲が奏でられ、会場の中央では踊る者たちが多い。石材の床にゆったりとした踊りの足音が響いていた。

 マティマナは、ルードランに連れられて会場を巡っている。ずっと手を取られたまま。触れ合う手の感触は、それだけで温かな思いを心に運んだ。

 なぜ、この感触だけで、こんなに幸せな気持ちになるのかしら? たった一日の婚約者のフリなのに……。

 ライセル家の方々も、温かく迎えてくれていた。

 元より夜会を楽しむどころではなくなっていたが、ルードランの一挙一動、交わす言葉のひとつひとつがきらめき、心をくすぐっている。

 他の客に対応するときはキリッとして、柔らかながら威厳も感じさせる態度だ。だが、マティマナへと向けられるルードランの笑みは極上に優しく、声音は穏やかだった。

 一日だけ。それを楽しむつもりが、だんだんと別れがつらくなっている。

 え、わたし、なにを考えているの?

 ルーさまはライセル家の跡取り息子……。

 一日だけの婚約者になれただけでも、畏れ多すぎる。光栄すぎる出来事だ。

 思いに心を乱されるマティマナの隣で、ルードランは引っ切りなしに声をかけられていた。好奇の眼差しが、あちこちからマティマナに注がれている。マティマナは、必死に平静を装いながら、にこやかな表情を保つ。

(あっ!)

 マティマナは心のなかで小さく声をたてた。

 眼の端に入ったのは、客の接待をしている侍女の着つけ。背で結び目がズレている──。マティマナは、こっそり魔法でキレイなちょうむすびになるように直した。

 持たされた扇が、良い感じで魔法のつえのように使えている。とはいえ、この雑用魔法は誰の目にも見えない。特に決まった動作をする必要も呪文もないから、いつ魔法を使ったのか誰にもバレずに済む。

「面白い魔法を使うのだね」

 ルードランが、耳打ちするように囁いた。

 え? ウソっ! 今の、わたしがやったってバレたの?

 マティマナは驚いてルードランを見上げる。

 ずっと、魔法を使っていたね、と、歩きだしながらルードランは好意的な視線でそう言った。

 落ちているゴミの片づけ、どんちょうの繕い、ちょっとした卓にかけられた布の角度。こっそり、きっちり直していた。卓から落ちたものを誰にも気づかれないうちに元に戻したり。

 隠しているのに、それらもルードランにはバレていたようだ。

「ルードランさま」

「ルーでいいよ?」

「あ、えと、ルーさま」

「そうそう」

「ルーさま、どうか魔法のことは、ご内密に」

「どうして? 素晴らしい魔法だと思うよ?」

 内密にも何も、ライセル家の跡取り息子に一番バレてはいけなかった気がする。誰よりも隠すべき相手だったはずだ。

 だが、マティマナは雑用魔法を密かに気に入っているから、褒められれば素直に嬉しい。

「そんな風に言っていただけたの、初めてです」

 ついつい幸せな気分になって笑みが深まってしまう。ルードランには魔法を隠さなくていいのだと思うと、不思議な温かさで心が満ちた。


 夜会は華やかな立食形式だ。

 壁際に何台も据えられた立派な大卓には、豪華な料理が美しく並べられている。

 飲み物も豊富で、酒類も振る舞われていた。

 複数の綺麗に着飾った令嬢たちが料理に群がり、黙々と食べているような姿が目につく。

「ルードランさま……っ、どうして婚約なんてっ」

「下級貴族でいいなら、私だって……」

「……ルードラン様! ああ、なんてこと!」

 時々、聞こえてくる言葉の切れ端から、ルードランを狙っていた貴族の令嬢たちが、落胆して食欲に走っているらしいとわかった。

 マティマナの姿を見掛けると、恨めしそうな視線を突き刺してくる。

 今日の夜会には、ルードランが旅から戻って参加することは告知されていた。だから当然、ルードラン狙いの令嬢たちが大挙して押しかけてきている。婚約者を連れてくるなどとは情報が得られなかった者たちだ。

 ザクレスに連れられて夜会に来たときはいつも放置されていたから、マティマナはひっそりと料理を堪能していたものだ。ただ、こんな風にたくさんの令嬢たちが食べまくっているのは珍しい。

 とはいえ豪華料理も今回はとても食べている余裕などなさそうだ。会場にいれば、ルードランの元へと引っ切りなしに客が挨拶に訪れるし、マティマナには常に視線が向けられている。

 しかしドキドキが止まらないのはもはや、夜会の緊張感や好奇な視線にさらされているせいではなくなっていた。

 隣のルードランの仕草、客に応対している凛と響く綺麗な声。マティマナに向けられる優しい笑み。

 なぜ、こんなにも良くしてくれるのかしら?

 マティマナを紹介するときの、誇らしげで幸せそうなルードランの表情。マティマナは紹介された者に対して短く名乗り礼をしながら、意識はルードランへと釘づけだった。

「とても豪華な夜会ですね」

 マティマナは何気なく呟いた。こんなに雲の上の存在のはずなのに、ルードランと一緒にいると不思議と心が和み、温かい思いで満たされていた。

「マティマナがいてくれるから、豪華さが増したようだよ?」

 ルードランは愉しそうに囁き返す。言葉に思わずが染まった。そして、ドキドキが早まり止まらない。

 身分違いの場所で、最初は歩くのにも必死だったけれど、いつの間にか、密やかながらルードランを見つめることに必死になっていた。足取りはふわふわ、心は弾んで騒がしい。麗しい声の響き。優雅な一挙一動。こっそりとだが目が離せずにいる。

 この方と、共に過ごせたらどんなにステキな日々になるだろう?

 叶わぬ思いと知りながら、マティマナは願ってしまった。

 婚約者同士で来ている者たちは、踊っている。

 品のない貴族たちは、酔っ払っている。

 それでも、ライセル家の夜会が全体として品位を失わないのは、目を光らせている当主マルゲーツ・ライセルの威厳故だろう。にらまれ、目をつけられては面倒なことになる。

 そしてルードランの人となりと華やかさ。ライセル家の跡取り息子の存在感は、夜会に欠かせない煌めきとなっているようだった。

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