2 赤ん坊、兄と遭う(4)

 そうしているうちに、兄は計算練習を終わって別の教科に移ったようだ。

 先生との間に、また別の図や文字が書かれた板が広げられている。どうも、地図のようだ。

 これにも大いに興味が惹かれる。けれど、さすがにあからさまに覗き込むのは控えた。

 耳を傾けると、妙に深刻な調子の会話がされている。

「やっぱりありませんか、うまい方法」

「うーん、どうしても、クロアオソウは夏から秋の野菜だからねえ。地熱はいい観点だと思うんだけど」

「何とかなりませんか、今うまくいかないと、間に合わないかもしれないんです」

あせるのは分かるんだけどね。知り合いにいてもやっぱりうまい文献はないんです」

「そうですか……」

 勉強というよりは相談? まるで難しい研究を論じているかのようだ。

 地図のあちこちを指さし確認して、先生と生徒はひとしきりうなり、口を閉じてしまった。

 それから、示し合わせたみたいな大きな溜息。

「あれもこれも、行き詰まりですか。北がダメなら、あとは東。でもこっちの森も……」

「あの野ウサギってやつも、難物だねえ。いったいどうなっているんだか」

 二人の指の動きを、目で追う。ここの地図でも上は北なんだ、と変な納得をしてしまう。

 そのうち地図に大きく書かれた文字に気づいて、僕はますます関心を惹かれていた。

 さっき覚えた文字によると、それは『ベルシュマン男爵領』と読めるのだ。

 どうも、うちの領地の現状について論議しているらしい。

 ベティーナも気がついたらしく、二人の顔を見比べた。

「野ウサギ? 東の森のですか?」

「ああ。ベティーナも聞いているか? 野ウサギが異常に増えているっての」

「あ、はい。村の人が言っていたような」

「それなんだけどね」先生が顔をしかめた。「地理の課題としてウォルフ様に領地の農業について調べるように言ったらね、深刻な事態が見えてきた。近年不作気味なのはよく知られているけど、これ気候のせいだけじゃなく、森で増えた野ウサギに食われる害も大きいみたいなんです」

「そうなんですか?」

「原因はよく分からないんだけど、確実に数はかなり増えている。知っての通りここの野ウサギは異常なくらいすばしこくて、農業兼業の村の猟師ではほとんど弓で狩ることができない。わなをしかけても結果は微々たるもの。このままでは来年は飛躍的に農業被害が増える予想が立ってしまう」

「それだけじゃない」兄が口を入れた。「今年の不作の状況だと、冬の間に餓死者が出ても不思議じゃないほどなんだ。その対策のためにも、うちの母上のためにも、野ウサギの肉を食用にかしたいんだけど、うまい方法が見つからないんだ」

「餓死者って──大変じゃないですかあ。でもでもあれ、こういう不作のときって、よそへ出稼ぎに出たりしてしのぐものなんですよね?」

「それが、去年あたりから、これも原因は分からないんだけど、うちの領民はほとんどよそで雇ってもらえなくなっているらしいんだ」

「そんな、どうしてえ?」

「分からない。どうも父上は見当をつけているみたいなんだけど、打つ手なし。少なくとも今年の冬には間に合いそうにないらしい。だからこちらとしては、うちの主要作物のクロアオソウの増産と野ウサギ狩りの方法について検討しているんだけど、どうもうまい手が見つからない」

「どちらももう、村の人がさんざん考えているでしょうからねえ」

「だよなあ」

「それと、あれ、さっき、奥様のためにもって言いました?」

「ああ。母上の病は血が足りないことから来ているらしいんだけど、野生動物の肉や内臓が治療にくらしいんだ」

「そうなんですかあ。そう言えば奥様、ぜいたくはできないって仰って、肉なんかあまりお召し上がりにならないですものね」

「俺が狩りの方法を見つけて、領民にも肉が渡るようにすれば、母上も食べてくれると思うんだよなあ」

「ですねえ、きっと」

 みんなで溜息をつき合っても、ここで良案は浮かばない。


 地理の勉強も切り上げて、兄は剣のけいだと立ち上がっていた。

 ベッセル先生は武道が得意ではないが昔学院で習った程度の経験はあって、型を見るくらいの指導はできるらしい。

 とりあえず兄はトレーニングスケジュールを組んでもらって、りを中心に汗を流すのだという。

 奥に立っていった兄は、さっそく木刀を持って素振りを開始していた。

 先生とベティーナはかなり真剣にそれを眺めている。

 その隙に。僕はそっとさっきの地図を引き寄せて、目をらした。

 うちの領地──地図の縮尺はないけど、おそらくかなり、狭い。

 北と西には山が迫り、さっき話題に出ていたように東はけっこう広い森。その向こうは他領ということだろう。

 領地の南端にこの屋敷があり、それより北はすべて領民の家と農地。ここより南はすぐ他領、そのまま進むと王都へ続く。

 おそらく王国内でも北の果てと言っていい立地なのだろうと思われる。

 地図の端に書かれたいくつかの数字は、長さとかだとしたら、単位を知らないので分からない。ただ一つ分かったのは『214人』という記述。おそらく、領の人口だろう。

──214人──少な!

 税などどういう仕組みになっているか知らないけれど、この人数から徴収した税金だけで男爵家の経営ができるとは、なかなか思えない。

 おそらくそれだから、父は出稼ぎ状態で領地にいる暇がないのだろう。

 領民から税をとるどころか、兄によるとこの214人の中に餓死者が出ないか心配しなければならない状況だというのだ。

──わあ、かなりの無理ゲー。

 何だか訳の分からない単語が、胸に浮かんできた。


 規定の素振り回数を終えたらしい兄は、次に弓を持ち出していた。

 弓を引き絞る体勢を作って、しばらく静止。また形を作り直して、静止。それを何度かくり返す。

 持続力とか、的中率を高めるための練習だろうか、と思う。

 そちらを見ながら、ベティーナが横の先生に問いかけた。

「ウォルフ様は、剣士志望じゃなかったんですか?」

「そうだったんだが、少し前から弓も鍛えたいと言い出しているんだ。おそらく、さっきの野ウサギ狩りを想定してのことだと思う」

「そうなんですか」

「それにウォルフ様の加護は『風』だからね。弓と相性がいい。うまく使えば的中率や矢の威力を高めることができる」

「へええ」

 その辺の理屈は分からないけど。ただ、思った。

──弓を構えた兄上、かっいい。

 本当に、領民と母上のための野ウサギ狩り、成功してほしいと思う。

 何か協力できることはないか、と考えて、すぐにせつした。

 今の僕のこの手で、弓も剣も持つことさえできないのだ。

 何年かの猶予があるならともかく、この冬のうちがデッドラインでは、僕にどうしようもない。

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