2 赤ん坊、兄と遭う(3)

──やった。数字ゲット!

 無言のまま狂喜している僕の横で。

 計算中の兄を邪魔しない程度の小声で、先生とベティーナは会話を続けていた。

「ベティーナ嬢はその後も、文字の勉強を続けているのですか?」

「はい。自分の時間を使って書く練習をしたり、ウォルフ様に本を貸していただいて読んだり」

「それはいいことです」

 話の様子では、一年ほど前にベティーナも兄と一緒に読み書きを習っていたらしい。

 兄に向学心をつける刺激にもなればと、うちの両親が取りはからって基礎だけ学ばせたということのようだ。

「そのお陰もあってでしょう。今年になってからのウォルフ様の進歩には、目覚ましいものがありますからね」

「ベティーナのせいじゃねえし」

 ぼそり。またどなたかの独り言が聞こえてきた。

「ああ、春の王都での騎士候補生合宿が、とても刺激的だったんですよね」

「おう」

 ベティーナの補足には、力強いうなずきが返っていた。

「そうでしたね。いずれにせよ、同年代から刺激を受けるのは、とてもいいことです」

 先生が、ゆったりと頷いている。


 後で聞いた情報をつけ加えておくと。

 貴族の子どもは、通常八~九歳頃から家庭教師をつけてもらうなどをして教育を受け始める。

 兄の場合、しばらく父の多忙、領地の不作、母の死産など、家庭に大問題が降りかかって落ち着かないことが続き、教育開始が少し遅れた。それまでは剣の練習や野山を駆け回るアウトドアライフの好きな子どもだったので、最初は少し座学にまなかった。

 そのためしばらくは座学に集中するための刺激策として、ベティーナを共に学ばせた。さすがに一歳年下の使用人に負けるわけにはいかないと兄はふんし、両親のねらいは見事に当たったようだ。

 騎士候補生合宿というのは、全国から騎士を目指す九~十歳程度の貴族の子どもを王都に集めて毎年行われる野外合宿だという。十二歳以上対象の貴族学院に入学する前の子どもたちにとって、生まれて初めて他領地の同年代の子どもと接して大きな刺激になる、親たちにも好評の行事らしい。

 ウォルフ兄上にとっては、父やベッセル先生から見ても驚くほど、その後の勉強に目の色が変わるくらいの効果をもたらした、ということだ。


「そういう刺激を得て向上心に目覚めるというのは、本当に得がたい経験です」

 何度も頷いて、先生は笑顔をこちらに向けた。

 そんな会話を聞き流しながら、僕はさっきから数字の解読に夢中になっていた。

 兄が取り組んでいる計算練習は、まだ初級のもののようだ。

 だいたい二桁から三桁の数の足し算と引き算で、数字の読みとりができた後は、僕にも暗算でできてしまう。

──え?

 暗算でできる?

 どういうことだ?

 あまり考えていなかったけど、もしかして僕の頭って、この世界では異常すぎることになっているんじゃないのか。

 それこそ兄の年齢ならともかく、まだ生後六ヶ月の赤ん坊だぞ。

 一瞬背中に冷たいものを感じて、僕は顔をこわばらせていた。

──これは、誰にも知られないようにしよう。

 そんな決心を心に刻んでいるところへ、

「それにしても、弟君にも向学心は受け継がれているのかもしれませんね。さっきからお兄様の勉強の様子にくぎづけですよ」

──いや先生、よけいなことに気がつかなくていいから。

 僕がやや焦っていると、その言葉にベティーナが食いついていた。

「そうなんですよ、先生。ルート様はとても優秀なんです。まだ六ヶ月なのに『母様』『兄様』が言えるんですから」

「ほおお」

「もうはいはいはできるし、おしっこは漏らす前に教えてくれるし、ほとんど泣いたりしないお利口さんだし、すごいんです」

「それはすごい。おそらく六ヶ月の赤子としては特筆ものですね」

「そうなんですか?」

 思わずという調子で顔を上げた兄に、先生は頷き返した。

「ご家族が自慢されても不思議はないレベルだと思いますよ」

「ふうん」

「ですよね、ですよね」

 実の家族以上に騒いでいる人が、約一名。

 このまま自慢話の勢いで例の『加護』の件まで口走ってしまうのではないかと案じてしまったが、ベティーナもそこには理性が働いたようだ。

「まあしかし、いくら利口なお子様でもさすがにこの勉強内容まで食いついているわけではないでしょう。どちらかというとお兄様の真剣な様子にあこがれて、したいと思っているかというところだと思いますよ」

「ああ、ありますよねえ。小さな子どもが大人や大きな子どもの真似したがるというの」

「さすがに六ヶ月の赤子でそういう例を見た経験はありませんが、弟君の利発さからすると、あり得るかもしれません」

「それならなおさらウォルフ様、頑張っていいところを見せないと」

「……おお」

 兄に笑いかけてから、ベティーナは少し考えて、先生の方に向き直った。

「じゃあじゃあ先生、お兄様を真似した『勉強ごっこ』なら、ルート様も気に入るかもしれませんね」

「そうですね」

「試してみましょうか。どんなのがいいでしょうね」

「そう……さすがに今ウォルフ様が取り組んでいる計算練習は、合わないでしょうしね」

 考え込む先生の顔から、そっと僕は視線を外した。

 まさか逆の意味でレベルが合わないなど、口が裂けても言えない。

「ああ、あれはどうですか。去年ベティーナ嬢に差し上げた、基礎文字表。まだ持っていますか」

「ああ!」

 ぽん、とベティーナは手を叩いた。

「持ってます、まだ部屋にあります。いいですね、あれならこわれないし危ないことないし、汚れても大丈夫だし」

「ですよね」

「今とってきます! 少しの間、ルート様をお願いします」

 僕を椅子に残して、ベティーナは慌ただしく駆け出していった。


 すぐに持ち帰ってきたのは、小さなベティーナにとって一抱えほどの大きさの木の板だ。

 机に置いたその表面に、規則正しく文字が並んでいる。

 覗き込んで、僕は目をみはった。

──! これはもしかして──

「いいでしょう、ルート様? これで、基礎文字が全部覚えられるんですよ」

『五十音表』という言葉が、頭をよぎった。

 思わず、ぱたぱたと両手で板の表面を叩く。

 それからずいと、先生の前へ向けて板を押し出す。

「先生に、先生役をしてもらいたいみたいですよ」

「これはこれは」

 苦笑しながら、先生も少し乗ってくれる気になったみたいだ。

「いいですか、ルートルフ君。これは基礎文字表と言いまして、今使われている我々の言葉は、原則すべて、この文字で表すことができます」

『ごっこ遊び』の乗りではあるけど、そこは本職の先生、一応正確な内容の講義を試みてくれているようだ。

 ものすごく興味惹かれる説明、だけど。

 さすがに赤ん坊が本気で食いついてみせるのは、異常すぎる。

 適度にぱたぱた板を叩き、きゃっきゃとはしゃぎ声を上げ、遊びの形を作りながら僕はその説明を頭に入れていった。

 それによると。

 この世界の文字は、一音ごとに一つずつの基礎文字が割り振られている。その文字をつなげて表すことで、すべての言葉はこれらの文字で表現できる。

『つまり五十音の平仮名のようなもの』と『記憶』がささやく。

 この他に、物の名前などを表す言葉(名詞)を一文字や二文字で表現する複雑文字も存在するが、現代では難しいものは古語の研究やかなり格式張った文書でしか使われない。世に出回っているほとんどの文章は、基礎文字にごく簡単な複雑文字を混ぜた程度で表現されている。

 よって、この基礎文字をすべて覚えておけば、ほとんどの文章、その大半の意味を読みとることができるのである。

 そのあたりで一区切りとして、先生は説明を切った。

 しかし僕にとって、十分すぎる情報だ。

 さすがに兄の先生をずっと独占するわけにはいかない。

 ずいと板を引き戻して、僕を膝に乗せたベティーナの顔を見上げる。

 意味を察したらしく、ベティーナは笑った。

「あ、じゃあわたしが先生役をしますね」

 期待した通り、引き継いでくれた。

「いいですか、これがルート様の『る』」

 一文字ずつ指でさして、読み方を教えてくれる。これも、期待した通り。

 やはり、ぱたぱた、きゃっきゃ、を続けながら、僕は内心必死にその説明を頭に刻んでいった。

 僕のご機嫌がうれしかったのだろう、ベティーナは結局すべての文字の読みを教えてくれた。


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