2 赤ん坊、兄と遭う(2)

 廊下に出て、二つ隣のドア。見慣れた自分のベッドに、やや乱暴に僕は下ろされた。

「ほら、眠たいんならここで寝直せ」

「うう……」

 兄の腕を握ったまま、うわづかいにその不機嫌満開の顔を覗き上げる。

「まだお相手してほしいみたいですねえ」

「マジかよ」

 ベティーナの顔を、兄はみつきそうな表情で睨み返した。

「俺は朝食をとって、自分の日課をこなさなきゃならないんだ。お前の相手などしている暇はない」

 こちらに向き直って、改めて睨みつけてくる。

 あえて空気は読まず、僕はそれにまた上目遣いを返した。

「にい、ちゃ……」

「は?」

「わああーー」

 とたん、ベティーナは両手万歳をしていた。

「聞きました? 『兄様』って。ルート様、分かってらっしゃるんですよ、お兄様を」

「そ、そ……」

 子守り少女の満開笑顔の横で、兄の顔は真っ赤になっていた。

「そんな、知るか! 日課の間は相手できないからな! 赤ん坊はここで大人しくしてろ!」

 小さな手を振り払って、赤い顔のまま兄は睨み返してくる。

──日課の後なら、いいのかな?

 首をかしげて、見返す。

 同じことを思ったらしく、ベティーナはくすくす笑いになっていた。

「とにかく、飯だ。朝飯!」

 ずかずかと、兄は乱暴な足どりで部屋を出ていった。


 残ったベティーナは、くすくすが止まらないまま、僕の着替えに手を伸ばしてきた。

「ウォルフ様は午前中は家庭教師の先生とお勉強ですから、ほんと忙しいんですよお」

「…………」

──勉強、か。

 興味惹かれる、気がする。

 兄と、関わりを続けたい。

 それは、ここに生まれて初めてと思えるほどの肉親の情みたいな感覚によるところが、大きい。

 しかしそれに加えて、また勘のようなものが告げているのだった。

 ずっと僕が求めていた情報が、兄の近くにいれば得られるのではないか、という。

 家族に関することも、領地に関することも、おそらく領主のあとぎという予定になっているのだろう、兄のもとになら、ある程度集まってくるのではないか。

──あの兄上、長男だよね?

 その点、確かな情報として証明を得ていないけど。

 まさかあの若く見える母に、さらに上の子どもがいるとは思えない。

 推定十歳前後と思われる兄にしても、あの母が産んだとは信じられないくらいだ。

 今でも二十歳を超えているとは思えない外見なんだけど、いったいあの人、何歳で出産したんだ?


 後日得た情報では、母は現在二十六歳、兄は十五歳のときの初出産ということだった。

 なお、兄と僕の間はかなり離れているわけだが、間に一人の死産を挟んで僕は第二子、まちがいなく次男ということになるようだ。


   ◇◇◇


 兄が出ていってからしばらくの後、乳母のウェスタが上がってきて、僕の朝食となった。

 だいたい毎日同じスケジュールなわけだけど、今にして思えばウェスタが兄の朝食の世話を終えてから来る都合でこうなっているのかもしれない。

 それが終わると、改めてベティーナは僕の服装を整えてくれた。

──兄上は、勉強の時間と言ってたな。

 思って、ベティーナに抱き上げられた格好でその腕をぱふぱふとたたいた。

 最近ではこれで通じる、家の中を歩き回りたい、という意思表示だ。

 ただ、こんな午前の早いうちに散策をしたことはないので、ベティーナは戸惑いの顔を見せた。

「えと……もう少しお部屋でのんびりしませんかあ。ウォルフ様のお勉強の邪魔したら、怒られますよお」

──赤ん坊にそんなこと言っても、通じませんよー。

 ぱふぱふ。

 ベティーナの言い聞かせの努力に、何度もぱふぱふ攻撃を返す。しまいには、子守りも根負けしてくれた。

「絶対、邪魔しちゃダメなんですからねえ」

 ぶつぶつ愚痴りながら、僕を抱いて階段を降りていく。

 降りた左側が、いちばん訪問頻度の高いキッチンと食堂。右側はあまり行ったことがないが、玄関ホールを挟んだ向こうの部屋のドアが開いたままで、兄と見知らぬ男性が向かい合って座っているのが見えた。

 左へ行こうとするベティーナの腕をぱふぱふして止める。

──右、右。

 無言の訴えの意味は通じたようだが、ベティーナは苦い顔になった。

「ダメですったら、勉強の邪魔しちゃ」

──見るだけ、見るだけ。

 数十秒の攻防の末、ベティーナははああとためいきをついた。

「ちょっと見るだけですよお」

──勝った。

 心の中で、ガッツポーズ。

 ただこれ、僕がふつうの赤ん坊だったら、こんなところで子守りがゆずることは決してなかっただろう。少なくともこの意識を持ってからの十日あまり、人に迷惑をかけるような騒ぎ方を一度もしていない実績を積んだ上での、信用によるものだ。

 本当に僕が勉強の邪魔をするとは思っていない。ベティーナの心配は、兄か家庭教師の先生かが嫌な顔をするかもしれないという点だけのはずだ。


 開いた扉に近づくと、こちら向きに座っていた男性がひょいと顔を上げた。

「おやベティーナ嬢、こんにちは」

「こんにちは。すみません、ルートルフ様がこちらを見たがるので。決してお邪魔しませんので」

「おお、うわさのご次男殿ですね」

 二十代後半かと見えるどこかのんびりした雰囲気の男性は、愛想のいい笑顔を向けてきた。

 向かいに座る兄は、ちらとこちらを一度振り向いた後、すぐに机の上での筆記作業に戻っている。せきばんを使っての計算練習のようだ。

 そのいくつかの計算問題が終わるまで見守るだけでいい時間なのだろう、男性は気軽な様子で立ち上がって、数歩こちらに寄ってきた。

「お初にお目にかかります、ルートルフ様。ウォルフ様の家庭教師をはいめいしております、ニコラウス・ベッセルと申します」

 右手を胸に当てて、おおな表情で、まぎれもなく僕に向かって礼をしてくる。

 貴族に対する礼儀作法の標準など知らないわけだけど、赤ん坊に対して大げさに過ぎるのではないかと思ってしまう。これがふつうなのか、この先生の性格なのか、どちらだろう。

 はは、とかすかにベティーナの苦笑が漏れかけているところを見ると、後者の可能性大なのかもしれない。

「何だか今日はルート様がしきりとこちらを気にしておいでなものですから、ちょっとだけ覗かせていただければと」

「おお、この年から勉強に興味をお持ちとは、将来が楽しみなお子様ですな。これだけお静かなご様子なら、見学されてもまったく構いませんよ」

「勉強に興味、じゃないと思う」

──そこの兄上、聞こえよがしの独り言はつつしむように。

「ウォルフ様も、おとうとぎみの応援があればいっそう身が入るでしょう」

「いいんですか?」

 先生に気さくに招かれて、ベティーナは部屋に入っていった。


 かなり広さのある、板敷きの床の部屋だ。確か前にベティーナが『武道部屋』と教えてくれた。奥にぼくとうらしきものが数本立てられているので、父や兄がそういう剣の稽古などに使っているのだろう。

 今はその広い部屋の入口側の隅に四人くらい囲める机が置かれ、兄と先生が向かい合っている。ベティーナは二人を横から見る位置の椅子に腰を下ろすことになった。

 その膝の上に収まって上体を伸ばすと、机の上が一望できる。

 少し怒ったような顔で黙々とせきひつを動かしている兄の手元を見ると、やはり計算練習らしい。数字が読めないので、僕には内容が分からないけど。

 残念、と思いながら先生の手元を見ると、すぐ脇にやや大きな木の板が置かれている。

 大きめの文字がいくつも書き込まれているのだが、注目したのはいちばん上の行だ。

 比較的単純な見た目の文字が、ひいふうみい……合計十種類並んでいる。

──おお!

 もしかして、これが数字?

 初心者用計算テキストの最初の行に数字の見本が並んでいると考えて、まちがいないのではないか。だとすると、順に0~9か、1~10か。

 試しに0~9として兄の手元の計算に当てはめてみると、計算記号なども適当に当たりをつけて、

 21+48=69

 と読めることになりそうだ。合う。

 石盤の他の行の問題や木の板の表記に次々当てはめてみた結果、まちがいないようだ。

 つまりここの世界の数字、文字の形が違うだけで、アラビア数字の十進法表示とほぼ同じと考えられる。

 十種類の数字を覚えれば、ほぼ問題なく使いこなせる、ということになりそうだ。

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