2 赤ん坊、兄と遭う(1)

 今夜も『はいはい作戦』の続行。

 シーツにひじを踏ん張って、全身を前方ににじり上げる。くり返し、くり返し。

 そんなくり返しのうち、シーツがよじれ、滑り。僕はバランスを崩して、ベッドのわきに滑り落ちていた。

──失敗、失敗。

 誰も見ていないのに、思わず照れ笑いをして。

 つんいの自分の頭よりかなり高い、ベッド面をうーんと見上げる。

──上がれる、かな?

 少しの間悩んで、どうせそんな苦労をするくらいなら、もっと思い切った冒険をしてやれ、という気になっていた。

 秋深くに似合わず、何とも暖かさを感じる夜だ。家の中でこごえるということもないだろう。

 ずりずりとふく前進で、ドアを目指す。

 レバー型のドアノブは頭よりかなり上だが、以前から対策は考えていた。

 こっそり隠していたぬのひもを取り出し、輪の形にした端を投げ上げて、ノブに引っかける。逆の端を引っ張ると、手入れのいいドアは軽やかに開いた。

 わずかに開いた扉の板に四つん這いの肩をくじり入れ、開きを広げて暗い廊下へとる。

 えん色のカーペットが敷き詰められた廊下の床は冷たさもなく、ふわふわだった。

 考えてみると僕は、部屋の外の床に足さえ触れたことがなかったのだ。

 ふわふわの床を肘つきで踏ん張って、じりじりと進む。

 そこそこ快調に、距離をかせぐことはできている。

 しかし。

 思った以上の感触のよさに、僕は舞い上がっていたのかもしれない。

 当初の予定では、ある程度進んだところで余裕を持って引き返すつもり、だったのだが。

 気がついてみると、まずい状態だった。

 赤ん坊の身体に限界近い疲労が回り、あまつさえ眠気が差してきている。

 思い返してみると、ただでさえいつもの就寝時間を超え、しかもさっきまでベッドで十分運動をしていたのだ。

──赤ん坊の体力のなさを、甘く見ていた。

 とろとろと、眠気が込み上げる。

 ぼんやり目の前がかすみ始めている。

 その中で。

 妙な気配を、僕は感じとっていた。

 思えば今までにも何度か感じた、何かこちらを観察するような。

 ほとんど暗闇の中、どこかに誰かが、いる。

 どこだ?

 進もうとしている先、階段の手前?

 冷静に考えれば、警戒してしかるべきだったろう。

 しかし半分眠りに落ちかけていた僕は、そんな心持ちも失ってしまっていた。

 警戒、どころか。

 かすかに鼻に染みる、香り。

 どこか、懐かしいような。

 こころひかれる、ような。

 ずりずりと、ほとんど無意識のまま、這いを続け。

 続け。

 ふわふわと、手を伸ばす。

 触れた、柔らかな、温かな、感触。

 やっと、届いた。

「何だ、こいつ」

 低い、震える声が落ちてきた。

「寄ってくるなよ、お前。お前なんか──」

 決して優しい声ではない、のに。

 警戒してしかるべき、なのに。

 そのあたたかみに両手を回して、僕の意識はゆっくり落ちていった。


   ◇◇◇


「ええーーー? どうしたんですかあ、ウォルフ様あ?」

 幸せな眠りをましたのは、嫌というほど聞き覚えのある声だった。

「どうして、どうして、ルート様がここにいるんですかあ? どうして、どうしてえ?」

「うるさい」

 とんきょうな問いかけ声を、不機嫌な低声がさえぎる。

「でもでもでも、ウォルフ様、ルート様に会わないようにしているんじゃなかったんですかあ? それなのにどうして、ルート様がウォルフ様のベッドの中にい?」

「こいつがひっついて離れないんだから、仕方ないだろう」

 ぴったりほおを寄せていたぬくもりが、ずり、と離れかける。

 無意識のまま、放さじ、と両腕に力を込める。

 離れかけていた細い腕が一瞬震え、それから脱力した。

「え、え? 離れないって?」

 とろりまぶたを上げると、ベッドの横に立つのは、予想通り目を丸くしたベティーナだった。

「夜中トイレに行った帰り、いきなりこいつが足に絡みついてきたんだ」

「え、え? だってルート様、まだはいはいもできないんですよ?」

「そんなの知るか。なんか元気に、廊下を這って歩いてたぞ」

「えーーー?」

 大きく、肺の中が空っぽになるのではないかという勢いで、ベティーナは息を吐き出した。

「それにしても、驚いたあ。いつものようにウォルフ様を起こしに来たら、ベッドの中にルート様がいるんですもん」

 ぼんやり頭の目覚めを待ちながら、僕にも少しずつ事情が理解されてきた。

 今僕がしっかり抱えている腕の主、ベティーナと同年配か少し上かに見える男の子。

 深く考えなくても、この家のお坊ちゃま、つまり僕の兄上に当たるのだろう。

 今まで僕がその存在を知らなかったというのも、妙と言えば妙な話だけど。

 さっき話に出ていたけど、何か理由があってこの兄は、ことさら僕と顔を合わせないようにしていたらしい。

 それに、僕がこれまで得ていたこの家に関する情報は、もっぱらベティーナを中心とした会話を聞きかじってのもの。

 特にこちらに向かって説明されたわけでもなく、こちらから疑問点を問いかけるのでもないのだから、情報にかたよりがあって当然だ。

 まして家の中のこと、お互いに当たり前のことは特に名前を出して話題にするなどなく過ぎてしまう可能性、十分にあるだろう。

 あるいはもしかして、今までの会話の中で『ウォルフ様』という名前は出ていたのかもしれないが、少し前まで『ルート様』さえ僕は認識できていなかったのだ。ただ聞き流されてしまっていたのかもしれない。

 それにしても、初めて知った。

 ベティーナって、毎朝僕の世話をしに来る前に、兄を起こす役目も果たしていたのか。

 毎日それ以降はほとんど僕のそばを離れていないのだから、使用人が兄の世話をするのはこの起床時だけということになるのか。あとは放置? もちろん食事の給仕はランセルやウェスタがやっているのだろうけど、昼間、それ以外のことをしている様子は見受けられなかったと思う。

 人手不足ということもあるのだろうけど、何だか兄とベティーナに申し訳ない気がしてきてしまう。

──手間のかかる赤ん坊で、ごめんなさい。

「分かったらこいつ、連れていってくれ」

「はいはい、分かりましたあ」

 ベッドに寄ってきて、ベティーナはいかにも愉快そうな目で僕をのぞき込んできた。

「それにしてもほんと、しっかりウォルフ様にひっついちゃって。やっぱりご兄弟なんですねえ」

「知るか」

「お母様の身を危険にした原因だからこいつとはかかわらないっておっしゃって、意地張ってらっしゃいましたけど、もういいんじゃありませんか? こないだも遠くから気にして見てらしたこと、ルート様も気がついていらっしゃったみたいですよ」

「うるさい」

 なるほど、分かってきた。

 僕を出産したことで、母が健康を害した。それが、今まで顔合わせのなかった原因らしい。

 それを言われると、原因となった当人として、どうつぐなってよいものやら困ってしまうわけだが。

 とりあえず今は、母のかいふくを祈るばかりだ。

 それとは別に、一つ気がついたことがある。

 さっきからのベティーナの話し方、他の誰と話すときよりも親しみがもっていないか?

 もしかしてこの兄とは、年が近い分昔から親しい、遊び相手だったとか?

 あり得る、気がする。

「あれ、あれ?」

 僕の腕に手をかけて、ベティーナは戸惑いの声を上げた。

「ルート様の手、離れませんよお。こんなしっかり何かに抱きつくの、初めて見ましたあ」

「何とかしろ」

「力一杯すれば何とかなるかもしれませんけどお、ルート様、泣き出しちゃうかも」

「……知るかよ、そんな」

「その、ウォルフ様、このままルート様のベッドまで運んであげていただけませんかあ。慣れたベッドでなら、安心して離れてくださるかも」

「マジかよ……」

 一度、白んだ目がにらみ下ろして。

「仕方ねえ、な」

 つかまれていない腕を僕のお尻に回して、兄は起き上がった。

「すみませーん」

 ちっとも恐縮の色もなく、歌うような口調でベティーナは後についてきた。

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