さよならトラディショナル
森村直也
さよならトラディショナル
たっぷりのクロテッドクリームをこんがり焼き色のついたバターロールに大胆に載せて、華恵は小さな顔を全部口にしたかのようにかぶりつく。
無理している様子はない。私はホッとしながらそれを横目にカプチーノを口に運ぶ。芳醇な香にフォームドミルクの柔らかさ。エスプレッソの仄かな苦味が効いている。一流ホテルの朝食ビュッフェ。七年ぶりだが味は変わらず素晴らしい。
「ここ、乳製品がね、特に美味しいんだって!」
千津は一八〇センチメートルの長身を猫背にまるめて、分厚い縁のメガネ越しにチラリと私へ視線をよこし、華恵へと笑顔を向ける。手元に広げたビタミン剤、ホルモン調整剤、糖吸収調整剤、零れるほどの錠剤をのんびり水で飲み込んでいく。
ほひひい。華恵は言葉にならない声を漏らす。細い肩をふるわせて小さな目を見開いている。ほひひい。繰り返す。さもありなん。私は思う。
華恵は旧来のオリンピックの流れを組む
「シェイナー、ちゃんと食べてるかなぁ」
上気した頬、潤んだ目で、華恵は熱く湿った溜息をつく。
私は口を開きかけてクロワッサンを押し込みごまかした。香ばしく甘く口いっぱいに香が広がる。
「朝ごはんだったっけ」
千津の問に華恵は小さく頷いた。メキシコシティ・エクソリンピック、トラディショナル陸上女子一〇〇メートル。最初にゴールに飛び込んだシェイナー・ワトソン選手はドーピング検査で陽性となり、金メダルを剥奪された。朝食にスタンダード選手向けのメニューが混じっていたためだった。
健常者を対象としたトラディショナル部門に対し、障害者を含むあらゆる人々を対象にして性別の枠さえ超える形でパラリンピックを再編したスタンダード部門では、恒常的な薬物使用、遺伝子治療、ホルモン療法、車椅子や義肢など身体補助具、各種矯正アタッチメントも許されている。食材への規定も当然緩い。たった一品でトラディショナル部門の規定を超えても不思議はなかった。
ワトソン選手のメダル剥奪により、四位入賞で終わったはずの相田華恵は繰り上げ銅メダルとなった。言うなれば、ワトソン選手の失格のおかげで華恵は最後のメダリストの一人に名を連ねることとなったのだ。四年前の出場断念を経てのメダル獲得に日本中が沸き立ったが、当の華恵の心中は複雑だろう。喜べば良いのか悔しがれば良いのか。トラディショナルの世界は狭い。各国選手はライバルといえど仲間でもあったはずだ。
馬鹿ばっかり。私は言葉をクロワッサンと共にゆっくり咀嚼し飲み込んだ。ワトソン選手の訃報を速報で聞いていた。二人はきっとまだ知らない。
「事故みたいなものなのに。酷いよね」
華恵は溜息のように呟いた。私はナイフをソーセージにゆっくり沈める。一口大に分けていく。丁寧に。そして吐き出すように言葉にする。
「気づけなかったんだからしょうがないよ」
事故だとしても、故意じゃなくても。起こってしまったことは消えない。しょうがないと飲み込むしかない。
「美枝、冷たい」
努めて無視する。
国産豚でバジル入りのソーセージは良質の脂の香と肉汁に溢れている。抗生物質、ホルモン剤、酵素製剤。明記されない薬品がたっぷり与えられ、健やかに育てられた豚なのだろう。
「ごはんまで気をつけなきゃいけないのはしんどいよねぇ」
千津はのんびりピルケースをピンクでフリルのポーチにしまう。今は人肌色の義腕の左手は生身と変わらないほどスムーズにファスナーを開閉している。最新型だといつかインタビューに答えていた。
「千津はスタンダードで良かったじゃん」
私は口端で笑い千津を見やる。千津は複雑そうな顔をする。高性能の義腕に義足がわずかに硬い音を立てた。
「ほんと、美味しいなぁ」
華恵はマイペースに生ハムチーズに溜息を吐く。私は食べ比べチーズセットを華恵の方へと押しやった。
「好きなもの食べよう」
『美味しい』は救いになり得る。私はそれを知っている。
「もう、いいんだから」
華恵の口元がわずかに緩む。そうだね、と小さく小さく声が聞こえた。
「千津、あんたは気にしなさいよ。最近、顔が丸くなったってSNSで言われてるわよ」
「だ、大丈夫だもん。トレーニング頑張るし、夜からまた気をつけるもん」
千津は口を尖らせ上目遣いで拗ねたように私を睨める。クールでカッコイイ大人気義肢モデルとはとても思えない、けれど子供の頃から変わらない千津らしいその仕草に。私は思わず笑みを溢し、華恵はぷっと吹き出した。
*
忘れちゃうところだった。ホテルを発つとき、華恵は無邪気な笑顔で封筒を差し出してきた。
「壮行会の時に掘り出したの。最後だからって。タイムカプセル」
千津は懐かしいとはしゃいだ声を立て、私は何も言えないまま受け取った。
エクソリンピックのトラディショナル部門は今大会を最後に廃止されることが決まっている。予算削減、時勢に合わない。継続を望む声は少なかった。人権侵害、無駄金喰いだと廃止派の声が勢いを増す中で、国際大会も右に倣えで軒並み消えた。
五〇年の歴史を誇る国立トラディショナルスポーツ振興財団は解散を決め、配下の強化選手育成寮もまた閉鎖を決めた。
オリンピックの時代から連綿と続いたトラディショナルスポーツはその歴史に終止符を打った。私たちが育ち学び暮らした寮も学校も、改装され、スタンダード向けになるという。
私は封筒を握り潰そうとして思い止まる。代わりに聞いた。
「このあと時間ある? 送っていって欲しいところがあるんだけど」
*
黒く輝く左腕左脚を美しく見せた千津の義肢普及促進看板の下を抜け、千津のメタルブラックの高級車は快適に走り続ける。
ホテルを出てから小一時間。華恵は後部座席で寝入ってしまった。自動運転に任せた千津はミラーへ視線を送った後で、私へと視線をよこした。
「来てくれると思わなかった」
「正直悩んだ。でも、後悔しそうだったから」
華恵の退寮に合わせてお祝いを兼ねてビュッフェにでも行こうと思う。連絡をくれたのは千津だった。五年前、華恵と喧嘩別れした私は、たっぷり悩んで連絡を返した。――会えば、物心付く前から一緒だった私たちにブランクなんて関係なかった。
五年前の急病に負けず夢を叶えた、短距離の華恵。
十年前、トレーニング中の事故を機にスタンダードへ転向した、
七年前の医療ミスで選手生命を絶たれた、中長距離専攻の私。
ブランクは関係しなかったけれど、変わってしまったことも確かにあった。
「華恵を送ってくんでしょ、病院に」
千津は躊躇った後で結局頷く。華恵はうたた寝を続けている。時折苦しげな声が聞こえてくる。
車は街を抜け川沿いの道を走っていく。やがて河川敷の駐車場で静かに停まった。
「ここ?」
千津は目を瞬いている。グラウンド以外、何もない。
私は頷く。
「今日、町内会の運動会なの」
ありがと。少しばかり音を立て、シートベルトを外して降りた。
エクソリンピックから一月半。ほどよい暑さの日射しの中で、幼児が籠へと玉を投げ、義足の青年がぎくしゃくと走り、車椅子の少女が大球を転がし、老若男女が入り交じって『借り物』を探し走っている。
「むちゃくちゃだぁ」
千津が猫背のままで右に立つ。
「なぁに、これ」
音に起きたらしい華恵がぼんやり私の左に並ぶ。私の肩へと頭を乗せた。
「私、寮を出た後、普通の高校に通ってね」
華恵をそのままに、封筒をポケットから取り出した。書いた内容は忘れていない。開ける必要は感じない。
「スポーツ苦手な友達もできて、受験勉強なんてのもして」
小学生、高齢者、中年、若者、健常者障害者入り混じりのリレーは、なってないの一言に尽きる。走り方も、バトンの渡し方も、駆け引きも、何もかも。
「今は大学でスポーツ科学なんてのを専攻しててさ」
「あーあ、落としちゃった」
「持ち方がだめだねぇ」
同じような悲鳴がグラウンドからも聞こえてくる。非難、罵声、悲鳴。そして。
「ボランティアでスポーツ塾みたいなのやってるの。ここの小学生相手に」
同じくらいの笑い声。
「楽しそう」
ぽつりと華恵は呟いた。
「いいねぇ」
溜息のように千津は溢した。
私は封筒を掲げて一息に破る。重ねて一度、また重ねて。私の握力で破ることが出来なくなるまで。
「私の夢はね。もう、メダルを取ることじゃない」
風に紙片が浚われる。華恵は紙片を目で追った。千津の左腕が音を立てた。
「寮に押し込められなくても、スポンサーにやりたくもない仕事をさせられなくても、命を賭けたりしなくても、いいんだ」
五年前。トラディショナルの選手でいるために標準治療を断り完治を諦めた華恵。十年前。選手でいる以外の道を知らずに契約を交わした千津。最後で最大の失敗に自ら命を絶ったワトソン選手。そして、食べることが大好きでスポーツが苦手なクラスメイトに叱られるまで生きることにすら興味がなかった、寮を出された頃の私。
馬鹿ばっかり。それ以外を知らない、無知ばっかり。
私は二人へ振り返る。右手で華恵を抱きしめる。熱を感じる。判っている。左手で千津の左腕を抱きしめる。華恵との温度差に慌てて目を幾度も瞬く。
「スポーツって、もっとずっと、自由で楽しいモノなんだよ」
携帯端末が鳴り響き、華恵は悔しげに時間、と呟く。車へと戻っていく。千津が乗り込み起動すると、窓が開いた。
「美枝、私、頑張るから」
「治さないと今度こそ、今度こそ、絶交だから!」
車は音もなく静かに千津を、華恵を連れ去っていく。
馬鹿ばっかり。呟いた私の言葉は、せんせー! 子供達のはしゃいだ声に紛れて消えた。
さよならトラディショナル 森村直也 @hpjhal
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