番外編1:寛茂、家族にカミングアウトしていた時のお話

第1話 失言王の来襲

 “それ”は唐突に現れた。

「息子がお世話になっています」

 目元が似ているな。そんな現実逃避じみた感想を抱きながら千誠は笑顔のまま凍りついた。目の前には千誠より小柄な、定年間近を思わせるスーツ姿の男性が立っている。


「あっ、親父」


 千誠の後ろからは驚きの声が上がった事からも、明らかにこれは、突然の親の訪問という奴である。

「いえ、こちらこそ。それよりもこんなところでは何ですから、どうぞお上がりください」

 仕事上がりで良かった。心の底から千誠は思う。


 だらしない姿でいたならば、大事故になりかねなかった。おそらく相手も仕事が終わった足でこちらにやってきたのだろう。

 席に着かせ、飲み物を用意しながらどこまでもてなすべきかを推測して、あとは寛茂に余計な事を言わないように――いや、余計な事を言ったからこそやってきたのでは。

 状況が分からない状態で下手に話せば失敗しかねない。千誠は頭をかきむしって叫びだしたい気持ちを押さえつけながらキッチンに立った。


「お飲物は? だいたいは用意できますよ」

「では、コーヒーでお願いします」

「親父、連絡くらいしてくれれば良かったのに。母さんにはちゃんと言った?」


 千誠がコーヒーの用意を始めるなり、寛茂が勝手に話し出す。ちょうど良い。そのまま夕食が必要かどうかまで聞き出してくれ。

 千誠は意識を二人に向けつつコーヒー豆を投入する。


「悪いな、思いつくまま来てしまった」

「ちょっと、心配するだろうから連絡するよ?」


 思いついたら即行動、は正に寛茂が得意とするものである。状況は笑えないのに、何となく口元が緩んでしまう。


「あ、母さん? うん、こんばんは。こっちに親父が来てるんだよ。

 え? 失言する前に帰ってこい? ちょっとよく分かんないけど伝えるよ」

「失言なんてする訳ないだろう」

「あっ、親父っ!」


 育ちの良さが分かる会話、と思っていると携帯端末を奪われたらしい寛茂の驚きの声が続く。

 仲の良い家族だな、と思いながらコーヒーのドリップを見守る。


「お前、俺をなんだと思って――え? 失言王? 馬鹿な! 俺は至極まともな人間だぞ。ずっと同じ会社で勤めて、着実に、あっ、え、いや……それは」

「親父、母さんが言ってる事、正しいと思うよ」


 相手の発言が全く分からないから、何が起きているのか正確には分からないが、どうやら祥順の母親に父親が言い負かされている最中らしい。


「寛茂、お前まで……」

「あー……母さん? あんまり言うと親父泣いちゃうからそれくらいにしといてあげて? うん? 栗原さんに謝っといて?

 ……ああ、お騒がせしてすみません、って事ね。了解。じゃあまた今度ね」


 端末を取り返した寛茂の落ち着いた声に変わる。何やらぶつぶつと寛茂の父親が言っているようだが、こちらはコーヒーを抽出する音で聞こえない。

 そうこうしている内にコーヒーが出来上がる。えぐみが出ないようさっさとデカンタを取り出して用意しておいたカップに注いでいく。


「お待たせしました」

「こちらこそわがままを言ってすみません」

「あ、栗原さん。母さんがお騒がせしてすみませんって言ってました」


 寛茂とその父親と対面する形でテーブルに座ると、不思議な感じがする……と思っていたら、寛茂がいそいそと隣の椅子に掛け直してきた。

 はぁ、可愛い奴。だが……これは正しい着席の配置だろうか。指摘したくとも墓穴になりかねないから何も言えない。


「……そんなの構わないのに。そうだ、寛茂のお父さんは夕食済ませました?」


 自分の動揺を紛らわせるように話題を彼の父親に振れば、彼は首を横に振った。本当に思いつくままやってきたようだ。


「なら、夕飯はこちらで召し上がっていきませんか? 一人分増やすくらい、簡単ですから」


 千誠の提案は予想外だったのか、極端に目を丸くされてしまった。突然やってきた割に図々しさとは無縁の人らしい。

 千誠の中で好感が上がる。


「え」

「親父、栗原さんの料理は神がかってるくらいに美味いんだよ。せっかくだから食べてって」


 動揺している姿を見て、千誠の動揺が収まる。やはり自分が精神的に上の立場にいる方が良い。どぎまぎしている寛茂の父親の姿を見ながら千誠は呼吸を整えた。

 そうとなれば、夕飯の献立を組み直さねば。寛茂に説得される父親の会話を右から左に聞き流し、作る予定だった献立を思い描く。

 鮭のムニエルを考えていたが、鮭が二切れしかないからこその献立だった。三人で食べるには、ほぐして使うか取り分けて食べる大皿にするしかない。

 グラタン――いや、ドリアにしよう。千誠はすぐに脳内の本棚からレシピ本を取り出した。


 二人の会話を邪魔しないよう、すっと体を後ろに引く。キッチンに向かった千誠は早速料理に取りかかった。

 まずは軽く鮭に火を通して骨をとらないと。元々使おうと思って出していたフライパンにバターを転がし、鮭を焼き始める。


「栗原さん、俺何を手伝えば良いっすか?」

「今日は鮭とほうれん草のドリアにするから、少し時間かかる。そのままお父さんの話し相手してろ」


 千誠の様子に気が付いて手伝いにやってきた寛茂に、ひそっと来客対応を頼む。ついでに冷蔵庫からお通し代わりになりそうな作り置きを取り出した。


「これをつまみに待っててくれれば良いから」

「え、これ……」

「俺の分は気にしないで良い。今度また作って一緒に食おうぜ」


 数日前に仕込んだオクラの塩漬けを見つめる寛茂の顔に、葛藤が出ていた。恐らく、始めての一口を千誠と食べたかったのだろう。


「ヒロ、あんたが初めて食べる瞬間は俺の楽しみでもあるんだ。今日は滅多にない親父さんとのツーショットを見せてくれ」


 耳元にぼそぼそと呟いてやれば、潤んだ瞳が返ってくる。いや、そういう目を向けるな。その気になりそうになるじゃねぇか。

 千誠は思わず眉間に皺を寄せて睨んだ。


「う」


 寛茂が千誠の表情を見て眉尻を下げる。犬と同じような反応だ。意識的に笑顔を作ってから努めて明るい声を心がける。


「ほら、待たせる訳にゃいかねぇだろ」


 料理の邪魔だと暗に言いつつ手をひらひらと振る。ようやくそれで諦めたのかつまみを持ってとぼとぼとテーブルに向かった。

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