第5話 豊かな人生と世界一幸せな人生

 引っ越し業者が現れ、彼らの卓越した技術でどんどん家具やら家電やらがトラックへと詰め込まれていく。短時間で養生して運び出されるそれらを見ながら、祥順は浩和と共に最後の大掃除に取りかかる。

 洗面台周辺などの水回りを掃除している内に室内は空っぽになった。


「掃除やらせちまって悪いな。運び込みが終わったらすぐこっち戻るから」

「気にしないで。ただ待ってるのも暇だからこれくらいしておくよ」

「んじゃいってくらぁ」

「いってらっしゃい」


 途中で寝落ちてずっと寝てたはずなのに、そうとう二日酔いが酷いらしい。結局寛茂はほとんどしゃべらなかった。いや、最初の挨拶しか記憶にないと気付く。

 さっさと玄関を出て行く千誠を追う寛茂はふらふらとしていて、明らかに普通の状態ではない。移動などして大丈夫だろうかと心配になりつつ見送ったのだった。


 水回りにクローゼット、そして床を掃除するだけで時間は過ぎていく。窓は磨かなくても良いか、と浩和と相談して決めた時には片づけを始めてから優に一時間半は過ぎていた。

 家具類のない部屋は掃除のしがいがある。浩和はそう笑いながらどんどん進めていった。祥順はそんな彼の指示に従って動くだけだった。


 浩和と親しくなるまで片付けや掃除などは苦手中の苦手だった。それが今では簡単な指示を受けるだけでちゃんと掃除ができるようになっている。片付けの方は自主的に動けるまでになった。

 浩和と一緒にいると少しずつできる事が増えていく。

 ゆっくりと進む変化が祥順を豊かにしている。豊かになればなるほど浩和への情が濃く、深くなっていく。それだけは確かである。

 リビングのフローリングを拭くその背中を見やり、祥順は幸せそうに顔を綻ばせるのだった。




「新居についたらあんたは座ってろよ。良いな?」

「うぅ、すみませ……」


 千誠の穏やかな声に小さく謝った。寛茂のそんな様子に千誠が笑う。何から何まで任せきりにしてしまっている状態に、申し訳ない気持ちしか浮かんでこない。

 寛茂は千誠の運転する車で新居に向かっている最中だ。正直に言えば、車の振動やカーブで左右に車体が揺れたりするのが二日酔いの身には辛い。

 寛茂は持ち前の根性で、これ以上迷惑をかけないようにとぎりぎりのところを踏ん張っていた。


「はは、おもしれぇよな。ちゃんと寝たのに二日酔いとか。ヒロ、ほんとお前は可愛いよ」


 迷惑をかけられているというのに上機嫌な彼は、鼻歌でも歌い始めそうだ。寛茂は責める気配のない千誠に救われながら昨晩の事を思い出していた。


 途中までは気持ちよく普段通りに飲んでいたはずだ。時折紗彩から酒をサーブされるようになり、千誠の隣で良い気分を満喫して――彼の体温が心地よくて寝てしまったのだったか。

 触れた場所から心地よさが襲ってくる。それは程良いぬるま湯のような、二度寝する時の布団の暖かさのような、何とも言えない幸福感にも似ている。


 何やらからかわれていたような気もするが、酒を飲んで酩酊状態の上に心地よい温もりを得てしまえばどうでも良くなってしまう。

 寛茂は自分でも単純な性格をしていると思っているから、今回のは防ぎようがなかったなとある意味開き直った。


「なあ、新居の生活が落ち着いたら俺の家族に紹介して良いか?」

「へ……?」


 突然の言葉が寛茂を現実世界に呼び戻す。


「いい加減、家族にカミングアウトしようかと思ってよ。今まで褒められた生活してなかったから秘密にしてたんだ。

 ……けど、あんたとなら良いかなって。だめか?」

「いえ」


 即答したものの、頭の中が真っ白になった。二日酔いなんてどっかに行ってしまうほどの衝撃だ。少し前に千誠が家族には秘密にしているのだと語ってくれた時の事を思い出す。

 実家の和菓子屋は長男が継いでいて、競争に負けたと言っていたが、負けたにしても実力はある。これは寛茂だけの評価ではない。いずれは経営のサポートをするかもしれないと語る彼は実家とうまくいっていないようには見えなかった。

 親しいからこそ、マイノリティだと伝えて困らせたくなかったのだろうと寛茂は何となく思っていた。


「あんたがオープンな性格してんのは知ってるけど、家族に言っちまったって聞いた時は肝を冷やしたもんだ。だけどそれで俺も思ったわけよ。

 ――このまま秘密にしていて良いのかってな」

「あの時はすみません」

「いや、あれで覚悟ができた。むしろ礼を言いたいくらいだぜ」


 だから引っ越しを節目にしたいのだ、と続ける。すぐ横で運転している彼を見つめれば、ちらりと優しい視線を送ってくれた。胸の奥がむず痒い。

 寛茂はあまり深く考えない質だ。それは千誠と生活するようになってからも変わらない。その逆で千誠の方は深く考えすぎてしまうのかもしれない。

 現実感がなくてぼんやりとしたまま、勝手に口から言葉が漏れていった。


「俺は、栗原さんとしわくちゃなじーちゃんになっても一緒にいたいです」

「ははっ、熱烈だな。良いぜ。隠居したらちょくちょく和菓子でもなんでも作ってやる」


 急に伸びてきた腕が寛茂の頭をぐしゃぐしゃに撫でる。その乱暴な指先すら甘い疼きに感じ、寛茂は熱の籠もった溜息を吐いた。

 胸が苦しい。むず痒さがマックスで、心臓がどきどきとして、気持ちが体から溢れ出しそうだった。


「ん? 何、泣いてんの? 感激しすぎだな」

「はい。俺は今世界一幸せだから、それを味わってるんです」


 勝手にこぼれた涙に驚きながらも寛茂は笑顔で言った。


「世界一幸せな人生歩ませてやっから、ちゃんとついてこいよ」

「はいっ」


 元気よく答えれば、色気もクソもねぇなと言いながら千誠が笑う。よく見てみれば、耳まで赤くなっている。

 照れたりするんだぁ……。初めて見る事のできた珍しい姿に嬉しくなりながら、寛茂は涙を拭った。

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