第4話 成熟カップルが三つ

 ゆっくりおやすみ、と挨拶を祥順の額に口づけてから小さな誘惑を背にしてリビングへ戻れば、千誠がつまらなそうな顔をしている。


「なんだ、本当に何もしなかったんだ」


 失礼な物言いだが、千誠のそれは恋人が反応を返してくれなくなって寂しい気持ちを転化させているだけだ。千誠が態度を改めた当初こそ乱雑で失礼な態度に戸惑ったが、今では可愛いと思うだけだった。


「栗原さんこそ潰れたヒロにいたずらするどころか優しく見守ってるだけじゃないか。聖人の片鱗がくっついてて微笑ましいったらないな」

「良いんだよ。聖人君主な俺も、俺の一部だ」

「ちーちゃんってば開き直ってる。かっこいー」


 浩和には堂々と反撃した千誠は紗彩のからかいには気まずそうな表情で返事をした。すぐに彼女達に丸め込まれてしまう姿はこのメンバーでの飲み会で定番の流れになってしまっている。


 千誠は精神安定剤の寛茂に抱きつき、猫吸いのような変な動きをして顔を上げる。寛茂に頭を押しつけていたらしく彼の前髪が変な方向に歪んでいた。

 色男の見た目に愛嬌が加わり、社内の女性陣が見たら色めき立つだろう。それでもどうしてか浩和には羨ましいとも思わなかった。

 きっと、浩和自身が納得のいく形で幸せだからなのだろう。


「俺はさぁ、こう見えても恋人は甘やかしてやりたいタイプなんだ」

「八割以上の人間が“恋人を甘やかしてやりたいタイプ”じゃないのか?」

「んじゃ俺はその八割の人間って事だ」

「むしろ甘やかした分だけ甘えてるタイプでしょー」

「言うじゃなぇか」


 猫吸いならぬ寛茂吸いをして満足の笑みを浮かべた千誠は、絡んでくる紗彩を上機嫌でいなす。


「明寧がそういうタイプだから」

「あいつと一緒かよ」

「一緒? 私だってごめんだわ」


 明寧の文句とほぼ同時に千誠はげえっと大げさなジェスチャーをする。千誠の体が揺れたせいか、寛茂が小さなうめき声を漏らした。

 びくりとして千誠の体が動かなくなる。


「……っぶね」


 身じろぎしてもぞもぞと寛茂は金縛りにあったかのように動きを止めた千誠の上で定位置を探し、落ち着いた。

 自分の胸元で安心しきった寝顔を晒す彼に向けて千誠は穏やかな視線を送り、赤子を寝かしつけるかのようにとんとんと寛茂の腹部を叩いた。


「まあ、甘えてるかもな。何しても許して――いや、受け止めてもらえる気がするんだ」


 千誠の言葉は彼の行動と同じく柔らかな音色で、浩和は彼が心底寛茂という存在を愛おしく思ってるのだと強く認識させられる。

 二人がくっついたのは祥順と浩和よりも後だというのに、羨ましいくらいに仲が良い。


 急に浩和は祥順が恋しくなった。さっき寝かしつけたばかりなのに、すぐ隣の部屋で眠っている事を知っているのに関わらず寂寥感を覚えるとは、千誠の出す寛茂への視線にあてられたか。

 いい歳した男が、と思うと例え親しい仲でも見せたくない。彼らにバレないよう、静かに息を吸って吐いた。


「はいはい、ごちそうさま。千誠がホストの俺を寂しくさせたから今夜はこれで解散。俺は祥順のとこに行くけど、みんなはいつも通り勝手に過ごしてて。おやすみ」


 浩和が思っている以上に拗ねた声が出てしまい、それをからかう声が飛ぶ。

 羞恥心が込み上げたが、それも一瞬だけで後は何を言われようと浩和はもう気にならなかった。頭の中はもはや祥順の事でいっぱいだ。

 追いかけてくる声を無視して寝室に行けば、祥順は静かに眠っている。暑かったのか、タオルケットだけを抱え込むようにして寝ており、他の寝具は足元に追いやられていた。


 少しばかり寝相の悪い姿が可愛くてたまらない。浩和は千誠を見ていて生まれた寂寥感が消え去るのを感じた。力なく少しだけ開いた唇を指で控えめにつつく。

 祥順はその刺激を厭うように唇を動かし、眉間に小さな皺を刻んだ。だが、起きる様子はない。すっかり熟睡してしまった祥順を確認し、浩和はその隣にそっと潜り込んだ。




 翌朝二組のカップルを見送ってから、昨晩――と言っていいのか不明だ――約束した通り、千誠と寛茂の引っ越しを手伝うべく祥順と二人で彼らの家へと訪れた。

 別れてから数時間後に再会した千誠は二日酔いで大人しい寛茂を支えながら出迎えてくれた。


「よぉ、さっきぶり。今日は頼むな」


 飲みに来た時と変わらない爽やかな姿は、朝方まで飲み続けていた男と同一人物だとは思えない。

 とはいえ浩和と祥順も可能な限りシャワーや歯磨きで酒の名残を落としてきたから、千誠ほどではなくとも最低限の身だしなみは整っている。


「あれから潰れてたらヒロを留守番にするしかねぇなって思ってたから助かるわ」


 寛茂を慮ってか、口調に反して穏やかな声で千誠は言う。さり気ない気遣いに寛茂本人は気が付いていないだろうなと浩和は思う。


「いくら何でもそう簡単にすっぽかさないよ」


 なんでもない事のように祥順が笑うが、実のところは千誠達を送り出してから一悶着あった。

 祥順は最後の辺り、記憶が曖昧だったのだ。つまり、引越しの手伝いをするという話をほとんど覚えていなかった。


 寝室へ戻る祥順は着替えを取りに行ったのだと思った浩和は放置して先にシャワーを浴びた。出てきたら気配を感じないからどうしたのかと思えば、彼はベッドの住人になっていた。

 慌てて叩き起し、何とかシャワーを浴びさせ身支度を整え、そして今に至る。

 きっと祥順がこんなとぼけた人間だとは誰も知らないだろう。知っているのは浩和だけだ。

 爽やかで誠実な言葉の応酬を千誠と繰り広げる恋人の姿を見ながら、浩和は小さく笑むのだった。

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