第26話 猫を被っていても脱いでいても千誠は千誠

 朝っぱらから何という事だ。寛茂は悩ましげに息を吐いた。歴代の彼女とだって、こんな朝から睦みあうような事はなかった。日中は健全に活動して、夜はたまに良い雰囲気になる。

 それが寛茂の恋人との過ごし方であった。

 男同士だからなのか、それとも相手が千誠だからなのか。朝からあんな、濃厚な口づけを交わすとは信じられない所業だ。

 しかも、その後は何事もなかったかのような振る舞いをされ、寛茂だけが中途半端に取り残されてしまう羽目になった。


 千誠は今、ご機嫌で昼食を調理中である。ガパオライスにすると宣言した彼は、一人で買い物に出かけて戻ってきたら料理を始めてしまった。材料を切り終わった彼は鶏の挽き肉と野菜を炒めている。

 ガパオライス特有の独特な香りが既に漂っていた。

 スパイシーで香辛料のような香りはバジルの一種によるものだと千誠の解説が入る。寛茂にはよく分からない世界だが、バジルやミントにも色々な種類があるらしい。日本のイチゴに品種があるのと同じようなものなのだろうか。

 いや、確かに米だって何種類もあるのだ。他の植物にだってあるに違いない。ただ、それを一つずつ覚えていくのが困難なだけで。


「変な顔してるが、匂い強いか?」

「へ?」


 ピーマンとニンジン、鶏肉、後は何を入れていたのかよく見ていないがそれらがフライパンで舞っているのがちらちらと見える。


「や、バジルにいろんな種類があるのって、どんな感覚なんだろうなって」

「うん?」

「バジルは一種類だと思ってたんっすよ。だからなんか変な感じがして……」

「逆に俺にはその感覚が分からんな。まあ、香りが強すぎたわけじゃなくて良かったよ」


 匂いを飛ばすのは難しいんだよなーと千誠がぼやく。

 すん、と食欲を誘う匂いを嗅ぎながら、この香りが苦手な人はきっと人生を損していると寛茂は思うのだった。

 ふわとろの黄身に端がカリカリになった白身、相変わらず焼き加減の素晴らしい目玉焼きが乗ったガパオライスができあがった。寛茂はスプーンを構えたまま笑顔になる。


「辛めに作ったけど、良いよな?」

「はい! もう見るからにうまそうっす」

「ヨダレ垂らす前にちゃんと食えよ……」


 半眼で見られてどきりとする。

 誤魔化すように卵の黄身にスプーンを入れた。ぷつっと小さな抵抗の後、濃厚な黄身が流れ出す。割れた目玉焼きはそのままに、鶏の炒め物の部分をすくって食べた。


「うわぁ、うまい……ピリ辛ってか辛いけどめっちゃうめぇ」

「ありがとう」

「んふふんんふ」


 一口一口が止まらない。寛茂は夢中になってガパオライスを頬張った。唐辛子の辛さもあるが、何よりも何バジルだか分からないがそのバジルが独特な辛さを出している気がする。それに鶏肉の旨みがほんのり甘く感じる。

 食レポが不得意な寛茂の頭の中に、なんだか分からんけど美味いという言葉が散らばった。辛い、美味い、口がとろけそう、でも辛い。


 はふはふと息を出して時折辛さを逃がそうとする寛茂の姿を、千誠はとても楽しそうに見つめていた。

 完食した寛茂はレモンとちぎったミントの葉を入れて作った水を一気に飲み干す。すうっと清涼な香りが喉を通っていった。空になったコップへデカンタを傾ける千誠は、涼しそうな顔をしている。

 千誠は手元にある料理はほぼ食べ終わっていて、あと数口を残すだけだった。


「口、ひりひりしてないか?」

「大丈夫っす。ごちそうさまでした!」

「おう」


 満腹になった幸せいっぱいの寛茂に笑みを返し、彼は食事を再開する。寛茂の食べ方とは違ってスプーン運びは上品だ。挽き肉がぽろりとスプーンからこぼれ落ちる事なく彼の口の中に入れられていく。

 口を閉じて咀嚼する頬は適度に膨らみ、それが減っていくのを見ていた。時折、油でてらてらと光る唇に目がいってしまう。その油を舌で舐めとる動作に目が離せなくなる。

 食事風景を見ているだけで時間が経つのを忘れてしまいそうだ。


「……何、さっき俺が見てたの真似してんのか?」

「えっ、いやっ、ええっ?」


 突然視線を合わせてきた千誠がにやりと笑う。意図した事ではないが、結果としてはそうなった……のかもしれない。


「そんな事考えて行動する奴じゃねぇ事くらい分かってるさ。本当、可愛いな」

「う、やぁ、俺はっ可愛くないっす! マッチョっすから!」

「フィジカルはな。お前のメンタルの話をしてんだよ」


 寛茂は納得がいかず、むっとしてみせる。が、そういうところが彼を刺激しているのか、再び可愛いと言われてしまった。


「――そうだ、ヒロ。お前、オフとオンでちゃんと切り替えられるか?」

「へ?」

「今朝はちょっと俺も勢いづいちまったが、これからの事を話し合わないとな。俺はヒロの恋人になりたい。

 猫を被ってない俺を知ってもらってからの方が良いと思う一方で、どんな形にしろ関係が変わる事で仕事に支障が出たらお前の為にならないと思ってな」


 随分と千誠らしい話だった。猫を被っていようが被っていまいが、きっと千誠は千誠なのだ。寛茂は徐々に乱雑な言葉遣いになって態度も変わったように見える千誠が、根本的な考え方まで変わってしまったわけではないのだと気が付いた。


「敬語が変になりそうなんで、言葉遣いはこのままにさせてもらえると嬉しいっす。あと、今の栗原さんも今までの栗原さんも俺にとってそんな変わんないんで、その、こ、こい、恋人って関係、に前向きに……検討していただければ、と」

「本気で言ってんのか?」

「本気っす……」


 どもったのがいけなかったか。寛茂は疑う視線の千誠に弱々しく答えた。

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