第24話 猫を脱ぎ始めた男に振り回される駄犬

 寛茂は拒まなかった。それが千誠へどんな影響を与えたのか、彼は考えもつかないだろう。寛茂の薄い唇が驚きに震えてから千誠の唇を受け入れるまで、ほとんどタイムラグがなかった。

 行動中は善意の方が強く、また慣れない動作に集中した事もあって、そんな寛茂の行動に感情が揺り動かされる事はなかった。だが、その時の事を思い返せば、それなりに感情は湧き出てくるものである。

 時間差でやってきた感情の波に照れくさい気持ちを抱く。


 “事故”も今回のも誤魔化そうと思えば誤魔化せるギリギリの行為だ。千誠がそういう性的指向であるとカムアウトした上で、という前提となるが。

 だが、祥順と浩和に言ってしまった。寛茂に対して「誤魔化さず、可能な限り正直に生きるつもり」であると。制御できなかったという事は、多少認めがたいと今も思っているが、寛茂に対して特別な感情を抱いているという事なのだろう。

 恋愛は人を馬鹿にするとは言うが、その通りだと千誠は自嘲した。その姿は聖人でもなく完璧人間でもない、ただの男だった。




 薄いように見えて、意外にもぽってりとした唇の感触だった。寛茂は結局誤作動中――いや、これは誤作動じゃないのか?――の局部を半ば諦めた気持ちで見つめた。

 汗を洗い流している内に収まるだろうと思いつつ放置していたものの、結局中途半端に主張したままのそれを乱暴に手に取った。

 あの口移しは善意だ。その証拠に千誠は平然としていた。むしろ水がこぼれないようにうまく口移しをしてくれたから分かる。あれは絶対に手慣れている。

 そこそこ親しい相手には、必要があればやっているに違いない。


 だが、キスはキスだ。寛茂は熱の籠もった息を吐いた。浴室内の熱気に紛れて消えていくのを感じて目を閉じる。善意の触れ合いをもう一度思い出す。優しく何度も水が運ばれ、どきどきしてはいたが最後にはうっとりとした気分だった。

 それにあの多幸感とでも言って良いほどの幸福感。あんな優しい触れ方を寛茂は知らない。ずっと触れていてほしいとさえ思ってしまう。


「んっんっ」


 シャワーの水音に紛れながら、寛茂の声が漏れる。飛び散らないように押さえた手のひらがじっとりと濡れた。

 熱が去り、ぶるりと震える。急いで証拠を隠滅し、明日に備えてベッドへ飛び込んだ。




 気付いたら朝のアラーム。端末の画面を見て溜息が漏れた。


「そっか、土曜日だ……」


 何で昨日が金曜日だったのだろうか。あんな事があって千誠に「明日以降」と言われたのが気にならなかったのは、仕事というワンクッションの間にどうにか気持ちをまとめようという考えがあったからである。

 朝食を乗り切れば仕事がある。そうなれば夕食までの時間が稼げる。その間に考えがまとまると思っていたのだが。完全にあてが外れたというわけだ。


 寝る前に気持ちの整理をしておけばよかったという後悔をしても仕方がない。もう、今更だ。首肩周りのストレッチをしながら部屋を出る。

 適当に伸びた髭を剃って歯を磨き、顔を洗う。身だしなみがすっきりしたせいか、憂鬱な気持ちは少しだけ和らいだ。


「起きたか。おはよう、ヒロ」

「おはようございます!」


 普段と変わらないトーンに、寛茂の声も引っ張られる。思いの外元気そうな声が出た。自分の声にびっくりして目を見開いた。


「くふ……何自分に驚いてるんだ」


 口元を押さえて笑いを堪える千誠の表情は歪み、心の底から寛茂を笑いたくて仕方がないのだと訴えている。笑い上戸の気がある千誠の手にかかれば、寛茂のようなおっちょこちょいの塊は見ているだけでも面白くてたまらないのかもしれない。

 むっとして目に力を込めると、より一層彼の何かを刺激したらしくぶほっという音が漏れた。


「悪いな、ちょっと無理。面白すぎて……」


 いつもと違う言葉遣いに引っかかったのは一瞬で、寛茂は膝を折って苦しそうにひぃひぃと笑う千誠を睨んだ。


「お、俺はまじめです!」

「分かって、る……ふはっ、良いから、黙ってろ」


 ――もう知らねぇ!

 崩れ落ちたまま笑い続ける男を跨ぎ、のしのしとリビングへと移動した寛茂は、広がる光景に十数秒前の荒ぶる気持ちが吹き飛んだ。


「――へ?」


 テーブルの上には旅館やホテルでしかみかけないような、豪華な朝食が広がっていた。ご飯と味噌汁にあじの開き。鮭じゃないところがなんだか千誠らしい。

 ご飯の付け合せとして漬け物に納豆、海苔までついている。小鉢には煮物――里芋の煮転がしと黒豆、あとは見た事あるけど名前が分かんない――がそれぞれよそってあり、全部美味しそうだ。

 しかもタイミングを見計らって作ったのだろう。温かそうな湯気が立っている。背後で笑い転げている男からは想像できないマメさだった。

 朝起きてから一時間と経たない内に、寛茂の感情はあっちこっちに振り回されている。さっきまでマイナス方向だった寛茂の気持ちは既にプラス方向に振り切れてしまった。


「冷めない内に召し上がれ」

「ぎゃっ!」

「これ以上俺を笑わすなよ!」


 突然の声かけに悲鳴を上げた寛茂はこつんと後頭部を拳で小突かれる。


「いっ、いただきます!」

「おう」


 急いで着席して箸を持つ。

 まずは味噌汁。定番の味噌汁を想像していたが、今日のは秋茄子が具に入っていた。コンビニでよく売ってる揚げナスの味噌汁と違って、身の詰まった秋茄子はしっかりとした歯ごたえがある。ナスの皮が口の中できゅっと鳴った。

 噛むとじんわりと汁がしみ出てくる。麦味噌か何かを使ったのか、まろやかな味がした。

 里芋の煮転がしは自然な甘みが口の中いっぱいに広がっておいしい。里芋自体の選び方も上手なのか、筋っぽい里芋はなく、咀嚼すれば程良いぬめりを感じさせながらとろけていく。


 美味い。寛茂の頭に浮かんだのはそれだけだ。


 黒豆はいつの間に仕込んだのだろうか。一晩で作れるような味ではなかった。もしかしたらぼんやりと考え込んでいた一週間の間に作ってくれていたのかもしれない。

 ぷっくりとした見た目から美味しいだろうと簡単に予想がつく黒豆は、甘味がしっかりと染み込んで程よい固さだ。


 何これ、幸せじゃん……。


 千誠がどんな気持ちでこれを作ったのかなど疑問に感じる余裕すらなく、寛茂はただひたすらに豪華な朝食を頬張るのだった。

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