第23話 静かな急接近

「おかえり」

「ただいまです」


 家に戻ると、風呂上がりの千誠がドライヤーで髪を乾かしている最中だった。風呂上がりというシチュエーションから、あの事件がうっかり頭をよぎり、慌てて頭を振る。


「どうした?」

「いやっ、何でもないっす!」

「そうか」


 不思議そうに首を傾げるも、千誠はドライヤーのスイッチをオンにして髪を乾かす作業に戻った。寛茂は追求されずに済んでほっとしたような、追求されて何もかもぶちまけたかったような、微妙な気持ちに溜息を吐いた。

 首筋や額に浮いていた汗を拭い、冷えた炭酸水を飲む。


「ごふっ、ごほっ」


 強炭酸のそれは寛茂を爽快な気持ちにさせるどころか咽せさせる。強すぎた刺激にしばらく咳き込んだ彼が目尻に浮かんだ小さな滴を拭っていると、影が下りた。


「……大丈夫か?」


 腰を折るほどに咽せていた寛茂が必然的に上目遣いになる。寛茂とほとんど変わらぬ背丈の千誠が見下ろしてくる姿は、寛茂の目がおかしくなったのかとても蠱惑的に見えた。


「そんなに苦しかった?」


 呼吸が整わず、息苦しさから滲み出た涙を親指でくいっと千誠に拭われる。

 ――やばい。食われる。

 浮かんだのはそんな言葉だった。


「とりあえず座ったらどうだ。中腰もきついだろう」

「う……」


 言葉にならない返事に千誠は喉で笑う。優しく包み込まれるようにして誘導されてソファに腰を下ろした。

 風呂上がりでいつもより体温の高い千誠の手のひらが寛茂の背中をさする。汗で湿ってる背中が撫でられる感覚に「ああ、彼の手が汚れてしまう」と上の空で思う。

 ただただ優しい動作に、寛茂の心臓は落ち着き始めていた。千誠からのふれあいに、初めて心地よさを感じた瞬間でもあった。


「落ち着いたか? なら、ゆっくり一口飲みなさい」


 飲み途中だった炭酸水のペットボトルに口を付けたが、喉には強炭酸の刺激が強すぎたらしい。少ししか口に含まなかったにも関わらず、咳がぶり返す。


「けほっ」

「……炭酸が強すぎたか。仕方ないな」


 ぜえぜえしながら息を整える寛茂に、千誠が呟いた。普通の水を取ってくれるのか、そう思った寛茂は悪くない。


「んっ!?」


 突然顎をぐいっと捕まれて千誠の方へ向けさせられたと思えば、文字通り目と鼻の先に千誠の顔がある。至近距離で見つめ合うせいでピントが合わない。くっついた唇にじわりと水気を感じた。

 あっ、これ水じゃっ!? 直感的、いや半ば反射的に小さく口を開くと予想通り水が流れてきた。


 ディープキスをした時に唾液を交換するような、しかしそれよりは多い水を与えられれば、喉が勝手にそれを飲み込んでいく。

 口の中にさっきよりは遙かに軽くなった炭酸水の刺激が感じられた。


「な、なにするんですか」

 一回の口移しが終わった寛茂は力なく抗議した。


「俺の口の中で炭酸飛ばしただけだけど?」

 悪びれもせず言われ、瞠目する。

「飲めただろ。ほらもう少しやってやる」

 これは善意なのだろうか。寛茂は再び近付いてくる唇を受け付けなながら、ぼんやりと思う。


 ゆっくりと与えられた水を、こくりと嚥下する音がした。咳込みたいという違和感はなく、ただただ心臓が跳ねる。

 何度繰り返されただろうか。


「はい、おしまい」

「……はぁっ」


 唐突に終わりを告げられた寛茂は、キスの余韻を返事代わりに吐き出した。背中を優しくとんとんと叩かれれば、得体の知れない幸福感が吹き出した。

 なん、なんだこれ……?


「ちゃんと風呂入って寝ろ。カジくん達に相談した結果は明日以降、ヒロが話したければ聞いてやる」


 この前の“事故”もそうだったが、今夜も情報量が多すぎる。何事もなかったように自室へ戻っていく千誠の背中を寛茂は見つめていた。




 ――何だアレは。千誠はベッドへどかりと腰を下ろし、小さくうめいた。

 祥順と浩和に相談して帰宅した寛茂の顔は、いつも以上に恋する乙女のようだった。普段は遊んですっきりした犬のような顔をしているのに。

 例の“事件”について、相談した結果の表情とは思えなかった。

 千誠はそんな動揺を隠すように、ほとんど乾いていた髪の毛を乾かし続けた。いい加減不自然だろうと切り上げた千誠が次に見たのは、寛茂が炭酸水に咽せる姿だった。


 大丈夫かと声をかければ、涙目になった寛茂が珍しく上目遣いで見つめてくる。

 中腰のままで苦しくはないのだろうか。ああ、苦しかったから中腰なのか。千誠は眦に湛えられた滴を親指で拭ってやりながら、そんな風に思う。

 彼が手にしていた炭酸水は強炭酸で、ハイボールを作る時に使ったりするものである。それを意図せず一気飲みしようとしたのだろう。

 相変わらずちょっと抜けていて最高に可愛い寛茂に手を添えてソファに座らせ、手にしていたペットボトルをテーブルに置かせた。


 相当な誤嚥だったのか、まだ息が荒い。呼吸で上下する背中を優しくさすってやる。じっとりと汗ばんだ背中を、ワイシャツ越しにさするのは不思議な気分だった。

 数分も経たない内に落ち着いてきた彼を落ち着かせようとしたが、逆効果だった。強炭酸はまだ早かったらしい。寛茂が再び苦しそうに咳込むのを見つめた千誠は彼を甘やかす事にした。

 二人に相談した後であるにも関わらず、あんな顔をするくらいである。千誠の事は憎からず思ってくれているに違いない。


 ペットボトルの炭酸水を口に含み、炭酸が飛ぶまで待つ。口内をしゅわしゅわとした強い刺激が、その液体を喉の奥へと送ってしまえと騒ぐ。飲み込みたい気持ちを押さえて寛茂の顎を掴む。

 千誠はそのまま驚きのあまり目を見開いた状態の彼に口付けた。可能な限りゆっくりと、少しずつ水を分け与える。

 液体の口移しなど、滅多にやらない行為である。意外に集中力が必要だった。多少炭酸が抜ければ支障なく飲めるようだったから、何回かに分けて水を与えてやる。


 いつの間にか、寛茂が千誠のTシャツを握りしめていた。これは絶対伸びたな、と可哀想なTシャツを憐れみつつ寛茂の背中をあやすように軽く叩いてやった。

 どこか夢現といった様子でぼんやりとした寛茂の唇を、熟れた果実に変えてやりたい気持ちが生まれた。もちろん実行はしなかった。ここは労る場面であると千誠には分かっていた。

 話は明日以降に聞くと宣言し、何かをしでかす前にと撤退して今に至る。

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