第21話 犬も食わない揉め事

 千誠の事情聴取を終えた二人は、ぐったりとしていた。浩和は背もたれに身を預けて天井を向いてだらしなく両手をぶらんとさせている。テーブルに突っ伏している祥順に言える事ではないが、随分な様子である。

 どちらともなく、溜息が漏れる。それはそうだろう。あんな話を聞かされたら、誰だって同じような気持ちになるはずである。


 寛茂が悩むのだって当然だと思う。祥順は、間が悪かったというのが一番の原因だろうが……と元気な犬のように振る舞う男に同情した。

 寛茂が完全に悪くないとは思えなかったが、今回の件は千誠が全部悪い。まともな人間であれば謝罪して立ち去るだけの話である。それができなかった千誠が悪い。


 千誠に悪気があるなしにしても、人道的ではない所業である。祥順の中でダントツだった彼の印象は、地に落ちたも同然であった。とは言え、二人がこのままで良いとは思わない。

 祥順はもう一度テーブルに突っ伏して再びたび溜息を吐いた。


「……ヒロからも、話を聞いた方が良いんだろうな」


 浩和が気が向かないと言いたげに力なく言った。


「同感」


 こんな案件、真ん中に入りたくない。自分達だけで解決してほしい。可能であれば巻き込まないでほしかった。


「栗原さん、オフで会っている時はそつなく遊んでいそうな感じだったんだけどな。意外に鈍感というか、何というか……」

「振り回すのは伊高さんだけにしてほしい」

「分かるわそれ」


 こんなに意味のない愚痴を言い合った事はあっただろうか。祥順はそんなふざけた事を思いながらこれからの事を考える。


 千誠から話は聞いた。これからの事をどう考えているのかも。ここまできて、千誠はようやく自分が寛茂への感情を拗らせていた事に気が付いたのである。本当ならば、千誠自身が動くべきところなのだが。

 今までの経験上、またひねくれた何かをしでかす可能性は少なくない。


「やっぱり、伊高さんから話を聞いて、悪くない反応だったら栗原さんの気持ちに寄り添えるように誘導する……が無難だろうか」

「そうだな。悪い反応だったら、それはそれでどうにか宥めて、最低限の関係修復だけにすれば良いだろうし」


 寛茂がとてつもなく怒り狂っていたら、という想像はしていない。そんな状態だったら、現時点で千誠と寛茂は揉め事を起こしていただろう。だが、揉め事の雰囲気はなく、ただ悩んでいるように見えた。

 つまり、寛茂は話のできない精神状態ではない……はずである。例え怒っていたとしても、多少は余裕があるはずだと祥順は睨んでいる。


「早めに動こう」

「ああ。明日にでもヒロに声をかけてみる」

 はたして寛茂の事情聴取は、翌日の夜に叶えられる事となる。




 昨日千誠が座っていた場所に寛茂が座っている。彼はどことなく落ち着きがなく、祥順と浩和がどこまで話を知っているのか気になっているようだ。

 ほぼほぼ全て知っているわけだが、それは本人に伝えない事にあらかじめ決めていた。

 寛茂の受け取りようによっては、大変不本意で最悪な出来事だったかもしれないのである。それをわざわざ「俺達は知っている」と言って寛茂の気持ちを乱す必要はない。

 それに、話したくなれば勝手に話すだろう。


「ヒロ」

「は、はい!」


 緊張しているらしく、たかが返事にまでどもっている。そんな寛茂の姿に祥順は憐れみを覚えた。


「悩み事があるだろ」

「うっ」


 基本的な話し手は浩和が行う。祥順でも良かったが、おそらく浩和の方が寛茂も話しやすいだろうという配慮から決めた役割分担である。

 祥順は、なるべく優しく微笑む係をしている。できる限り寛茂の気持ちに寄り添う為である。彼が話し始めたら同調の相槌を打ったり、怒ったり泣いたりし始めたら慰めてやる役割であった。

 寛茂はそれこそしばらく――と言っても、千誠ほど長い時間ではなかった――視線をあちこちにさまよわせて口を開いた。


「えっと、どこまで」

「栗原さんがお前に悪い事をしたって聞いた」


 寛茂の目が泳ぐ。大いに心当たりがあるといった様子に祥順は笑いそうになった。もちろんそれをして言い場合ではない。何とか気合いでやり過ごす。

 ちらりと恋人を見れば、彼は仏のような微笑みを湛えている。全てを許容するかのようなその笑みは、ある種浩和が無我の境地に至っているのだと暗に知らせていた。

 ごく稀に見せるこの微笑みは、彼自身が己を保つ為に取り繕う際に現れるものだと祥順は知っている。

 きっと今、祥順と浩和の気持ちは“いかにして悟られずにいるか”だけに集中しているのだろう。


「それで、ヒロは何を悩んでいるんだ?」


 口を開いてしまえば堪えている笑いが出てしまいそうなものだが、浩和は見事に制御してみせた。無表情の祥順を盗み見た寛茂は浩和に視線を戻すと、ようやく話し始めたのだった。


「多分、栗原さんにからかわれたんすけど……嫌じゃなかった自分に驚いてしまって。自分の事がよく分からなくなって、悩んでました」


 自慰行為を見られて、そのままちょっかいを出されたのが嫌ではなかったとは。祥順は浩和とアイコンタクトで千誠の気持ちに沿う方向に持って行く事を示し合わせた。

 目の前の男は、口にしてみたら気持ちが軽くなったらしく、徐々に語り出した。


「えっと、実はその少し前から栗原さんに対して俺のアレが誤作動を起こすようになってて。いつもは風呂場で抜いてたんすけど、栗原さんが入ってて空いてなかったから……」


 千誠が寛茂の自慰を目撃する原因は、千誠が意図せず引き起こしていたようだ。祥順は改めて二人の間の悪さ具合に同情した。


「どうして誤作動するようになったのか、分かんないけど、栗原さんの事を考えているとどうにも股間に血液が集中しちゃって」


 寛茂はもはや全てを語り尽くすまで続けるようである。半眼になりそうなのを目に力を入れて堪えた。


「栗原さんが乱入してきた時、一瞬夢かと思っちゃいました。あっ、その、俺のアレを掴まれたらさすがに現実だと分かったんですが、全然嫌じゃなかったんです。

 俺、どうしちゃったんですか?」


 ……馬鹿馬鹿しい。千誠と寛茂の関係が拗れる要素なんて、どこにもないではないか。いや、これは首を突っ込むと決めた俺達が悪いのか?

 祥順はそれ以上考えまいとゆるく頭を振った。

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