第20話 聖人、地に落ちる

 寛茂が時折ぼうっとしている。それは週末も直前という頃から徐々に悪化し、翌週の後半――つまり、ぼうっとし始めてから約一週間後である――には仕事に支障はないものの、誰もが気になるレベルになっていた。

 それも、ちょこちょこと世話をするようになった祥順や浩和が心配そうに様子を見に行くほどである。何となく原因に心当たりのある二人は、原因であろう千誠を仕事終わりに呼び出す事にした。


「今度は何をやらかしたんだ?」

「……そう聞かれると答えるのが難しいな」


 千誠は浩和から視線を逸らした。気まずそうな表情からして、やはり寛茂のあれは千誠が原因なのだろう。少なくとも、本人はそう思っている。

 浩和の隣で祥順はコーヒーを口に含み、千誠が説明を始めるのを待っている。


「告白でもしたか?」

「いや……」


 浩和は一番ありそうでないだろうと思う選択肢を一つ与えた。答えは否。まあ、そうだろうと頷いてみせる。


「でも、何かしたんだろ?」


 千誠は否定しなかった。マグカップの縁をくるりと撫で、取っ手に指を引っかけて回転させて遊び始める。口よりも手の方が饒舌とでも言えば良いのだろうか。質問に答えるかどうか逡巡しているからこその、ちょっとした異常行動なのかもしれない。

 しばらくしても話さない千誠に浩和は痺れを切らした。


「ヒロに聞くぞ。良いか?」

「っ!」

「栗原さんが取捨選択して話すのと、ヒロが全部ぶちまけるのと、どっちが良いか選ばせてやる」


 それは千誠にとって最後通牒のような言葉だった。

 心なしか、彼の顔色が悪い。浩和は何をやらかしたらそこまで口にしにくい事になるのかと逆に不安になった。


「まさか……ヤ」

「ち、違う! そこまでしていない!」


 ぱっと顔を上げた千誠はテーブルの縁を掴んだ。ぐらりとテーブルが揺れ、コーヒーが小さく跳ねた。


「ヤってないなら何だ」

「それは……」


 千誠の視線がさまよう。


「無理矢理キスしたとか?」

「俺はそんな事しない」

「へぇ?」


 即答だ。

 そんな事をしない、なら何をしたんだ。最悪な事は起きていないらしいが、それに近しい何かは確実に起こったはずだ。

 無理矢理キスをする、は割とよくある最低男の話だが、ある意味それが一番起こりやすい事故だ。男は下半身で物事を考えると言われる事もあるくらい、そういう欲求に弱い。そして一番行動に移しやすいのはキスだ。


 かく言う浩和も時折衝動的に祥順をどうにかしてしまいたくなったりするし、千誠にそういった衝動が生まれないとは思わない。

 千誠は気付いていないようだが、寛茂に対する感情は浩和や祥順に向けるそれとは異なっている。恋愛とまではいかないにしろ、惹かれているように見える。


 囲うようにしてずっと自分を向かせたままにしようとしている。何かにつけて寛茂の事を話す千誠は楽しそうで、また彼を自分の所有物であるかのように振る舞う事もちらほらあった。

 そんな千誠の悪い方向への変化については、祥順の千誠をみる視線に変化があった事からも明白だ。


 ただひたすらに崇めていたはずの相手に「ダメだこいつ」という視線を送るようになったのだ。「尊敬する聖人上司」という扱いから「尊敬はするけど聖人ではない上司」になった。これは大きな変化だと言って良い。

 逆に寛茂の方は自覚しているかは別として、完全に恋する乙女の状態で千誠の一挙一動に振り回されているようだ。


「事故、だったんだ」

「ほう」


 事故と言うからには、自分が完全に悪いとは思っていないらしい。その割にはとても後ろめたそうだが。


「……その、何でそのタイミングでしていたのかは分からないが、ヒロが自慰をしていてだな」


 確かにそれは事故だ。同居している相手が家にいると分かっていてするのは中々凄い。昔、誰かが言っていた。男子寮は最悪だ、と。一定の割合でそういう事故が起きるのだと愚痴っていた。

 ある意味、一番自分の情けない状態だ。目撃されたら悩みもするだろう。おつむの小さな後輩を残念な気持ちになりながらも同情した。


「で、ついちょっかいを出してしまった」

「は? ――いや、話の続きをどうぞ」


 思わず侮蔑の目を向けてしまった。慌てて視線を真下のマグカップへ落とす。


「手伝ってしまった」

「自慰行為を?」

「手と口で一回ずつ」

「はぁ?? 栗原さんってそんな馬鹿だったんですか?」

「……反省はしている」


 もはやそれは自慰行為の介助ではなく完全に「性的な悪戯」だ。言いにくいどころか聞きたくなかった。

 視線を横に動かせば、死んだような目で尊敬していた相手を見つめる祥順がいた。今回の件は祥順から尊敬の気持ちを奪い去る出来事だったようだ。


「俺は栗原さんがそんな人だとは知りませんでした」

「すまない……」


 せっかく外れた敬語が戻ってきている。これは心理的距離が開いている。後で慰めてやらねば。


「だがな、俺だって動揺したんだ。あんなの見せられて普通でいられるわけないだろ」

「まあ、普通ではいられないでしょうね」

「……はぁ」


 溜息を吐きたいのはこっちだ。隣に座る祥順は聞かされた情報に耐えきれず、テーブルに肘をついて頭を支えている。


「それにしても、よくそんな行動を起こしたな」

「出来立てのごちそうが広がってたら飛びつくだろ。それで、自分が優位なのを盾に、やらかしてしまったんだ」


 一番言いたくなかった事を暴露したからか、千誠は素直に話すようになった。話せと言ったのは浩和だ。もう聞きたくないとは言えなかった。

 だが、そんな風に開き直られても困る。


「これからどうするつもりだ?」


 寛茂があれだけ動揺しているのだ。千誠の動き次第ではどんな風にでも転ぶだろう。

「大体、栗原さんはヒロをどうしたいんだ」

 一番の問題はそこだった。

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