第16話 徐々に成長する寛茂と見守る人々

 寛茂が牛乳寒天ゼリーを堪能し終わって眠りについた頃、ようやく千誠に穏やかな気持ちが戻ってきた。相手が取引先の上役だろうが寛茂だろうが緊張する時は緊張する。

 千誠は寛茂の嘘の維持に付き合うと決めた。すぐにやめるだろうから、それまでの我慢である。


「まあ、俺も色々と秘密にしてるしな」


 同じスポーツジムに行く事は想定外であったが、なかなか面白い展開であった。奇妙にも、運命は千誠達を無理矢理にでも繋げたがっているらしい。

 ちょっとはその運命に流されてみても良いかもしれない。そんな事を思いながら、ゆっくりと千誠の思考は沈んでいくのだった。




「栗原さん、昨日は大丈夫でしたか?」

「ええ、おかげさまで大丈夫でした」


 仕事中、そっと話しかけてきたのは祥順だった。千誠は朗らかな笑顔で祥順に応じる。


「では、こちらの決裁をお願いします。本人が自信作だと言っていただけあって、修正は最小で済みました」


 寛茂の旅費精算だった。訂正印は数カ所で、確かに少ない。今までは旅費精算担当の監督下で作り直しだったのに、大した進歩である。思わず千誠の口元に笑みが浮かぶ。


「彼がちゃんと旅費精算ができるようになれば、安心してこちらも経費計算用のアプリを入れられるようになりますね」

「えっ、入れられそうなんですか?」

「いえ、まだ検討段階です。使いこなせないものを導入したところでお金の無駄ですから」


 喜色を滲ませる祥順に千誠は釘を刺す。

 経理の負担を減らす為、業務改革を考えている最中ではあるが、導入するかは未定だった。紙媒体での処理すらできない人間がITを駆使したシステムに適合できるとは思えない。

 導入しました、使えないから経理に相談します、結局負担が減るどころか増えました――では、意味がないのである。


「カジくん達が意味の分からない業務に時間を費やされるのは、私達も望んでいないという事です。ただ、実現にはいくつかの壁がありまして。その壁の一つが導入したシステムを社員が使えるかどうか。基本が分からない人間がいるのでは、導入も遠い。そういうわけです」


 寛茂の旅費精算に目を通す。スケジュールの組み方は良い。なるべく無駄のないような移動を心がけているし、実際にできている。今回は手当の計算を間違えたようだ。

 この会社には日当や前泊手当といった手当の種類が多い。細かく決められていて営業には嬉しい手当ではあるものの、種類が多いせいで申請漏れも多い。これはアプリを導入したら簡単に解決してしまう問題であろう。

 ここまで一人で作れるようになれば、経理の人間を困らせる事もない。千誠は小さな感動と達成感を覚えた。


「やっと効果が出始めましたね。結果が見えると嬉しいものです」


 祥順が頷いた。

 寛茂をフォローし続けていた人間の一人であり、その中でも特に時間を割いてくれていた人間だ。浩和と二人で寛茂の指導をしてくれていた。それを千誠が引き継ぎ、ようやく実り始めたというところである。


「では、こちらは承認しますので、処理をお願いします」

「はい。ありがとうございます」

「今度、ゆっくりタキくんとカジくんと三人で食事しましょう」

「ぜひ」


 その時にはスポーツジムで会ったときの話でもさせてもらうよ。祥順の背中にそっと呟いた。




 祥順はご機嫌モードで仕事をこなしていた。理由は簡単である。千誠から食事の誘いを受けたのである。寛茂の件で接点が増えて以来、憧れの上司との食事という嬉しいおまけがついてくるようになった。

 頻繁ではないし、基本的には寛茂の話題ばかりである。

 それでも嬉しいものは嬉しい。例え、誘いを受けたのが自分一人でなくとも。

 昼休みに浩和と外へ出た時、さっそく祥順は上機嫌で千誠からの打診を彼に伝えた。


「例の謎、教えてもらえるかもしれないな」


 ……例の謎、それは千誠がスポーツジムにスタッフとして仕事をしていた事である。帰宅後、浩和に祥順は千誠を見かけていた事を話していた。


 寛茂が千誠に秘密でこっそりとスポーツジムに通おうとしていた先に、その本人がいるとは誰も思わなかった。寛茂の気持ちを知っていてか、千誠は寛茂には秘密にしておいてほしいと言ってくるし、ジム通いをしているのかと思えばスタッフルームへと消えていくし、めちゃくちゃである。


「知らないのは隠したがっている当人だけって、不思議な感じがするなぁ……」


 浩和はそう言いつつも楽しげである。きっと寛茂の驚く顔を想像しているのだろう。祥順は寛茂がショックを受けやしないかと心配なくらいだというのに。

 少しばかり眉を顰めて浩和を見ると、嬉しそうなとろける笑みを向けてくる。ああもう、そうじゃない。


「……あいつは簡単にへこたれる男じゃないよ。大丈夫さ」

「だからといってフォローが必要ないわけじゃないぞ」

「ああ、分かってるって」


 本当に分かっているのだろうか。もう一睨みしておく。浩和の手が、テーブルに乗せられた祥順の拳に重ねられた。


「大切な弟分だからな。最後まで面倒見るよ」

「…………」


 なだめるようにぽんぽんと叩かれ、小さく息を吐いた。


「良い営業にするって、やり始めたのは俺達だから。上司の手に渡ったからといって全て任せきりにするのは無責任だ」

「分かってる。知ってるとは思うけど、責任感強いタイプだから」


 まあ、確かにそうだ。祥順はようやく浩和の言葉を信じる事にした。寛茂のフォローで長崎に出張したのだって、つい最近の出来事である。

 引越しを楽しみにしていた彼は、休日を返上してまで寛茂に付き合ったのである。


「優先順位はカジくんの方が上だけどね」

「そういうのは帰宅後にしてくれ」

「はいはい」


 むっとした声を出した祥順であったが、悪くない気分だった。

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