第12話 上がったら下がって上がる二人

 上昇していた祥順の気分は、そう時間が経たない内に下降した。

 というのも、浩和が食事の提案をしたからである。当然の流れだといえば、当然なのだが、早く二人きりになりたいという気持ちに支配されていた祥順には、その可能性について全く考える余地もなかった。


「運動後はつい食べ過ぎてしまいがちだからね。ほどほどにしよう」


 浩和はそう言うと祥順の腕をとって歩き始めた。足がもつれそうになりながらも足並みをそろえると、浩和がきゅっと祥順の腕を握っている手に力を込めた。


「ごめんな、でも食事だけだから」


 こっそりと謝られては、祥順は責めるわけにはいかない。気持ちを切り替えつつ彼に答える。


「いや、良いよ。それで、どこに行くんだ?」

「豆腐専門店とかどうかなと思ってるんだけど」


 豆腐か。豆腐はいろいろな料理に使えて便利だし、ヘルシーな食べ物の一つだし、嵩増しにも使える。今回みたいについ食べ過ぎてしまいそうなシチュエーションでは特に活躍できそうである。


「良いんじゃないか。伊高さんがおかわりしても大丈夫そうだ」


 祥順の言葉に浩和がくすりと笑う。ああ、良い表情。祥順はほくほくとした気分になった。


「はは……だろう? じゃあ決まりだ。ヒロ、今日は豆腐専門店に行くぞ」

「へっ? 豆腐???」


 寛茂が素っ頓狂な声を上げるのも気にせず、浩和は祥順の事を掴んだまま目的地方面へと方向転換する。掴まれているのに慣れてきた祥順は促されるがままに向きを変えて歩いていく。


「お前が腹ぺこすぎても大丈夫なようにだよ」

「そんなぁー!」


 悲痛な叫びが追いかけてくる。調理されていない豆腐を食べるとでも考えているのだろうか。寛茂の事である。その可能性は否めない。


「まあ、メニューを見れば元気が出るさ」


 やだ、帰る、と言い出さないところが寛茂らしい。浩和が彼の人の良さをうまく使って操縦しているようであった。

 ぶつくさと文句を言いながらも素直についてくるのを確認しながら、浩和は進んでいく。


「いつもの調子で食べていたらせっかくの運動も無駄になってしまう。ヒロの目的に沿った食事にしないとな」

「滝川さん、俺で遊んでませんか!?」

「ははっ、まさか。こんなに真剣なのになぁ、カジくん?」


 冗談めかした視線が祥順に送られる。祥順は二人だけの時間を減らす原因である寛茂に仕返しするチャンスだと思った。


「……真剣でなければ、我々がこうしてアフターに付き合うわけがないでしょう? さあ、伊高さん。白くておいしいお豆腐が待ってますよ」


 祥順にまで言われ、寛茂はがっくりと肩を落とす。

 オーバーリアクション気味の彼は、少し面白い。しょぼくれて垂れてしまった犬の耳が見えるようである。


「……豆腐料理って栗原さんが好きそうですよね。今夜は下見を兼ねて、と考えてみるのは?」

「はっ!」

 幻の犬耳がピクリと動いた気がした。


「和菓子のヒントにもなるかもしれませんね。豆腐の創作料理を見たらアイディアが湧くかも。

 “ヒロ、君がこんなお店を知っているなんて思わなかったよ、ありがとう”なんて言ってもらえるかもしれませんね」

「おおお………!!!」

「カジくん、やりすぎじゃ――」


 寛茂の現金な豹変ぶりに浩和が祥順を制止しようとした時、二人の間に寛茂が割り込んできた。凄い力で引き離される。


「行きます! めっちゃ行きたいです!!!」

「はい、じゃあ時間ももったいないですし、早く行きましょう」


 せっかくくっついていたのに。そんな気持ちを表に出すわけにはいかない。祥順は瞬間的に表情筋を動かした。

 それは氷の微笑みだったが、その微笑みを送られた側である寛茂には通じなかった。




 浩和は割り込んできた寛茂の行動に目を見開いていたが、祥順は驚いた様子もなく、ただ微笑んだ。しかし浩和は知っている。その笑みに一切の優しさがなかった事を。

 浩和が自信過剰でなければ、あれは“邪魔しやがって“の顔だ。幸いながらまだ、浩和はあの笑顔を送られた事はない。表情に出すくらいには、祥順は浩和とくっついていたかったのだろう。

 恋人が可愛すぎる。二人きりになったら、たっぷりと優しくしてやりたい。浩和はそんな事を考えながら店に向けて歩き出した。


「さて、ヒロが気になっているメニューはこれだ。ヘルシーだからって頼みすぎるなよ?」


 あれから無事に店へ辿り着いた浩和は、ソワソワする寛茂を無理やり座らせ、その反対側に祥順と共に座る。

 メニューは至って普通だ。寛茂も心底ほっとした顔をしていた。


「……むぅ」


 メニューを見始めた寛茂の表情は真剣なものに変わる。彼が悩んでいる内に浩和は祥順とメニューを開いて料理を探す。カレーやピザといった変わり種からがんもや湯葉、豆腐サラダといった普通のものまでバラエティ豊かなメニューが並んでいる。

 シュウマイやコロッケがあるかと思えば、しっかりとした懐石料理まである。統一感がないと言ったらそれまでだが、そのどれもに豆腐が使われているというのだから面白い。


「カレー……いや、ハンバーグ? ……でもなグラタンとか気になるしぃ…………」


 寛茂は変わり種に挑戦する気らしい。もうしばらく迷ってもらおう。

 浩和はここに来ると決めた瞬間から、何を食べるかも決めていた。


「カジくん、俺はこれにするよ」

「え、どれ?」

「これ」


 そう言って指さしたのは、できたてお豆腐と湯葉のセットだ。このセットは注文を受けてからにがりを入れて豆腐を作り始め、ちょうど良いタイミングで客に“できたて豆腐”としてサーブする。

 それまでの待ち時間で引き上げ湯葉が楽しめるようになっていて、両方味わえる欲張りなセットだ。


「それ良いね」

「だろ?」

「俺もそれにする」


 食べすぎても豆腐だし、このセットには軽くお惣菜がついてくる。かなりお得なセットなのだ。


「あっ、二人はもう決まったんですか?」

「決まってないなら同じのにするか?」


 メニューを示せば、寛茂の目が見開いた。


「……湯葉って何ですか?」

「お前……」

 浩和の頭の中は一瞬で真っ白になった。

「湯葉というのは、豆乳からできるんですよ」


 祥順が説明を試み始めたが、浩和には分かっていた。その説明は絶対に通じない。


「豆乳からできると湯葉になるんですか?」

「…………」

「…………」


 案の定伝わっていない。浩和は祥順と無言で顔を見合わせるのだった。

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