第13話 隠し事が得意な千誠
帰宅した千誠は空調のスイッチを入れるやいなや、どかっとソファに身を下ろした。本当は早くスーツをハンガーにつるさなければならないが、精神的な疲れでそれどころではなかったのである。
「あーびっくりしたなぁ、もう」
あんなところで寛茂達とばったりと出くわすなど、誰が考えるだろうか。千誠は長い溜息を吐いた。
千誠はあのジムのオーナーと知り合いであり、そのよしみで通っている。まれに欠勤となる社員の代打として駆り出される事があるものの、その代わり――といって良いのかは疑問だ――千誠は無料で通わせてもらっていた。
今日はたまたまヘルプで入っていただけである。リズムに合わせて拳を繰り出し、時には蹴りを繰り出す。そんな格闘技系エクササイズクラスの先生役をしてきたのだ。
素人にやらせるなど、と思わなくもないが、メニューを型通りにこなせさえすれば意外に支障がないのも事実である。
このクラスの生徒はなぜか筋肉質なメンバーが集まっている。もっと過酷なクラスを選べばいいのに、と思ってしまうのはよけいなお世話だろうか。
そのクラスが終わり、汗を流そうとスタッフルームへ向かう時、想定外の出会いがあった。祥順を見かけたのである。目と目があった気がした。祥順の口が「栗原」と動くのが見える。――もう逃げられない。
「こんばんは、カジくん」
千誠は笑顔で祥順と相対する裏で、背中が冷やりとしたのだった。
祥順は明らかに困惑していた。千誠はそれを利用して何とか乗り切った。全く罪悪感がないとは言わない。後でフォローをするつもりであるが、ひとまずは寛茂に会わずに撤退する事が重要だった。
あの場所でいつものように騒がれては困る。時期が来て話を通すにしても、別の場所でゆっくりとしたい。
「カジくんには後で菓子でも用意しないとな」
寛茂が戻ってくるまでに時間がある。ひとまず食事をして、くつろぎたい。さっと着替えた千誠は冷蔵庫に用意しておいた料理を取りだし、電子レンジに入れる。
今日はポトフだ。昨日の夕食の残りだが、しっかりと野菜がとれてヘルシーな料理であるから、こういう運動をした後には好ましい。
タンパク質を補う為、このポトフにレンズ豆を投入した。レンズ豆はあらかじめ軽く塩味をつけてあるから、追加してもそう味が変にはならない。事実、まぁ無難な味になっている。
温まったポトフを食べながら、ぼうっとベランダから見える夜景を覗く。ベランダの手すりが邪魔でそんなによく見えるわけではないが、何となくちかちかと瞬く小さな宇宙が見える。
それらはたいていが車のライトであったり、ただ誰かの家であったり、どこかの街灯だったり、もしかしたら残業中の灯りかもしれなかったり。何かしらの物語を持った光だと思うと、何となくロマンチックな気持ちになる。
……寛茂も夕食中だろうか。おそらく気を利かせた浩和と祥順の二人に、どこか良い店へと連れて行ってもらえているだろう。と、思う。
あの二人は本当に良い人間だ。
寛茂の存在など、新生活を始めたばかりの二人からすれば邪魔以外の何者でもないはずなのに、こうして連れ歩いてくれる。祥順だけではなく、浩和にも菓子を用意した方が良いかもしれない。
寛茂が嬉々としてはしゃぐあまり、迷惑をかけてはいないだろうか。それだけが心配だ。ジムで困惑する祥順にも質問をしたが、曖昧な回答が返ってきていた。
つまり、言うほどではないが迷惑は被っていたという事だ。
まあ、予想はしていたさ。穏やかな夜景に気持ちを溶けさせながら思い出し笑いをする。
祥順の言っている事が本当なら、寛茂は黒湯の湯船に溜まった黒い泥をかぶったに違いない。あの時、密林でのサバイバル中の軍人みたいに泥で顔をカモフラージュしている寛茂の姿を想像してしまったのを思い出していた。
さぞや野性的でこの東京に不釣り合いだったろう。千誠の口元が小さく震える。
「くく……好みじゃない、はずだったんだけどなぁ。悪くはないな」
見てみたかった。絶対に可愛かった。きっと、最初は何が何だか分からずにきょとんとしていたのではないだろうか。よく分からず、顔を擦って汚れを広げてみたりしたかもしれない。
想像するだけでも十分に楽しめる。本人からこの話を聞く事ができないのが残念なくらいだ。
寛茂がジム通いを白状するまで、千誠もあそこに通っている事を言うつもりはない。どんなタイミングで白状するのか、そしてその後に続く千誠の話にどんな反応をするのか、今から楽しみだった。
食事をとって人心地ついた千誠は、寛茂が戻ってくるまでに後片付けまで済ませ、ジムの痕跡を消す事にした。
臨時で入る時に使っているTシャツとパンツをタオルと一緒に洗濯機へ突っ込み、洗濯機が動いている間に食器を洗ってシャワーを浴び直す。
シャンプーとかの匂いでバレたら元も子もないから、面倒でも全身洗い直すのだ。寛茂の事だ。気が付かないかもしれない。が、万が一という事もある。
千誠は用心深かった。
身綺麗にし直した千誠は、テキパキと動いた。洗濯の終わったTシャツ類は自室へと持っていき、タオルは干してTシャツはアイロンで無理やり乾燥させる。
一気にやらないのがコツだ。低めの温度で全体的に撫でるようにして少しずつ水分を飛ばす。
少し時間はかかるが、失敗したらTシャツに穴が開く。それよりはましである。
「ただいまでーす!」
「あっ」
思ったよりも早かったか。千誠は心の中で舌打ちする。
「おかえり」
生乾きのTシャツをハンガーに引っかけて部屋を出れば、ご機嫌そのものの寛茂がいた。
「カジくん達との食事は楽しかった?」
「はい! 今度、ぜひ一緒に行きましょう」
どうやら祥順達に連れられた店は、寛茂のツボに入ったらしい。
「絶対栗原さんも気に入ってくれると思います」
「へぇ、楽しみだ」
運動後に酒はひっかけなかったらしい。うん、良い事だ。千誠はスポーツジムに置いてあるシャンプーの香りをまとった寛茂の頭を撫でた。
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