第10話 黒湯と幻の親近感

 澱んでいる炭や湯の花に親近感を持つ。なかなか消え去ってくれそうにないところもそっくりである。そんな風に祥順は自分と重ねながら湯船に沈み込む。湯船の底に手をつけば、寛茂が言った通りにどこか苔や藻を触っているような何とも言えない感触が伝わってくる。


「気をつけないと体中が真っ黒になりそうだね。でも、それさえ気をつければ、多分効能ありがたい代物なんだよな」


 同じく湯船に浸かった浩和がすくい上げた泥のようになったものをもてあそんでいる。結構ねっとりとしているように見える。祥順の心にたまった澱みとは違って、この黒い淀みは効果があるだろう。つい先ほどまで持っていた親近感を投げ捨てた。


「あとで炭をしっかり洗い落とさないとおもしろい事になるな。カジくん、ちゃんと俺の背中とか見てくれる? ヒロじゃ絶対見逃すから信用できないし」

「私でよければ。あと、同じく後で私の方も確認してください」


 寛茂に確認してもらうより絶対に良い。ちゃんとお願いしておく。尻が黒い状態で歩き回るなんて嫌すぎる。


「頼まれなくたってちゃんと見るよ」

「えっ俺は!?」

「お前は良いだろ。少しくらい汚れていたって誰も気にしないさ」


 寛茂が抗議しようと水を跳ねさせながら立ち上がる。ばしゃりと跳ねた黒い水を祥順はまともにかぶってしまい、思わず目をつぶって息を止める。

 良かった、鼻と口の中は大丈夫だ。上澄みで手についたものを落としながら呼吸を再開する。


「おい!」


 慌てたような浩和の声が聞こえた。祥順は顔の水を手で払い落としてゆっくりと目を開ける。目の前には黒く汚れた浩和の臀部があった。

 その汚れ具合から、もしかしたら今の顔は黒くてすごい事になっているかもしれない。祥順は少しだけ手で顔を触ったのを後悔する。


「お前なぁ、もう少し周囲を見ろよ」

「すみません!」


 そう言って勢いよく寛茂は湯船に沈んだ。再び水が跳ねる。だが、その跳ねた水は立ち上がった浩和に当たって祥順には波だけが届く。


「言っている側から……! そういうところを直せば、営業としてもっと良くなると思うけどなぁ」


 浩和は寛茂の頭をわしゃわしゃと汚れた手で揉む。あっという間寛茂の頭は泥だらけみたいになった。

 ああ、あれは洗い直しだな。……自分も洗い直しだけど。そう思いながら見つめていると、ようやく額から流れ落ちる黒い液体に気が付いた寛茂が騒ぎ出す。


「あっ、うわぁっ」

「カジくんの代わりに仕返し。素直で元気なのはヒロの良いところだけど、人に迷惑をかけちゃ駄目だ。あ、ここで言う迷惑っていうのは質問で人の作業の手を止めさせるとかそういうのじゃないからな。

 純粋に損害を与える行為の事だ」

「……はい」


 浩和も湯船に浸かり直す。寛茂の動きを呼んで、盾になる為に立ち上がってくれていたらしい。相変わらずやることがイケメン過ぎて適わない。


「せっかくの取り柄を、そういう行動で無駄にするのは惜しい。気をつけろよ?」

「ありがとうございます。あと、梶川さんすみませんでした」


 浩和越しに謝られる。


「……いや、他の人にやらなければ良い。これからはもう少し気をつけてもらえると助かりますが」


 祥順は一言添えた。悪気はないのだ。可能であれば、もう少し落ち着いた人間になってもらいたいところだが、人間の持っている性質を変えるのはそう簡単にはいかない。

 祥順だって、繕ってはいても昔から持っている「悪いところ」は未だに残っている。正に今、それに振り回されている祥順は寛茂の事をとやかく言う気にはなれなかった。


「梶川さん、最高に優しいっす」

「こら、その優しさに付け込むんじゃない」

「そんな事はないですよー……今日の滝川さん、手厳しいっ!」


 再び汚れた手で頭をグシャグシャにされた寛茂が嬉しそうに叫ぶ。そんなじゃれあいをほんの少しだけ羨みながら、とても自然に二度目の水かぶりから守ってくれた浩和の肩を叩く。


「滝川さん」

「うん?」

「もうそれくらいで良いですよ。それ以上やったら、今度はあれをあちこちにまき散らして、本当の迷惑行為になりそうです」


 この部屋は汚れても誰も文句は言うまい。だが、それをこの部屋の外に持っていったとしたら。多少ならばすぐに分散して目立たなくなるだろうが、寛茂の頭についているのは多少、ではない。


「そりゃそうだ。ヒロ、頭にくっついたやつ、この部屋である程度は落としてけよ」


 祥順の指摘に頷いた浩和がうまく寛茂をあしらう。そんなやり取りを見ながら湯船に浸かっていると、祥順は湯当たりを起こしそうになっているのに気が付いた。水分補給が足りなかったのかもしれない。

 何となく頭が痛い気がするのである。


「先に湯船から出ます」

「はい」


 祥順は足にぐっと力を入れて滑らないように気をつけながら、泥みたいになったものが飛び散った床を移動する。週替わりで様々な湯に変えるという用途で作られただけあって、簡単にシャワーを浴びるスペースが設けられている。

 もしかしたら、赤錆の湯になる事もあったりするのだろうか。と、どうでも良い事を思いながらぬるめの湯を浴びて体についた炭などを流す。

 一通り洗い流し、再び浴槽へと近付いていった。


「ちゃんと落ちてますか?」

「あ、うん。大丈夫」


 尻が黒い状態で歩き回らずに済むと分かってほっとする。


「では、先に上がってますね。お二人はごゆっくり」


 ぬるめの湯を浴びた成果だろうか。少し気分がさっぱりした祥順はそのまま大浴場から出るのだった。

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