第16話 意外な家業と頑張る寛茂

 ルーを溶かせば、食欲を誘うスパイスの香りが広がった。寛茂はくつくつと波打つカレーを見つめていた。ご飯が炊けるまで、じっくり煮込むらしい。

「蓋は閉じて」

「あ、はい」

 ガラスでできた鍋蓋をすると一気に内側が水蒸気で曇った。やっぱり見えなくなったなあ、と残念な気持ちでいっぱいになる。


「焦げ付かないように、時々かき混ぜてあげて」

「はい!」


 ガラスについた蒸気が少しずつくっついて大きくなっていく様子を見つめながら、千誠に返事をした。

「私は今の内にサラダを用意するから、カレーは頼んだよ」

「任せてください」

 頼ってもらえるのは単純に嬉しい。何せ普段は全て助けてもらっているのだ。どんな事だって嬉しいに決まっている。


 リズミカルで軽快な包丁さばきは毎回の事ながらほれぼれしてしまうし、包丁に張り付いたキュウリとかを剥がす指はすらっとしていて美しい。寛茂のような棒みたいな平たい指と違って、千誠の指はピアニストみたいな関節と指の太さのバランスが良い。マンガとかに出てきそうな感じの理想の指だ。

 寛茂は千誠の所作一つ一つを見つめては誉め、時々「カレー」と言われながら幸せそうに微笑むのだった。




「……何で料理が得意か?」

「滝川さんは料理教室に通ったからって言ってて、梶川さんは滝川さんに教えてもらったって言ってたんです。それで、俺みたいな親に手伝わされた系かと思ったんですが、もしかして誰かに教えてもらったのかなーって」


 カレーはすごくおいしい。せっかくだからと、寛茂はここで生活するようになってからの疑問を食事中に少しずつ聞き出す事にしていた。


「実家が和菓子屋だからだな」


 さらりと告げられたのは、寛茂の思いもよらぬ次元だった。


「ええっ」

「私は次男だから継ぎはしなかったけれど、一通りは教わったんだ」

「じゃ、じゃあ和菓子作れるんすか!?」

「一応」


 うわ、意外すぎる。

「兄弟で競争させて、やる気と実力の勝る方が跡を継いだ結果、私はこうして自由に会社員をやっているわけだ」

 何だそれ、すごすぎる。


「栗原さんの作った和菓子食べてみたい」

「え? 良いけど」


 思わずこぼれた寛茂の願いが何でもないように承諾される。千誠の返事を聞いて我に返った寛茂は、和菓子が自分の苦手分野だった事を思い出す。


「あっ、でも和菓子苦手なんで、俺でも食べられる和菓子が良いです!」

「ふふ……何それ。ちょっと考えておくよ」


 食べました、苦手なあまり味が分かりませんでした、じゃもったいないし失礼だ。慌てて自己主張した言葉はあまりにも幼稚だったが、千誠はしょうがないなあとでも言うように優しい苦笑をして、これまた快諾してくれた。


 栗原さんってば、俺の事甘やかしすぎじゃん? と寛茂が一人悦に入っていると、千誠が釘を差した。


「あなたが成長したらご褒美に作ってあげよう。何の為のルームシェアか分からなくなってしまうからね」

「そ、そんなぁ……あ、味見もダメですか?」

「駄目だよ」


 きっぱりと言い切られ、寛茂はがくりと頭を落とした。カレーの匂いが寛茂を慰めるかのように漂っている。


「ちょっとだけ!」

「駄目。甘やかすタイミングは私が決める」


 さすがは社内でも有数の優秀な人。寛茂は説得を早々に諦めた。結局のところ、寛茂が頑張れば食べさせてもらえるのだ。頑張る以外の選択肢はない。


「頑張ります……」

「良い返事だ。私もそれまでに和菓子の苦手なあなたでも食べられるようなものを考えておこう」


 千誠はそう言って寛茂に笑いかけた。きゅん、と胸が高鳴る。どきどきしてきた。


 和菓子を考えておく――ってもしかしたらオリジナルの和菓子かもしれない! さすがに期待しすぎかもしれないが、栗原千誠という男は期待を裏切らない人間だと知っている。

 とっても楽しみだ。その前に試練が横たわっているが、何とかなるだろう。ならないと困る。浩和は残っているカレーをがつがつと平らげ、与えられていた課題へと向かった。


 課題、とは千誠特製の問題集ノートである。ノートは千誠の自作で、無地のルーズリーフに印刷されたものをファイリングしたものだ。すごい。内容はそんなに難しくはないと千誠に言われている。問題集ノートと言っても、参考書みたいな感じで仕事の流れとかを勉強するパートと、それらを確認する問題パートが載っている。

 これを読むと、なぜ旅費精算が必要なのか、とか色々分かるようになっている。寛茂の為だけに使うのはもったいないレベルの仕上がりだった。


「……お金って、当然なんだけど勝手に入ってくるもんじゃないんだよなぁ」

「売掛金の回収のところか」


 片づけを終わらせたらしい千誠が勉強中の寛茂の側にやってきた。ふわりとコーヒーの香りがして、彼が勉強用にコーヒーを用意してくれたのだと分かる。嬉しいからちゃんとお礼を言った。


「ほら、普段の生活だと物とお金を直接交換するじゃないですか。でも企業間になるとそういうパターンじゃない事の方が多いから。その後払いみたいなパターンで、ちゃんとお金が入ってこないリスクがあるわけで。

 俺はそういうところまで考えてなかったなって。昔社長から“金を回収するまでが営業だ”って言われたんですけど、よく分かってなかったって事が分かりました」


 売り上げが確定した時点で成績に反映されるから忘れがちだった。お金は無限に湧いてくるわけじゃない。だから会社の運営に関わるありとあらゆるお金の流れを把握する事が必要なんだ。

 売掛金の回収を勉強して、集金の大切さを認識していく内に、よく経理の人に怒られてしまう旅費精算が頭に浮かんだ。

 そりゃ、怒られるよな……。


 景品だって、どういう理由でなぜそれが必要なのか、ちゃんと説明してくれないと困るって言われた時「何で? あげちゃダメなの?」って思っていたのも反省しないといけない。


「粗利率とか、もう営業会議中もワケわかんなかったけど、何となく分かるようになってきました」

「……やはり、分からないで会議に出ていたか」


 独り言のように感想をぽつぽつ言っていると、千誠の残念そうな視線とそれに似合った言葉がこぼれ出る。うう、すみません。これからちゃんとした営業になるんです……。

 寛茂の勉強会は、まだまだ続く事になりそうだった。

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