第11話 何とか終わった非日常

 ちょっと危なかった。浩和は祥順の手でベッドメイクの済まされたベッドに飛び込んだ。祥順とのスキンシップには十分に癒された。むしろ少しばかり過激だったとさえ思う。

 同棲初日でがっつくわけにもいかないわ、自分自身の体力も想定外の休日出勤でぼろぼろだわ、最後のキスでランナーズハイにならなかったのが幸運だった。

 ――何も期待していなかったとは言うまい。確かにちょっとは期待していた。でも、あんなに祥順が積極的だとは思わなかった。いや、そう考えるのは彼に失礼だろうか。


 祥順が完全に癒しのスキンシップとしてのキスの時間だと思っている間、浩和は悶々としていた。癒しと欲望に揺れ動いていたというのが、正直なところだった。

 多少は勝手に手が動いてしまっていたが、性的ではなかったはず。あちこち撫で回したいと何度も思った。が、祥順の考えとは違うし、浩和が今求めているものも違うはずだった。


 癒しと欲望は違うものだ。


 浩和は何とかくすぶる欲望を無視し続け、そうして欲望に打ち勝った。適当なところでキスを切り上げ、カステラを食べて欲望を散らす。そしてシャワーを浴びる事で祥順と物理的に距離を取って脳を冷やす。完璧だ。

 こうして浩和は祥順との穏やかな関係をやり過ごし、ベッドへとたどり着いたのだった。


 明日は午前中だけの出勤。もちろん、休日出勤の結果を報告する為だ。寛茂の報告書と浩和の報告書、各自作成して提出したら明日の仕事は終わりとなる予定だ。

 今はかなり疲れている。祥順とのふれあいに心は癒されたが、肉体はぼろぼろだった。先週の半ばから週末にかけて精神的なものもあったが、肉体的にも結構厳しいラインだった。

 運送屋に掛け合ってミスをどうにか調整し、通常業務をこなす。


 運送屋との微妙な調整が割ときつかった。通常業務の最中に運送屋と密に連絡をとる羽目になったから、どうしても集中力が繋がらない。集中したと思ったら電話、終わって通常業務を始めたと思ったらまた電話、の繰り返しだった。

 更には日曜日の引っ越しの準備があり、仕事が終わってからはそれにかかりっきりだった。土曜日にしようと思っていた事を全て平日の内に終えなければならないのもかなりハードだった。


 それを寛茂に当たるつもりはない。からかう事はあっても、これからもずっとこの件を追求する事はない。どうにか帳尻合わせができ、本人が心から反省して教訓とし、次回に活かせるのであれば良い。

 まあ、とにかく浩和は肉体的にも精神的にも緊張を強いられ続けていた為、本当に疲れていた。ただ、祥順が先に浩和の精神的な疲れを癒してくれたからこそ、ランナーズハイにならなかっただけだろう。


 浩和は本当に、深く長い息を吐いた。とにかく全てなんとかなって良かった。引っ越しの方は、祥順に全部任せてしまう事になって申し訳なかったが、とても助かった。浩和の事前準備が良かったというのもあるだろう。それを考慮しても祥順が何とかやりきってくれたのは大きい。

 明日の朝は祥順が作ってくれたスープにチーズを投入したものを食べて英気を養おう。そして午後は部屋を片付けてて、祥順の為に豪華な夕食を作ろう。それが良い。

 浩和はそんな事を考えている内に、いつの間にか眠りについたのだった。




 浩和は普段通りの時間に目覚め、そして目覚めたのが新しい家だったと思い出す。前の家に比べたら格段に近いこの場所では、早く目が覚めすぎたかもしれない。

 浩和はそっと部屋を出て祥順の部屋を覗き込む。彼はまだ眠っているようだ。起こさないように気をつけながら身支度を整える。ついでに空調のスイッチを押して快適な状態に近づけておく。

 早く起きたのは丁度良かった。浩和は昨日、祥順に全てをやってもらってしまった為にキッチンがどうなっているのか把握していなかった。今の内に確認してしまおう。


 まずは水回り、それからカトラリー。食器の場所や食材の場所、順番に見ていく。引っ越しに向けて食材は減らそうとしていたから、そんなに種類は多くない。冷蔵庫の中もかなりすかすかだ。

 祥順が作ったスープは、鍋ごと冷蔵庫にしまわれていた。中身は結構残っている。朝食として食べても余ってしまうだろう。


 浩和は今日の夜のメニューに一品加える事にした。スープはアレンジがきくから良い。多めに作って少しずつ味を変えて食べるのが浩和流だった。そんな事、祥順は知らないだろうが。

 スープのアレンジ、祥順は驚いてくれるだろうか。浩和は小さく口元を歪ませながら鍋を取り出した。

 温めている間に使えそうなものを取り出して準備を進める。まずは、家で使っていた大きめのココット――今日の引っ越し荷物として移動してきた段ボールに入れていた――を洗うところから。


 一度沸騰させて煮返したスープをココットへとよそう。具材はたっぷり、スープは少し少なめ。これに祥順が好んで買っているフランスパンを一切れ、更にミニトマトとチーズを乗せてオーブンで焼けば立派な一品料理になる。

 オーブンを余熱している間に祥順を起こす事にする。起きるには少し早いかもしれないが、まあ良いだろう。

 祥順の部屋をノックした。が、物音がしない。もう一度だけノックをし、反応がない事を確かめてからドアノブを回した。静かに開けば、暑かったのかタオルケットを蹴り飛ばして眠る祥順の姿があった。

 珍しく寝乱れている。珍しい姿を見る度に浩和は嬉しくなる。


「カジくん。朝だよ」

「……」


 簡単には起きそうにない。だがここで諦める浩和ではなかった。

「カージーくーん」

 もぞもぞと小さく動く様子が見える。何だかかわいらしい。もう一度呼んだ。今度はうなり声がした。


「起きないと寝ぼけてるカジくんにキスの嵐を降らせるぞ」

「朝ぁだめぇ……」


 眉間には皺、目を細めて口を歪ませている。かすれ気味の声が全く色っぽくない。

 眠さのあまりくしゃくしゃになっている祥順は可愛かった。が、容赦せずに起こす。

「なら起きるんだ。朝ご飯もできてしまうよ」

「うぅ……」

 諦めたのか、朝食に誘われたのか、祥順は非常にのっそりと、カタツムリもあくびしそうなくらいにゆっくりとベッドから起きあがるのだった。

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