第10話 デザートはキスとカステラ

「明日は午前中だけ出社して、午後は半休とるよ」

「それは良いな。でも、いずれにしろ連続勤務になってしまうから、できれば一日分は休みを取ってほしいところだ」


 二日間の片方だけが出勤になった時、ほとんどの人が休日出勤扱いを希望する。二日間両方、という時は片方だけ代休を取るようにという暗黙のルールがあった。

 希に「休日出勤大好き、代休を取るなんて!」という社員もいるが、そういう人間の連続勤務が続くようなら上司から会社命令で代休を取るように指示する事になっている。

 祥順からすれば、休日出勤し続ける人間の気が知れない。割高でお金がもらえるという単純な理由かもしれないが、正直経理側からすれば無駄な出費である。


 正当な理由があって仕方なく続いてしまっているのならば、過労になる前にどこかで代休を取ってほしい。

 休日出勤とは、本人にとっても、会社にとっても、あまりメリットがないのである。というのが祥順の持論であった。


「じゃあ、今日の午後と明日の午前で一日分。これならどうかな」

「良いと思う。伊高さんも他社との約束がなければ同じように休みを取ると良いよ。突然の休日出勤に対しては代休の承認緩いから二人同時でも大丈夫だと思う」

「うん。明日部長にかけあってみるよ」


 そう言ってから、浩和は長い息を吐いた。

 さすがに疲労もピークなのだろう。無理はない。


「片付けとかは気にせず、お風呂入って休んだら?」

 立ち上がりながら言えば浩和はゆっくりと頭を傾けた。


「うーん、そうしたいのは山々なんだけど」

「けど?」

「せっかくの同棲初日なんだから、もったいないなと」

「は?」


 一瞬何を言ってるのか認識できなかった。もったいない、と言ったか。確かに初日なのは初日だが、体調管理は大切だ。

 それに、どことなく顔色が悪い。疲労が顔に出ているのなら尚更休まないと。


「もったいなくない。今日の続きは明日明後日ってあるんだ。初日の思い出は俺の手作りスープとこれから食べるカステラで良いだろ?」


 そう言いながら祥順は皿を下げていく。


「でもなぁ」

「片付けは俺がするって」


 浩和が手伝おうと立ち上がる度に肩を押さえつけ、忙しなく動いた。さっさと食器をシンクに置いてしまえば何もできまい。それに良い事を思いついた。


 思い出が物足りないのなら、これから少し追加してやれば良い。


 祥順の頭の中は、いかにして浩和を満足させ、かつ早く休ませるかでいっぱいになっていた。

 恋人らしい事があれば良いのである。多分……と、祥順は恋人っぽい行為を思い浮かべた。ハグをするとストレス解消になるという話が一時流行ったな。でもハグという行為自体が少々壁が高すぎる。そんな文化には一切触れずに育った祥順にとって、難易度が高いのである。

 過去にいた何人かの彼女とはどうだったのかと聞かれたら、いささか答えにくいものがある。祥順はあまり肉体的接触は得意ではなかったのである。

 そんな祥順でも、恋人らしい行為として頭に浮かんでくるのはそういった得意ではない方面の行為が多かった。


 恥ずかしさ、精神的抵抗感、全てを飲み込んでやるべきである。祥順は浩和の背後で小さく頷いた。

 やろう。やるべきだ。好きな相手にする行為なのである。

 疲れている恋人を労うのを躊躇うわけがない。今度は少しだけ強く頷いた。そしてゆっくりと両手を広げた。


「ん? どうした」

「……労いのハグ」


 包み込むようにして背後から抱きしめ、その首筋に頬を寄せた。暑い。ほんのりと汗の香りが香水に紛れ込んでいる。今日はマリン系の爽やかな香りだった。


「俺汗かいてるよ」

「うん。少し汗っぽい」

「カジくんはトリートメントの匂いがしてる」

「嗅ぐなよ」

「はは、お互い様だ」


 少しばかりしっとりとした浩和の肌。冬だったら丁度良いのだろう熱。密着しないと感じられない事がたくさんある。自分の心臓が元気良く跳ね始めているのを祥順は感じていた。

 浩和を労ろうと思っての行動だったが、祥順の中にも安心感が広がっていく。思いの外効果はありそうである。


「カジくん」

「何」

「向き、変えないか? 一方的にハグされるのもちょっと」


 体温が馴染んできて丁度良い具合になってきたのに。祥順はしぶしぶと向かい合うように、座っている浩和の斜め前に移動して抱き締めなおした。

 もしかしなくても、向かい合う方が恥ずかしいのではないか。祥順がそう思ったのと浩和の腕が背中に回されたのは同時だった。


「うん、落ち着くな」

「そうか」


 祥順の方は落ち着かない。姿勢が姿勢なだけに腰が痛くなりそうだし、向かい合ったせいで接触面積が増えて変な汗をかきそうだ。

 息は乱れてないだろうか。そんな事ばかり心配している祥順はどうするのが最善なのか、全く分からなかった。


「カジくん」

「……何だ」


 少しだけ身を起こす。当たり前だがすごく近い。鼻と鼻なんて、今にもついてしまいそうだ。ちょっとでも下手に動いたら。祥順は身を固くする。

 身動きを止めた瞬間、浩和の方が動いた。ちょんっと唇に軽い感触。キスだ。

「な……」

 驚きに喉が震えた。この前は“する”という予感がしていた。でも、今回はそれがない。


「ハグの中にキスは入るから」


 からかうような言い方に甘さが隠された声色。胸の奥がざわついた。

「じゃあ、良い」

 祥順は思い切って浩和に口付けた。祥順からお返しが来ると思っていなかったらしく、背中に回っていた腕がぎこちなく揺れる。気分を良くした祥順は、そのままキスを深めていった。


「デザートの、カステラの前に……デザートがきた」

「……馬鹿言うな」


 キスの合間に浩和が嬉しそうな笑いをこぼす。照れ隠しのせいか、はたまたキスが中断されるもどかしさのせいか、祥順は不満そうな声で返事する。

 喉で笑いながら浩和はまたキスを送る。段々と穏やかな気分になってきた。攻撃的でもなく、かと言って官能的でもない、ただお互いが近くにいる事を確認するだけのキス。

 ひとしきり互いの存在を確かめあった二人は、どちらともなく体を離した。


「……カステラ食べるか」

「そうだな」


 ふんわりとした生地に適度なザラメの食感が美味しいカステラだった。ウイスキーが合いそうだが、疲労が溜まっているであろう浩和の事を考えると、酒を提案する気にはなれなかった。

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