第3話 沈む心にホットな差し入れ

 紗彩達との食事会は結局閉店まで続いてしまった。終電ギリギリである。浩和は急ぎ足で駅を目指す。紗彩達はといえば、近くに住んでいるという事で徒歩で帰っていった。

 二人が並んで歩き去る姿を見て、本当に自分が目撃したのは明寧の後ろ姿だったのだと理解した。すらっと伸びた背中、自信のある雰囲気を纏った男らしい歩き方。

 それでもよく見れば女性だと分かる。当時の自分がどれほど冷静でなかったのかと呆れてしまう。


 恐らく焦っていたのだ。彼女との将来を真剣に考えるあまり、慎重になり過ぎたのだ。だから、ちょっとの事で揺さぶられて冷静さを失う羽目になったのだろう。

 自分が仕事を忙しくしていた。彼女だって忙しかった。二人で様々な習い事も通ったし、セミナーも参加した。一緒にいて、欠ける事のない完璧な相手だと思っていた。

 できる限り余裕のない姿は見せないようにしていたし、できる限り平等であれ、誠実であれと動いていた。でも彼女には全て見透かされていたのだと浩和は苦笑した。


 電車に半ば駆け込むようにして乗り込んだ。昔の事を考えながらリズムも乱して動いたせいか、無駄に息が弾む。

 何だか悔しかった。明寧に言った通り、自分は彼女に劣る人間だ。優越など、とは思うが、それは浩和の正直な気持ちだった。


 結局、良いところだけを見せようと足掻いていて、それがバレただけだ。それに、紗彩は何でもでき過ぎた。甘やかすという事はあまりしなかった気がする。むしろ戦友であるかのような扱いだったかもしれない。

 それに比べ、明寧は何かあれば紗彩を褒め、愛を囁く。ただ積極的だと簡単には言えない何かがそこにはあった。

 言うならば――そう。心から彼女が愛しくて仕方がないという、絶対的な情念。理性的な部分ではなく、精神が魂が、彼女しかいないと叫んでいるかのようだった。


 自分の紗彩への気持ちが嘘だったとは思わない。勘違いだけで振られるには理由があったのだという現実を味わっただけだ。そして、自分がどれだけかっこよくないかを突きつけられただけだ。

 明寧に言われた通り、スパダリ系であってスパダリではない。浩和は溜息と一緒に電車を降りた。落ち着いた足取りで家を目指す。


 浩和の思考はマイナスのスパイラルを描いていた。珍しい事であるが、自身の行動を独りよがりの行為だったと反省していたのだ。

 駅から徒歩十分ほどの家に着き、鞄を下ろした。コートを脱いでジャケットと別々のハンガーにかけるとひんやりとした空気が浩和にまとわりつく。燻っている熱を冷ましてくれる気がしたが、このままほとんど外と変わらぬ室温の場所で過ごすわけにはいかない。

 ネクタイを解きながら空調のスイッチを入れる。


 軽い溜息を吐けば、うっすらと息が白くなる。ゆるゆると首を横に振り、もう一度息を吐いた。日付はとっくに変わっており、早く寝なければ明日の仕事に差支えるだろう。浩和はもやもやとする頭を意識的に無視してシャワーを浴びたのだった。




 久々にすっきりしない朝を迎えた浩和は、足早に家を出た。少しばかり早く会社へ辿り着いた事に気がつくと、課題として残っていた企画のチェックをし始めた。

 それは年末に常務から渡された例の企画であった。

 あれから正式に企画を動かしていく事になり、問題児である寛茂ひろしげと二人が中心となるという、浩和には今年で一番重たいだろう課題となったのだ。

 寛茂の脳味噌はアイディアに溢れていた。柔軟な思考に依るものなのだろう。書類をまとめたり、裏付けなどの調査に関しては正直納得いくレベルではない。だが、それさえ浩和が補ってやれば、すばらしいクオリティの企画になると踏んでいた。


 最低限の能力は欲しいが、全て完璧でなくとも良い。補える人材はいる。チームプレイとして成立すれば、何の問題もない。本来会社とはそういうものだ。

 浩和は今回彼の足りない部分を補うのが自分だと理解していた。

 だからこそ、色々な情報が入っていない朝に行う仕事として最適なものだと考えたのである。元々取りかかろうと思っていた。それが少し早くなっただけだ。


「あれ? 早いですね」


 集中して情報の整理をしていると、階段の方から声が聞こえた。祥順である。ちらりと頭が壁から覗き出る。こちらに向いているのが分かった。

「カジ君こそ」

「いえ、私はだいたいこの時間ですよ」

「マジ?」

「すみません、嘘です」

 しれっと答えた祥順は、浩和が聞けば嘘だと笑う。こういう小さくてくだらない嘘は良い。昨晩から殺伐とし始めていた浩和の心が潤っていくようだ。

 出社時間の一時間前だというのに、どうしたというのだろうか。


「今週、とてつもなく忙しくなりそうな予感があったので、早出してるんですよ」

「なるほど」

 今週は会議が多く入っている日だ。こういう週は、ずっと外に出ていて本社に戻らない社員の旅費精算やら様々な書類が駆け込んでくるのだと言う。戻る日が少なければ、必然と書類の提出はまとまってする事となる。

 それを見越して出勤していたという彼は、社員の鑑であるように感じられた。


「もちろん早朝出勤の許可はもらってますからご心配なく。

 所で、滝川さんはどうしてこんな早くに?」

「たまたま早く目が覚めてね。

 まあ……あと、今問題児とのタッグで企画をやってるから、できる限りまとめておきたいという気持ちもあって」

「ええ、えと、つまり伊高さんの企画?」


 おそるおそるといった風に、名前を出す祥順に浩和が笑う。どこの部署でも彼の事は問題児で通ってしまうからだ。だが、それは彼が本当に嫌われているからではない。人懐っこく、人誑しな部分を持つ彼は、実際の所誰からも好かれている。

 そうでなければ浩和だってここまで熱心にサポートしようとは思わない。どんなに嫌いな人間相手でも、仕事はしっかりとこなす自信はある。

 浩和は、寛茂にならばその普通以上に手をかけても良いと思っているだけだ。


「彼、面白いですよね」

「まあね。だから俺もこうして頑張っているわけ」

「じゃ、そんな頑張っている人にはご褒美」

「お?」


 どうやら遠くで会話をする理由があったようだ。ぴょこんと壁から出てきた祥順の手には近くにあるカフェのコーヒーが握られていた。彼が近づいてくるとおいしそうなコーヒーの香りが漂ってきた。

「勤怠データにあなたの出勤が反映されたから、買ってきちゃいました」

「ありがとう」

「気の利くいい男に、これで少し近づけたかな……?」

 礼を言う浩和に対し、祥順が余計な一言を口にする。

「それ言ったら無駄になるんじゃないか?」

「ふふ」

 そうやって笑う祥順の表情は穏やかで、そして少しだけいたずらっ子のようだった。

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