第14話 おせちとお屠蘇と笑い上戸
獺祭についての説明を聞きながら、祥順はお重に箸を伸ばした。磨きと分離に力を入れ、杜氏を使わないという変わった会社で作られている、といった会社の情報が耳に入ってきていた。
まずは、と祥順は力を入れて作った松風焼きを口に運んだ。……おいしい。鶏のひき肉はしっかりと塊にまとまっていて、ボロボロと不用意に落ちたりはしなかった。
さっぱりした味付けになっており、噛めば噛むほど野菜や肉の甘味を感じる事ができる。
ここでくいっと猪口を傾け獺祭を口に含めば、爽やかな香りが鼻を抜けた。これはうまい。
祥順が頬を緩めていると、浩和の獺祭トークは造酒の設備が一般的な日本酒の蔵からどれくらいかけ離れているのか、に入っていた。
「日本酒って職人技みたいなイメージが強いんですけど、このお酒は少し違うんですね」
「ああ。どっちかと言えば、蔵というよりも工場だ。
すっきりとした澱みのない味で、俺は好きかな」
「透明感のある味ですよね。
でも、飲み過ぎてしまいそうなくらい飲みやすい」
祥順の言葉に浩和は笑う。
「朝っぱらから酔っぱらいか?」
「新年早々急性アルコール中毒とかで運ばれたくないんで程々にしますって」
浩和はたたき牛蒡をぽりぽりと音を立てながら食べている。祥順も一つ口に入れる。ふんわりとただよう酢の風味は強くなく、出汁のきいたまろやかな甘みの方が目立つ。
食感は良く、酒のつまみにちょうど良い。
祥順が酒のつまみに夢中になっている間、浩和は雑煮を口にしていた。
「カジくん、そろそろお雑煮食べないと餅がもったいない事になるよ」
「あ」
餅の存在をすっかり忘れていたらしい祥順は、慌ててお椀を手にし、箸で餅を探し始めた。
「あぁ……底に餅がくっついてしまってます」
「ほらみろ。ってそれは放って置かなくてもなる時はなるけど」
残念そうに眉を下げ、餅を伸ばしながら口に運ぶ──が、はふはふ、とまだ熱すぎたのか餅に息を吹きかけ始めた。
「無理に食べようとすると咽せるよ?」
「は、はかってまふ」
口に入れたは良いが、まだ熱かったようだ。祥順は口を尖らせるようにして口内の面積を広げようと変な顔をしている。心なしか目尻には涙も浮かんでいる。
「水取ってくるから頑張れ」
笑いそうになる自分を押さえながら、浩和は背を向けた。耐えきったとばかりに表情筋の力を抜く。彼の表情は崩れていた。
「ほら、お水」
「ありがとうございます……!」
かぶりつくかのようにコップを手に取った祥順は、ちょっと失礼、と一言断ってからコップを斜めに構えたまま制止した。水を飲む姿のまま動かなくなった祥順を不思議な生き物見るかのように浩和は見つめる。
喉が動く気配はなく、ただコップが傾けられているだけに見えた。
浩和は少しだけ考え、そして一つの解を見いだした。コップに入っている水で口の中を冷やしているのだ。恐らく祥順はコップの水を口に流し込み、その体勢のままにしている。
ただ口に含んでおくのと何が違うのかと、更に考えてみると、面白い事に気がついた。
温度の高い環境に閉じこめられた水はすぐにぬるくなってしまう。それは温度の高い環境に対して冷たい水の量が少ないからだ。
だが、こうして口を開いたままにして冷たい水の量を相対的に増やせば、水がぬるくなる速度は遅くなるかもしれない。
論理的かもしれないが、かなり、これは人間としてはひどい。面白すぎる。一言断った理由も納得いくが、それにしてもひどい。
浩和は社内で見せる事のない顔ばかりする祥順を見ていられなくなり、ついに笑い出した。浩和の笑い声に引き寄せられるように祥順が視線を動かした。
コップをテーブルに置き、水を飲み込む。そして笑い続ける浩和へ不思議そうな視線を向けながら首を傾げた。
こんな生き物見た事がない。浩和は一層笑いが止まらなくなったのだった。
浩和があまりにも笑い続ける為、祥順はどうして笑っているのか聞き出す事を後回しにし、食事を再開した。雑煮にリベンジである。真剣な様子で、今度こそ自分が食べられる熱さまで冷めるのを待った。
ようやく一口。
祥順は笑い転げる浩和を気にしないようにする事に成功していた。お餅、おいしい。それが祥順の雑煮の感想である。そして、ゆっくりと綺麗に飾り切りされたニンジンを見た。
祥順には、かなり練習しなければできないであろう桜の形である。どうやれば、あの小さな円の端を三角の美しい形に切る事ができるのだろうか。そんな事を考えていた。
だし汁にほんの少し塩味のついた雑煮は、野菜の栄養が溶け出し、優しい味となって餅に染み込んでいる。
祥順はそれらを味わいながら、呼吸困難になってまで笑っている浩和を見た。
――本当に、不思議な男である。
特にこの年末は、彼について新しい発見ばかりであったように思う。小さな事、祥順には気づきようもない事で笑い転げている。祥順から見て、浩和は随分と幸せそうだった。
公私ともに仲良くさせてもらっているが、一方的に喧嘩をふっかけるような雰囲気になってしまった時でさえ、笑い出した。
浩和にとって、何がそこまで楽しいのか、祥順にはとうてい理解できそうになかった。
だが、祥順とこうして時間を過ごすには過ぎた男なのだろう。浩和はとてつもなくいい男だ。さすがに笑い転げるのはどうかと祥順も首を捻る所だが、喜怒哀楽の制御が下手な祥順と比べなくても、精神的に余裕があるように見える。
一度だけ見た彼の涙など嘘だったのではないかと、祥順が自分の記憶を疑いたくなる程だ。
落ち着いてきたらしく、祥順の目の前にいる男は呼吸を整え始めていた。だいぶ頬が赤い。どれだけ笑い転げていたのだ、とこちらが笑ってしまいそうだった。
祥順は昆布巻きを口にした。甘じょっぱさがちょうど良い。砂糖というよりは、みりんの甘さだろうか。少しこってりとしている気がするが、実家の昆布巻きはお酢っぽくてしょっぱかった。
浩和には言っていないが、実のところ、おせちの昆布巻きは苦手意識のある料理である。だがこの味ならば、食べ続けられる。と言うよりも、本来の昆布巻きはこういう味なのだろう。
祥順が料理に対して今まで興味を見いださなかったのは、育ててくれた母には悪いが、彼女の料理がへた――いや、彼女が料理を苦手としていたからかもしれない。
一般人の手料理がおいしいと分かっていれば、何もかもが違って見えるようになる。そんな事に気づかせてくれた目の前の男は、やっと普段の状態に戻ったのだった。
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