第9話 おせち作り戦争十二月三十一日午前前半 ――卵料理の乱――

「さ、起きて!」

 昨日と違って豪快に布団をはぎ取られる。驚愕のあまり、祥順はびくっと全身を跳ねさせ目を見開いた。

「おはようございます、もう朝ですよ」

「……おはようございます」

 浩和の爽やかな雰囲気をまぶしく感じながら挨拶をする。今日は午前中の内に伊達巻き、栗きんとん、松風焼きを作って、かまぼこを切り、お雑煮の準備をしなければならない。


 なぜならば、午後には年越しそばの用意が待っているからだ。


 伊達巻きと松風焼きは比較的簡単に作れるらしい。祥順は昨晩、浩和にレクチャーされた事を思い出していた。祥順が目覚めたのに満足した浩和は朝食を用意すると言って部屋を出ていった。

 急いで身支度を整えながら、祥順は脳内で午前中の動きをシミュレーションするのだった。


「フリッタータにしましたよ。トマトとほうれん草をメインにしたイタリア風オムレツです。

 朝食用に、と思いついたので中身は簡単なんだけど」


 そう言われて出されたのは、大きなオムレツだった。一つの皿にのせられたそれは、席に着いた祥順の目の前で適当な大きさに切られていく。卵のほんわりとした香りに、チーズの香りが混ざっている。

 祥順の胃袋が、このおいしそうな香りで目覚めていくように食欲が湧いてくる。すぐに食べたい欲を抑え、自分の皿へと盛られていくオムレツを見つめていた。


 丁度二等分に分けられたオムレツを一口食べる。チーズの濃厚な味にさっぱりとした甘さのあるトマト、ほうれん草が組み合わさり、何とも言えないハーモニーを奏でていた。

 トマトは酸味があり、チーズのこってりとした部分を宥めている。ほうれん草が味をまとめていて、それらをふんわりとした卵が包み込んでいる。卵の具合も絶妙で、祥順には真似できそうになかった。


「すごくおいしいです。俺、このフリッタータの甘さとかのバランスが好きです」

「嬉しいよ、ありがとう」


 たどたどしい褒め言葉だったが、浩和は気をよくしたらしい。いや、いつも楽しそうにしているか。と、祥順は頭の中で思い出す。祥順の中で、ストレスフルに見えたのは初めて二人で飲みに行った時くらいである。

 それからこうして二人で過ごす事が多くなったが、それでも見た事はない。むしろ、今のように楽しそうにしている姿ばかりである。


 自分の機嫌を取る、とでも言えば良いのだろうか。

 彼はマインドコントロールが得意なのだろう。それに比べて祥順はあまり得意な方ではない。それだけでなく、元々祥順は浩和に比べて何事もずいぶん劣っていると感じている。

 だが、劣っているからと卑屈になっているのではない。彼を見習いたいと、強く憧れているのだ。

 どのように自分の心に言葉がけをしているのだろうか。それを少しでも知る事ができれば、自分も彼のようになれるだろうか。


 爽やかオーラを垂れ流しにしている浩和を眺め、祥順も努めて明るく口を開く。

「滝川さんの料理、すごく好きだから毎日食べられて嬉しいです」

 祥順の拙い褒め言葉に、浩和はまた嬉しそうに笑むのだった。




 朝食を穏やかに過ごした二人は、さっそくおせち作りに取り掛かった。昨日で、一緒にキッチンを立ち回る事に慣れたからか、浩和がいちいち指示を出してから祥順が動くという回数は減っていた。

 祥順が伊達巻き用の調味料を計り、混ぜ合わせる。その間に浩和がはんぺんをちぎる。祥順がはんぺんに驚くと、泡立てた後のふわふわ具合を保つ為に必要なものらしい、と説明されて納得がいった。


 おでんの具で有名なはんぺんは、確かにふわふわでとろけるような感じの食感がある。

 それが卵に入ったら、おいしくなるに違いない。思い浮かべるだけで楽しい気分になる。

 はんぺんとその他の材料全てをフードミキサーへと入れて攪拌すると、生クリームのようにしっかりと泡立ち、とろろ芋のようにとろとろとした液体が完成した。


 ふわふわのとろとろな液体になったそれを、油をしいて熱したフライパンに流していった。卵を綺麗に焼かなければならない為、祥順がするよりも浩和の方が良いだろうと祥順が提案――単に自分でできる自信が全くなかっただけである――すれば、浩和は軽く頷いて卵焼き用の四角いフライパンを手にしていた。

 卵に焼き色をつけるのがミソらしい。浩和は用心深く焼き色を確認している。祥順はそれを片目に見ながら伊達巻きとする為に必要なアイテムがすぐに使えるように準備していた。

 伊達巻きに必要なアイテム、それは巻きすである。


 伊達巻きは卵焼きを海苔巻きのように巻きすでぐるっと巻き付けて作るのだ。因みに祥順は巻きすを使って何かを作る事などほとんどない。

 記憶に残っているのは、子供の頃に母親が作る海苔巻きを手伝った事くらいだ。つまりこちらも自信がない。不安なものは全て浩和にやってもらおうか、という囁きが頭の中で密やかに聞こえてくる。

 甘えても良いだろう。そんな声だけではなく、やってもらってばかりでは自分の成長にならないし、いつまでたっても浩和に追いつけないぞ、という声まで聞こえてきた。


 脳内会議をしている内に、卵は焼けてしまった。慌てて巻きすをまな板に置く。浩和は見るからにふわっとした卵焼きを巻きすの上にぽんと乗せ、包丁で素早く傷をつける。それを見た途端、やらなければ、という使命感が沸き起こり、祥順は手を伸ばす。浩和はそっと足を引いた。

 そして祥順は気がついた。どうやって巻くのか分からない。

 もたついていると背後から声が掛かった。すぐ耳元に浩和の声が聞こえた。息もかかりそうなくらいで、一瞬どきりとする。


「手早くやらないと伊達巻きにならないよ。ちょっと膝曲げて」

 言葉とほぼ同時に浩和の手が伸びてきて、祥順の手首を掴んだ。後ろから祥順を包み込むように腕が伸ばされたのだ。

 ほとんど同じ背丈の男二人がする体勢ではない。慌てて浩和がやりやすいように膝を曲げてやや猫背になった。


 結構辛い体制だったが、祥順は何も言わずにいた。

 以前嗅いだ覚えのある香水が微かに香る。料理をするからか、とても控えめである。それだけに、今自分達がどれほど近くにいるのかが分かるようだ。

「はい、掴む。抑えながらくるっと巻いて……」

 はっとして、浩和の声に従いながら腕を動かすと、浩和の手が祥順の動きを補うように素早く動いた。


 あっという間に巻き終わる。途中で卵焼きが折れたりする事もなく、きれいに巻けた気がする。祥順は無理な体勢による痛みを堪え、離れていった浩和に隠れて身体を伸ばした。

「ちょっと押さえてて。ゴムで止めちゃうから」

 輪ゴムで巻きすごと固定した浩和は、祥順に手を放すように言って冷蔵庫へとしまった。冷えると巻きすの形が卵焼きの表面を変えて、伊達巻きらしい波の形が出るのだという。

 巻きすを剥がすのが楽しみだとワクワクした気分のまま、次の料理へと取りかかるのだった。

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