第7話 おせち作り戦争十二月三十日午前中 ――やる気満々の浩和――

「早く起きて!

 おせちが間に合わなくなりますよ」


 しょぼしょぼとする目に力を入れてぎゅっと閉じ、祥順は目を見開いた。その視界いっぱいに浩和の顔が広がっている。祥順がぎょっとして身を固まらせれば、浩和はすぐに身を引いて笑い出した。

「優しく声をかけているのに、ぜんっぜん起きる気配がしなかったから」

「……それはすみません」

「早朝から取り掛からないと、作りきれないし」


 にこやかにそう言う浩和は既に身支度を整え、エプロンまでしっかりと身につけていた。

「何より夜に仕込んだ黒豆がぱさぱさになってしまう」

「あ」

 祥順は黒豆について注意事項があった事を思いだし、急いでベッドから降りる。彼が立ち上がるのを確認すると、浩和は部屋を出ていった。

 黒豆は煮る前に水に浸して準備しなければならず、昨晩水に浸してキッチンで寝かせていたのである。


 浸す時間は六時間以上と長いが、時間が経ちすぎると水を吸いすぎて煮込んだ後ぱさぱさ、ぼそぼそになってしまうという。

 ぷっくらとしたおいしい黒豆にはいくつかコツが必要のようである。火が通れば料理は完成だという認識で一人暮らしをしていた祥順は、今更ながらに母親の素晴らしさを理解したのだった。


 祥順が時計を見れば、まだ六時半である。どうりで眠いわけだ。仕事の時に起きる時間よりも早い。

 それでもこのままのんびりとしている事はできない。一緒におせちを作ると約束したのだから。

 彼だけに任せるわけにはいかないと自分に言い聞かせて着替える。

 身支度を整えてリビングへ行くと、朝食を並べている姿が目に入ってきた。寝坊した祥順は肩身の狭い思いを感じながら、浩和に指示されるまま席に座る。


 今日の朝食はベーコンエッグとチーズトーストだった。手動のコーヒーミルでの挽き立てコーヒーがその脇に用意されている。シンプルだけど贅沢な食事だった。

 食事をとりながら今日作るおせちの順番などを打ち合わせする。といっても、浩和が祥順に流れを説明していくだけのオリエンテーションだったが。

 料理初心者である祥順にも分かるように、スケジュール表が用意されていたほどだ。さすがデキる男は違う。


 おせちについてまとめられたスライドといい、これらの資料といい、準備している余裕があるのがすばらしい。そんな事をしていたように見えないところもすごい。

 少しだけ、ここまで神経質にこなさなくとも、と思う気持ちも芽生えたが、神経質だからというだけでこのような用意をするとは考えられない。

 これは自分への好意と浩和の優しさから生まれたものなのだ。浩和のスキルに祥順はひたすら感激しつつ、彼の説明を聞くのだった。




「適当でも構わないんだけど、今回はちゃんと計って作ってみましょう」

「はい」

 浩和が作ったおせちレシピを見ながら祥順は順番に調味料を計量していく。まずは黒豆用のグラニュー糖だ。そして次に作り始めるという昆布巻きに使う調味料を計る。

 水、砂糖、醤油、酢、みりんの五種類である。こちらは計りながら全て鍋に投入してしまう。


 二種類の料理用の調味料を計り終えた祥順は黒豆を作り始める。

 黒豆を戻すのに使っていた水は黒豆の重さから計算した量になっていて、それに黒豆と水を鍋の中に計っておいたグラニュー糖、醤油――小さじなので事前に計っておけなかった――を加えるだけという簡単な味付けである。


「落とし蓋と外蓋をして、鍋を見ていてください。

 煮汁がわき始めたら灰汁が出てくるはずなので、すくい取ってくださいね」

 隣では浩和が次に作る材料を切り始めていた。水で戻した昆布である。カウンターの上にはボウルに張った水の中に沈められた数の子が置いてある。塩抜きをしておかないととうてい食べられるものではないらしい。

 数の子を自分で調理した事のない祥順はそれを新鮮な気持ちで眺めていた。


「俺の動きが気になるのも良いけど、ちゃんと鍋も見ていてくださいよ?」

「み、見てます!」


 突然吹き出し、震える声で声をかけられはっとする。豆を傷つけないようにゆっくりとかき混ぜた。

「次に作るのは昆布巻きですけど、平行してたたき牛蒡を作り始めますからね」

 昆布を適当な長さに切り終えた浩和が皿に盛った昆布を見せる。浩和の作った資料を見る限り、昆布巻きを煮詰めている間にたたき牛蒡の下拵えをするようだ。

「そろそろ放置で大丈夫です。あ、弱火にするの忘れないで」

 おせちづくりは初めてだと言っていたはずの浩和は、祥順に任せていた黒豆もしっかり管理下に置いていた。

「昆布巻きですけど、今回はシンプルに昆布だけで作りましょう。小魚系は田作りがありますしね」


 浩和に指示される通りに昆布をくるくると巻いていく。二人で行えば、あっという間に巻き終わった。調味料の入った鍋に昆布巻きを全て入れ、火を入れる。一度沸騰させ、すぐに弱火にすれば、煮汁が少なくなるまで放置で良いそうだ。

 この放置時間にたたき牛蒡の下拵えをしてしまう。たたき牛蒡は最初の処理が一番大切なのだという。ごぼうを祥順が洗っている間に浩和が調理に必要な酢水を作る。たわしを使ってごしごしと洗うと、酢水を作り終えた浩和が包丁を持って待っていた。


 適当な長さに切って酢水に漬けていくと、今度はそれを更に五センチ程度の長さに揃えて酢水の入った鍋へ放っていった。

 手際の良さに感心しながらも、祥順は味付け用の調味料を計り始める。そうしている内にごぼうを切り終えた浩和が昆布巻きの鍋とたたき牛蒡用の鍋を交換して火をつける。それを見た祥順はあわててキッチンタイマーを三分に合わせた。


 メモを確認すると、次の作業は水切りである。ついでにカウンターへ一時的に避難した昆布巻きを見れば、最初の頃に比べるとそこそこ汁が減っていた。

 タイマーが鳴ると鍋の中身を一気にシンクへ置いたザルにあけた。つんとした酢水の臭いがちょっと強烈である。空の鍋に言われるがままに先ほど計っておいた調味料を加える。すりごまも入れようとしたら、それは後だと止められた。


 浩和がまだ熱いだろうザルから鍋にごぼうを戻す。そして水分が飛ぶまでひたすら煮立てていく。まろやかな醤油とこぼうの香りが辺りを漂った。

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