書類不備の原因

第1話 涙ひと粒

 浩和のアドバイス通りに適度に気分転換をしながら仕事を乗り切った祥順よしゆきは、礼を言う為に階段を降りていた。十階の電気は点いている。今は就業時間が過ぎてから一時間経つかどうかといった時間。外はまだ明るく、夕日になろうとしている太陽の眩しい光がビルを襲っていた。

 ここで仕事しているのは仕事に不慣れな新人か、仕事が出来ない人間か、仕事量が多い波が来ている人間か、のいずれかである。


 恐らく今日はまだいるであろう、と祥順は踏んだのだ。企画課のデスクには、誰もいなかった。だが、彼がいると思われる場所は違う。企画課のデスクには向かわず、祥順はまっすぐに打ち合わせスペースへと歩き出す。

 近くまで来ると、携帯端末のバイブ音がした。メールか何かが届いたのだろう。何にしろ、人がいるのは間違いない。


 違う人だったらどうしよう、といった不安の声が祥順の頭の中に響いたが、そんな事は確認すれば解決するだろう。

 声をかけて間違っていたら恥ずかしい。そこで彼は、マナー違反は承知の上でそっと覗き込む事にした。


 覗き込んだ先には、浩和ひろかずがいた。予想通りでほっとする暇なく、想定外の様子に祥順は目を見開いた。スマホを見つめる浩和の瞳から、一滴の涙が静かに落ちていったのである。

 恐ろしいほどの衝撃であった。


「浩和さん!」


 思わず名を呼べば、浩和はびくりと肩を震わせながら祥順の方を見た。彼を呼んだ人物が誰か分かると、慌てた様子で適当に涙を拭った。

 男の涙を見てしまったという気まずさを含めた様々な感情が祥順の中で暴れ回っていたが、彼の口は勝手に言葉を紡いでいく。

「もう今日は仕事を終わりにして、私と飲みましょう!」

「……」

 何を言われたのか分からない、という表情で見つめてくる浩和に、口走った本人である祥順もどんな表情をすればいいのか分からなかった。


「私にも、あなたにも、気分転換が必要です。

 つまり、飲んでストレス発散しましょう」


 意を決した祥順は浩和との距離を縮め、見上げて言った。よく彼の表情を見てみればその瞳は潤んでいる。

 スマホからの情報のせいではなく、突然の展開にも動揺しているように見えた。そんな姿を見ている内に自分の発言は尤もな事であるように感じられてくる。

 仕事仲間にこれほど強く迫った事はないが、何故か祥順は浩和に拒絶される予感がしなかった。


「もう、集中できないでしょう?

 終わりにして、飲みに行きましょう」

 やや強めの言い方になってしまったかもしれないが、祥順は後悔していない。




 困ったような笑みを作った浩和は、結局飲みに行くと告げてきた。祥順はその返事を聞くや否や、すぐにタイムカードを切り身支度を整え浩和の準備を待つ。

 そんな様子を見た浩和は小さく笑い、帰る準備を急ぐ。急いだ甲斐があったなと祥順は彼の後ろで得意げな表情をしていた。

 手持ち無沙汰の祥順は今の内にと端末を取り出した。飲む場所を決めようというのだ。祥順はラフでもうるさい酔っ払いに邪魔されないだろうランクの店を探し出した。


 予約まで済ませたところで浩和の帰る支度が終わったようだ。彼はビジネスバッグに端末をしまい立ち上がる。

「お待たせしました」

「はい。

 あ、お店予約しておきました」

 さすが、と浩和は祥順を誉める。ふふ、と嬉しそうに笑って祥順はエレベーターのボタンを押す。人が少なくなっているからなのか、エレベーターはすんなりとやってきた。二人は穏やかな沈黙の中、示し合わせたかのように乗り込んだ。




「早速ですが、グチりたい事があるならどうぞ」

 それぞれビールで乾杯してお通しを食べ終わった頃、突然祥順が言い放った。浩和は目を見開いたが、すぐにまばたきを細かく繰り返して動揺を取り繕うとしていた。


 簡潔に言い過ぎたと祥順は反省し、改めて説明する。祥順としては最初から涙の理由を聞き出す気はない。たわいもない話でもストレス発散にはなる。

 どうでも良い、適当でくだらない話をして気分転換になれば良い。そんな風に考えていた。


「仕事多すぎ、とか時間がうまくとれない、とか何でも良いです。

 ただの苦情や文句でも良い。

 とにかく口に出してください」


 祥順の言葉は社内での仕事の延長であるかのようになってしまった。面接官、あるいはカウンセラーのような雰囲気になっては、浩和が苦笑するのも仕方のない事だろう。

 適当に吐き出してすっきりしてしまい、それから楽しい話でもできれば良いと本当に思っているのだ。楽しい話を口下手な祥順ができるかは分からないが、嫌な気持ちを持ち越すよりは、よほど良い。


「俺、浮気されて振られたんですよ」

「……」


 いきなりヘビーだった。最初から本題が飛んでくるとは。祥順は何でも言えば良いと言ったが、重たいカウンターが返ってくるとは思わなかった。いや、思い返せば彼が涙をこぼすほどの事態だ。重い何か以外はありえなかったのだ、と思い直す。

 ただ、それを最初から話してくれると思わなかっただけだ。


「気が晴れるなら、俺でよければ全部聞きます。

 もちろん守秘義務は守ります」


 うんうん、と頷きながら祥順は強い声色で言い切った。普段、こんな強引な事はしない。やりすぎかな、という思いが祥順の頭にかすめる。

 それでも彼の涙を見てしまった以上、そして聞くと口にしてしまった以上、もう戻れない。

 少しの間、沈黙が流れる。二人とも無言で箸を動かし、頼んでいたつまみを食べた。祥順が返事をしてから浩和が口を開く事はなく、たた時間だけが経っていく。

 時間が経つほどに祥順は気まずさを強く感じていく。


「俺、カジくんがこんな情熱的だと思ってなかった」

「えっ?」


 浩和の呟きは祥順を驚かせた。しつこい、ずうずうしいと思われているかもしれないと考え始めていた頃合いだったからである。

 浩和は祥順の驚きの声を気にせず、ぽつりと話し始めた。今回の詳細についてである。


 付き合っていた彼女とは、六年前に出会った事。それから約半年後に付き合い始め、出会って一年後には同棲を始めた事。

 祥順が考えていた以上に浩和は細かく話し出した。




 就職したてだった浩和は自らのスキルアップの為、様々なセミナーに参加していた。そんな中、彼女と出会ったのだ。彼女は明るく、華やかな人で、そんな雰囲気に惹かれたのだと言う。

 セミナー中にグループを作って作業をしたりする事がある。特に新入社員向けのビジネスセミナーはそうである。たまたま彼女とは同じグループになり、名刺交換をしていた。受けるセミナーが偶然にも同じだったりすると、並んだ席を取って受講する事もあった。


 偶然出会う事が多ければ、自然と距離が縮まる。どちらともなく食事を誘い合う仲になって付き合う事になった。

 彼女は何でもそつなくこなすマルチタイプの人間であった。お菓子を作って持ってきてくれたりする、可愛らしい女性でもあった。自分の方がやや劣っていると自覚するくらい、彼女は優れていた。

 真面目な性格の浩和が彼女に釣り合うよう、努力を重ねた事は言うまでもないだろう。


 今、浩和がこの会社で凄腕と認識されている陰に、彼女の存在があったのである。転職を考えていると伝えた時も、とても親身になって応援してくれた。二人の間に、不穏な陰など全くないはずだった。

 雲行きが怪しいとは、感じていなかった。

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