第2話 思い出の処理方法
突然だったのだ。本当に。この会社に転職し、それからずっと忙しい日々を過ごしていたのは確かである。
それでも浩和は、彼女と出かけたり家でゆっくり過ごしたりする時間を確保していた。浮気する時間を与えなかったとは言えないが、それでも仲睦まじく過ごしていたはずだった。
そう言って浩和は力なく息を吐いた。
この前の土曜日、たまたま休日出勤となっていた浩和は撮影立ち会いから会社へ戻るところだった。浩和はありえない光景を目に、思わず立ち止まった。
真夏の日差しの下、暑いのも気にせず仲むつまじい様子で手を繋いでいる彼女を見かけたのだ。
相手は、男だった。
すらりとした後ろ姿はかっこよく、少しだけ身長の低い彼女と、とてもつりあっていた。浩和もそれなりに容姿は整っていると思っている。
だが、彼は後ろ姿だけでも自分より上の人間に見えた。自分のいる場所だけが切り取られているような錯覚を覚えた浩和は、二人が遠ざかっていくのを立ち止まったまま呆然と見送ったのだった。
日曜日。彼女は家に戻らなかった。おそらく彼と一緒にいるのだろう。
{昨日の、仲がよさそうな彼は誰?}とだけ彼女にメールを出した。
浩和の心は凍えていた。動揺どころかパニックを起こしそうだった。今やっているコラボ企画がうまく行けば、結婚を申し込もうかと思っていたのに。
土曜日の出来事は、まさに青天の霹靂であった。心の安寧もなく、頭は混乱したまま、月曜日となった。不幸な事に土曜日に撮影があったせいで、月曜日はデータができあがるまで待機である。もともとあったアポイントは延期。浮いた時間になってしまった。
数字でも見れば落ち着くのではないかと、旅費精算をした。その結果があれである。
そして、先ほど涙を流させたメールは彼女からのものであった。
{見られていたとは知らなかったわ。
正直に言えば、ぜんぜん結婚してくれる気配がなかったから義務感で一緒にいてくれてるんだと思ってた。
私、今は彼が好きなの。別れましょう。
今日中に荷物を持って出て行きます。
あなたとの時間は、前半はとても有意義だったわ。
ありがとう。さようなら。}
悪気もない、淡々としたメール。ショックだった。思わず涙がこぼれるほどの衝撃だった。
「まいったよ……本当に」
「……」
浩和は長い息を吐くと、アルコールに口を付けた。今彼が飲んでいるのはシャンディ・ガフだ。祥順も無言でアルコールに口を付ける。こちらはカンパリソーダである。二人とも苦み多めのアルコールで口を満たした。
「滝川さんは、彼女さんをどんな思い出にしたいですか」
「え?」
祥順の言葉に意外そうな声を出した。突拍子もない質問だと祥順自身も思っていたが、聞きたい事はこれなのだから仕方がない。
「滝川さんの話からすると、彼女さんに対して怒りとか恨みを感じていないようだったので。
だから、振られてしまったあなたは彼女さんをどんな思い出として処理したいのかなと思ったんです」
処理、と言ったのは表現がまずかっただろうか。浩和は視線を落として考え込んでしまった。
どうにも先ほどから結論じみた質問の仕方ばかりしている。浩和が思考の渦に飲み込まれる前に説明しなければ。
「男の脳味噌では、好きだった相手を中々切り替えられないし、記憶の上塗りもうまくいかない。
だから思い出として、過去の事として処理した事にするしかないと考えてみました」
浩和は黙っていたが、祥順の顔を見ていた。祥順は彼の目を見ながら口を開く。
「滝川さんが、良い思い出だったと思うのなら、彼女さんの良いところとかを話してください。
俺が、逃がした魚は大きかったなってあなたの事を笑ってやります。
もし、嫌な思い出だったと思うのなら、彼女さんの悪いところとかを教えてください。
そしたら、俺がそんな性悪女と結婚する前に別れられて良かったなって慰めてあげます」
浩和は相変わらずこちらを見たままで、何も言わない。さすがに言い過ぎたのではないかと、不安になってきた。
どうやら浩和が返事をしないと祥順は不安になる傾向があるようだ。
そわそわしてしまいそうになるのを、赤い液体を流し込んで口を閉める。炭酸が喉を刺激するのに集中して気を逸らした。
そんな時、ちょうど良いタイミングで注文していたものが届いた。枝豆としめ鯖である。
祥順が不安を紛らわせる為にしめ鯖を口に運んで程良い酸味を味わっていると、とうとう浩和が口を開いた。
「今まで俺に対して、ひどい事どころか俺の為になる事しかしてくれなかった人だから、良い思い出としてさようならしたいな」
「……じゃ、元彼女さん自慢してください。
存分に悔しがって過去にしてしまいましょう」
そして祥順は散々過去の彼女についてのろけられ、浩和と一緒に散々その彼女が逃げてしまった事を悔しがった。
明日も仕事であるからには、二日酔いで出社する事は許されない。また、当然ながら酒の残った息を吐く事も許されない。二人は十時少し前、といった比較的早い時間に会計を済ませた。
「カジくんの家は遠いですか?」
「私は二駅先なので近いですよ」
「そうなんだ。
俺はちょっと遠いんですよね」
完全内勤の祥順は会社から二駅ほど離れた場所に住んでいる。歩いても通える距離だ。祥順は旅費精算の多い人間の住所は覚えている。浩和の家は会社からおおよそ三十分は離れていた事を思い出す。
「出張の兼ね合いですか?」
「ああ、あれは俺の元カノの会社が近いからです。
今じゃ無意味ですけど」
祥順はしまった、と思ったが浩和はそうではないらしい。彼はそのまま言葉を続ける。
「そんなに不便じゃないですよ。
通勤時間は自己投資に使ってますから。
本を読む時間にできるし、外国語の勉強もできるしね」
どうやら浩和は時間の使い方が上手なようであった。祥順は自分磨きを欠かさぬ男を尊敬の眼差しで見つめた。視線に気づいた浩和がにこりと笑みを作る。
「ああ、カジくん次の駅でしたね」
あっという間に二駅目が近づいていた。祥順は降りなければならない。電車の扉が開くのを感じながら慌ててお辞儀する。湿っぽく生暖かい空気が背中を襲った。
「では、また明日からよろしくお願いします」
「はい。今日はありがとうございました。
明日も午前中は社内にいる予定ですので、何かあれば声かけてください」
やや業務連絡がかった挨拶をされ、祥順は笑顔で頷いた。心なしか浩和の表情は明るいように見える。
電車が出るまで見送った祥順は、自分が汗ばんでいくのを感じながら改札をくぐる。
強引だったかもしれないが、少しでも役に立てたかな……と祥順は変な達成感を覚えながら帰路を歩く。それにしても、能力のある男は能力のある女と付き合うものなのか……と感心してしまった事を思い出す。
彼ほどのすばらしい人間を振るという事は理解できないが、彼女が浩和と同じくらいすばらしい人間だったという事は、彼の話から十分納得した。
そんな事をぼんやり考えている内に、家へと辿り着く。蒸し風呂のようになっている自分の家に溜息を吐き、エアコンのスイッチを入れた。
ネクタイを緩めながら手に持っていたジャケットをソファへ投げ、またぼんやりと浩和の恋愛事情を思い出す。
恋愛から遠ざかって久しい祥順には、その他にもいまいち理解できない部分があった。恋愛とは不思議なものだ、となぜか感慨深く考えながら普段と違う一日を終えたのだった。
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