第2話 適度な気分転換も必要
「カジくんありがとう。
旅費精算の件はすみませんでした、気をつけます」
「いえ、大丈夫です。
とても珍しかったからびっくりしましたけど」
はは、と力なく浩和は笑って片づけていた書類を元の位置に戻し始めた。慌てて祥順が自分の書類を手元に回収すると、その場所にも書類が広がっていく。
彼が何かに動揺しているからなのか、もともとマイペースで無頓着なのか。判断はできないが、祥順が立ち去っていないにも関わらずテーブルはあっという間に来た時と同じ状態に戻ってしまった。
「おじゃましてしまうと悪いので、ここで失礼します」
「ありがとう」
祥順はさっと立ち上がって打ち合わせスペースから出た。ちら、と中を振り返れば、真剣な表情で書類を見つめる浩和の姿があった。
スペースから出た祥順は、まず英俊の方へと寄り道した。
「先ほどはありがとうございました。
無事に用が済みました」
「おう」
礼をすると、片手をひらひらと揺らして英俊が答えた。祥順は小さく頷いて階段へと向かう。必要な書類は揃った。後は早く精算を済ませてしまわなければ。
席に戻った祥順は真剣な表情でパソコンに向かった。
旅費精算は何も浩和だけではない。他にも十人近くの精算が待っている。銀行の振込期限は午後の三時までである。それまでに全てを済ませなければ、小口から現金を用意して直接渡すか、翌日振り込みで対応するか、改めて相手に確認しなければならない。
他の会社での旅費精算は一月毎で決められた日に一斉に振り込まれたり、都度精算になっていて現金のみであったりと様々である。
この会社では、基本的に提出された旅費精算書は翌日中に決済まで完了する事になっている。
営業などの対外的スケジュールを優先させる為、旅費精算書の提出期限や決済方法はフリースタイルになっているのだ。
「急げ、確か今日回ってきてる中には修正しかない人が混ざってたはず」
営業優先に調整されているこの会社は、経理などの事務方にとってみれば毎日同じ仕事などなかった。
どうにか時間までに全ての処理を終え、無事に振り込みが間に合った祥順は、現金での精算を希望している数人のもとを回っていた。流石にいくつものフロアをまたいで移動するのに階段は厳しいものがある。
祥順はおとなしくエレベーターを使う事にする。
ここのエレベーターは待ち時間が長い。一機しかないのだから仕方がない。祥順は十階でエレベーターを待っていた。
やっと着いたエレベーターに乗れば、意外な人物が乗っていた。浩和である。彼は資料が詰め込まれた段ボールを抱えている。資料はかなりの量であった。
「お疲れさまです。
あ、もしかして旅費精算ですか?」
両手が塞がり、しかも重いであろうそれを持ったまま、さわやかな笑みで挨拶をしてくる。祥順はエレベーターの正面に陣取るようにして立ちふさがっていた。浩和の荷物に気を取られていた彼はその声にはっと我に返り、慌てて避けた。
もちろん、エレベーターが閉まらないようにボタンを押し、ドアに手を当てるのも忘れない。
「今日は外で打ち合わせだと思ってたので驚きました」
浩和は軽くありがとう、と礼を言いながら、席とは逆のミーティングスペースへと歩き始めた。そのまま祥順は後をついて行く。
「ああ、あれは先方の都合でだめになったんです。
だから、午後はちょっと情報収集しつつ、タイアップの詰めをしようかと」
浩和はミーティングスペースにある椅子の一つに段ボールを置いた。重そうな、鈍い音がした。
流石に重かったのか、浩和が肩や首を回してストレッチをしている。その様子を視線の端に捕らえながら、資料の一つを手に取った。
雑誌である。他にも数多く雑誌が混ざっていた。祥順の動きを見た浩和が、理由を教えてくれる。
「広告や、宣伝も大々的にしようと思って、最近の流行を探る為に集めたんだ」
「流行に合わせるんですか?」
「いや、合わせると言うよりは似せる、の方が正しいかな」
祥順の問いに、浩和は彼が持っている雑誌のとあるページを捲って見せた。
「そもそも今回のタイアップする企画自体が流行とは関係ないからね。
だから、その代わりこういった人気記事に見た目を似せるんです」
祥順はじっとその記事を見た。その記事はトレンド着回し術の記事で、今回のタイアップする企画とは全く内容も違う。
どうやったらこれが参考になるのだろうか、と祥順は首を傾げた。
「ああ、すみません。
俺との雑談より重要な事があるんですよね」
「あ」
祥順は自分が仕事を忘れ、雑談じみた会話をしていた事に気づく。少しだけ眉を下げ、口をきゅっと結んだ。すぐさま誤魔化すように口角を上げて笑む。
「でも私、滝川さんが外出したと思っていたので、既にメールで精算の振込完了連絡をしていまして……」
だんだん尻すぼみになり、最後には彼に聞こえるか分からないくらいの小声で「報告する事もなく、仕事中とかも忘れてただ話を続けてしまいました」と口にした。
「集中して考えたい時に、おじゃましてすみません」
ぺこり、とお辞儀をすれば、上から小さな笑い声が降ってくる。見上げれば、浩和が楽しそうに笑っていた。怒っている様子が見られない事にほっとする反面、どうしてそんなに笑われるのか分からなかった。
「いや、俺は別に構わないんで。
ちょうどいい気分転換にもなりましたしね」
根詰めすぎるとかえって集中力が切れてしまうからだろう。浩和の言葉に祥順の表情は柔らかなものに変わる。
「知ってます?」
「え?」
浩和が顔を近づけてきた。ふわりとフゼア系の、独特だが柑橘っぽい爽やかな香りが漂った。なんだかよく分からず、そのまま瞬きを繰り返す。
思わせぶりに、もったいづけながら彼は口を開く。祥順の目にはデキる男の象徴みたいに映った。
「午後って、集中力が切れやすいんですよ。
だから俺は難しくてやっかいな仕事は午前中に全部済ませて、午後はウェイトの軽い仕事をしてるわけです。
――って言っても午後は手抜きしてるって意味じゃないですよ!」
「ふはっ」
祥順はたまらず吹き出した。あ、やばいと思った祥順が恐る恐る浩和へ移動してしまっていた視線を戻すと、浩和がさらっと変な事を言い出した。
「俺、カジくんを思い切り笑わせてみたかったんだ。
こんなんで笑ってくれるんですね」
笑っているのか、困っているのか中途半端な表情のまま、祥順は固まった。
「よし、目的達成したし、仕事がんばりますか。
カジくん、ちゃんと終業時間中でもリフレッシュする時間作らなきゃだめですよ」
すっきりとした表情でまじめに言う彼に祥順は頷き、礼を言って仕事に戻ったのだった。
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