第5話 新聞
アリエッタが喉の渇きで目が覚ますと、傍についていたミリアムが直ぐに気づいて寝たまま飲める容器の先をアリエッタの口にあてる。
「熱がありますね。ハリー様を呼びます」
「いいえ、このくらいは大丈夫よ。いまは深夜なのでしょう?」
「遠慮は不要です。ハリー様はそれでお金をもらっているんですから」
ミリアムはアリエッタの制止をきかず、扉の外で待機していた同じ夜勤の侍女にハリーを呼びにいかせた。
数分後、医者のハリーが白衣姿でやってくる。
「公爵家は使用人まで医者遣いがあら過ぎる、年寄りはもっと丁重に扱うものだよ……そろそろ本気で引退を考えないと」
口では文句をいうが、その服装は寝ていたとは考えられないもの。
ミリアムが見た限り、昼間と同じくそうだった。
まあ、指摘したらこの天邪鬼な女医は「この服装がお気にいりで、それぞれ十着もっている」とでもいうのだろう。
「ハリー様ほどの腕をもつ後任をお見つけになれば、いつでもやめられますよ」
「ふん、私ほどの腕の持ち主はいないよ。外科、内科、なんでもできるからね」
「それでは死ぬまでウィンソー公爵家に勤労してください」
ハリーに永年労働を提案したミリアムにアリエッタが思わず笑うと、皮膚が引っ張られて痛みが走った。
「おやおや。“母親は風邪もひけない”と言いますが、ずいぶん無理をなさいましたね。炎症を起こしていますから、しばらく熱が出るでしょう。痛みはありますか?」
「……あります」
正直でようございます、と言いながらハリーは痛み止めを出してアリエッタに飲ませると、手際よく血のにじんだガーゼを優しくはがす。
そして数種類の薬を傷跡に丁寧に塗り、最後に透明な油脂を塗ると新しいガーゼでふたをした。
一連の手順を流れるように終えたハリーはアリエッタの視線に気づく。
「何か珍しいですか?」
「最初に塗った薬は呪い師が使うような変わったニオイのものですね。最後に油のようなものを塗ったのはなぜですか?」
「アリエッタ様が仰ったように薬は南の都市に住む呪術師から教わりました。油脂を塗ったのは傷跡をキレイに治すためで、東方の漁村に伝わる民間療法です」
「ハリー様は医療院の方ではないのですか?」
アデリア王国は豊かな国ではあるが、貴族制度のある豊かな国である故に社会的な差が大きい。
貴族と庶民の身分の差はもちろん、同じ庶民でも社会的および経済的格差は大きい。
そしてこの『差』は医療行為にも影響する。
ウィンソー公爵家がハリーを専属としているように、貴族は専属の医師を抱えているケースもあるが、こんな贅沢ができるのは貴族でもほんの一握りである。
多くの貴族は『医療院』という中央医学会に所属する医者を屋敷に招いて医療行為を受ける。
この医療院は国の管理なので庶民でも利用できる。
しかし診療費がそれなりにかかるので、庶民で利用できるのは裕福な商人が豪農に限られてしまっているのが現実だ。
一般的な庶民は様々な理由で医療院に所属できずに町中で診療所を開いている町医者、もしくは流れの医者の診療行為を受ける。
このような町医者や流れの医者は医療院に管理されていないので診療費を自由に設定できるが、医療院に管理されていないということは身の安全も保障されないため、多くの医者は利用する人たちの気を逆立てない範囲で診療費を設定している。
それでも医療行為を受けられない者は呪術師に頼る。
呪術師は医者として認められていないため薬の購入や使用ができず、自然に生える薬草などで薬を作っているため軽症の患者が精々で、中等症以上の病気やケガのときは命の危険もある。
「元は医療院にいましたが、お偉方の頭が固くて……私は呪術師の知恵でも民間療法でも効くなら何でもいいと思うのですよ。この私の考えがここの旦那様に気に入っていただけて、二年ほど前でしょうか、ウィンソー公爵家で雇っていただけたのです」
「そうだったのですね。素人の私でもハリー様の技術の高さは分かります。命に貴賤はないといいますが、医療行為を受けられる資格は正直別です。貴族と庶民、富裕層と貧民層。この国は平等では決してありません。もし私が貧民だったら……あのキズです、命はなかったことでしょう」
「ここでハリー様に会えたことに感謝を」と礼をするアリエッタにハリーは苦笑する。
『私は貴族』という言葉を医療院では何度も聞かされた。
不休で手術を終えて一命をとりとめても、傷跡が残ってしまうと批難されたことも数知れない。
(ウィンソー公爵家が変わっていると思っていたが、これが本物の貴族なんだろうね)
ハリーをスカウトしたウィンソー公爵ローランドは医療院の給与の五倍の金額を提示し、働きに応じては追加の報酬を与えている。
しかし、それ以上にハリーを戸惑わせて、同時に感動させるのはウィンソー公爵家の対応だ。
貴族だろうが庶民だろうが関係なく、ウィンソー公爵家は自分たちが持たぬ技術をもつ尊敬できる者に対して敬意を払うことは当然としているのだ。
(最初に診たときはずいぶんと弱弱しいお嬢さんだと思ったが……さすがあのヴァルモント伯のご令嬢だわ)
医者でなくてもウィンソー公爵家がアリエッタを大事にしていることは直ぐに分かる。
目を覚ましたときはゲッソリこけていた頬もふっくらし始め、一目で衰弱していると分かる様相は健康に近づきつつある。
(……もし貧民だったら、か)
ハリーが横目でミリアムを見ると、普段は冷静な侍女の彼女がギクリと体を震わせて視線をさっとそらした。
「ミリアム、厨房にいって白湯を用意するように言っておくれ。熱が出ているんだ、これから大量に汗をかくだろう」
「……畏まりました」
熱が出ているとハリーに改めて言われたアリエッタは、薬の影響もあって頭がボンヤリし始めるのを感じた。
だから、部屋の扉が閉まる寸前にミリアムが鼻をすする音を聞いた気がしたが、アリエッタがそれを確認することができなかった。
***
「ミリアム、もう大丈夫かい?」
ハリーの予想よりも三分遅く部屋に戻ってきたミリアムにハリーは優しく声を掛け、別の侍女が用意してくれたカモミールティーをミリアムにもおすそ分けした。
「……ありがとうございます」
「気持ちは分かるが、そんなにピリピリするんじゃないよ」
「分かっているのですが……明日の新聞でアリエッタ様が暴漢に襲われたことが記事になると思うと……」
「ここまで隠せ通せたのが奇跡みたいなものさ」
暴漢に襲われたアリエッタを真っ先に保護したのが公爵家ならば全てが秘密裏に片付き、新聞社がそれを聞きつけることはまずなかっただろう。
しかし、アリエッタを保護したのは国が管理する警ら隊だった。
被害者の所持品にヴァルモント伯の紋章があったためウィンソー公爵家に真っ先に報せがきたが、被害者がヴァルモントの関係者であることは警ら隊の管理施設でネタ集めをしていた記者が知ったのだった。
「被害者が元ヴァルモント伯爵令嬢のウィンソー公子妃、そしてヴァルソーの大株主となれば世間が騒ぐのは仕方がないさ」
しかも、事件が起きたのは下町の中でも治安が一際悪い場所。
逃げてそこに辿り着いたとしても、なぜ貴族夫人が下町にいたのかは世間の注目を浴びるだろう。
「しかもその手口から娼婦を狙うリッパーの被害に遭った線が濃厚ときた」
「リッパーに狙われたとわざわざ書くなんて……旦那様が抗議しなければ、アリエッタ様が娼婦の真似事をしていた思わせるような記事だったそうです」
つい先日、その新聞社はお偉方が連日のように退任を発表した。
「父は相変わらず首狩りが上手だ」とエドワードが満足気に笑ったのをミリアムは思い出す。
「隠せないならウィンソー公爵が望む記事を書かせるしかないだろう」
ハリーの言葉にミリアムは渋々と頷いたが、カップを持つ手が震えていることから納得しかねていることが分かった。
「私は、アリエッタ様の記憶が戻ることが……正直いって不安で仕方がありません」
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