第3話 息子
子どもに会いたいといった翌日の朝、エドワードが子どもを抱いてやってきた。
ほんの少しだけ、子どもを見れば記憶が戻るのではないかとアリエッタは期待していたが、現実は小説のようには上手くいかないと内心で苦笑する。
「ママ」
アリエッタに気づいた瞬間、パッと顔を明るくした子どもは艶やかな黒髪に翠の瞳。
それはもう見事なほどに、ヴァルモントとウィンソーの血を継ぐ子どもだった。
ベッドの足元のほうで下ろされたリチャードは、アリエッタが驚くほどのスピードのハイハイを披露してアリエッタの隣にちょこんと座る。
「おはよう、ママ、まだねんね?」
「おはよう……」
自分はいままでこの子を何と呼んでいたのか?
リチャード、それともリッチーとか愛称で?
「リッチー、ママは起きたがまだケガをしている。抱っこはパパで我慢しなさい」
エドワードのフォローに感謝の目を向けたアリエッタは、ぷうっと膨れる子どもに「ごめんね、リッチー」と優しく声をかけ、その黒髪を撫でる。
途端に子どもは機嫌が直ったようで、嬉しそうな顔をアリエッタに見せた。
「この子が産まれたとき、小父様は泣いて喜んだでしょうね」
「父さんはこの子を見た瞬間にメロメロになったよ。母さんはそれを見て、この子が父さんとセシル小父さんの間に生まれた子だと聞いても驚かないって笑ってた」
その様子が簡単に浮かんだアリエッタはくすりと笑う。
そして改めて頭から足の先まで確認し、傷ひとつないことにホッとする。
(この子が暴漢に襲われなくて本当に良かった)
失血死の怖れがあったと女医が言っていたことを思い出したアリエッタは、この小さな子どもがそんなケガを負わなかったことを神に感謝した。
(……あら?)
アリエッタは指に薄っすらついた黒い汚れに首を傾げる。
その様子に気づいたのか、エドワードは「リチャード」と子どもを呼んで、自分の傍にもどってきたリチャードに手に持っていた筒状の紙を渡す。
「ママに渡すといっていただろう?」
そうだった、という顔をしたリチャードがそれをもってアリエッタのところに戻る。
(まるで犬のようだわ)
自慢げな顔をしたリチャードが「おみまい」といって渡したものを、礼をいって受け取ると、そこに結ばれた緑色のリボンを解く。
「まあ」
紙にはアリエッタとリチャード、そしてエドワードが書かれていた。
最初に自分を描いたのか、一番大きく書かれたリチャードと端っこで申しわけなさそうに小さくなっているエドワードの姿にアリエッタは微笑む。
「すごいわ、とっても上手ね」
「じょうずでしょ?ぼく、こんなにクロをつかったのはじめて」
手も真っ黒になっちゃった、と見せたモミジのような手の小さなツメに黒いクレヨンらしきものが詰まっていた。
「メイドも取ろうと頑張ったようだが、これが限界だったらしい」
「いいんだよ!トーリが、がんばったしょーこだっていっていたもん」
「“トーリ”?」
聞き覚えのある名前にアリエッタが首を傾げると、リチャードの乳母だとエドワードが説明する。
「君の記憶が三年前で止まっているとしたら、君の中のトーリは
(ああ、彼女ね。リチャードも懐いているようだし……懐いている?リチャードが、誰に?あの子はいつも……)
一瞬だけ頭に浮かんだ映像。
古ぼけた壁紙を背景に、ところどころ壊れたロッキングチェアに座って優し気な笑みを向ける老婆。
「うっ!!」
頭がズキンと痛み、咄嗟に前かがみになったアリエッタは腹部の鋭い痛みに悲鳴を上げた。
じわりと熱いものが漏れ出す感覚に、痛みが一気に強くなる。
「アリエッタ!!ミリアム、早くハリーとトーリを呼んで来い!!」
「は、はい」
扉の近くに控えていたミリアムは急いで部屋を出て行き、アリエッタの悲鳴にびっくりしたリチャードはエドワードの大きな声に体をびくりと震わせたあと、大きな声で泣きはじめる。
「ああ、すまない……しかし、リチャード、こっちにおいで」
「やっ!!ママがいい!!」
痛みに悶えるアリエッタに縋りつくリチャードにエドワードが途方にくれていると、動いたのは意外にもアリエッタだった。
「リチャード、ママは大丈夫よ。びっくりさせて、ごめんね。でもね、ママはケガをしているから抱っこはできないの。だから隣で一緒に……ねんね、しくれる?」
アリエッタが痛みを押し殺してそういうと、自分を見つめる幼い翠の目が落ち着いた色に戻る。
「せなか、ぽんぽん、してくれる?」
「……リチャード」
困ったように嗜めるエドワードに『大丈夫です』と目線で返す。
そしてキズのない右側に体重を移動させると、歯を食いしばって左手を持ち上げて隣にあるスペースを左手でポンポンッと叩く。
「いらっしゃい」
そしてアリエッタの叩いた場所にコロンと転がると、アリエッタと向かい合って嬉しそうに笑った。
アリエッタはリチャードの目元に残っていた涙を拭って微笑んでみせる。
「……つらくなったらやめるんだぞ」
「しかたがありませんわ。ほら、母親は風邪もひけないというでしょう?」
そんな言葉は知らない、と少し怒ったような口調でエドワードは応える。
そして少しでもアリエッタが楽なように、クッションで背中を支えようとする。
「眠ったら、部屋につれていってあげてくださいますか?」
うとうとして、目を閉じては薄っすら開けるのを繰り返すリチャードの姿にアリエッタは思わず笑みを漏らす。
この子を含めてこんな小さな子どもの寝る姿を見るのは、記憶のないアリエッタには初めてのことだったが、もう直ぐ眠るだろうと直感した。
「記憶がなくても、やっぱり君は母親なんだな」
エドワードの言葉にアリエッタは目をぱちくりとさせたあと、心に湧き上がった満足感と、なぜかほんの少しだけ泣きたい気分で微笑んだ。
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