第2話 夫
「あの……申しわけありませんが、もう一度言ってくださいませんか?」
「俺と君は結婚していて、二歳の子どもがいる」
痛みとそれを抑える薬の影響でこの数日間アリエッタはぼんやりしていたが、ようやく少しだけ、横になった状態だが話ができるようになった。
そしてこの状況について、腹部の痛みを主に聞いてみようとしたが、まず最初のエドワードの言葉に驚く。
『婚約者』のはずのエドワードが、アリエッタが知らぬうちに『夫』になっていたからだ。
(私が死にそうだったから急いで籍を入れたのでしょうか)
アリエッタは自分が成人したときにヴァンソー商会の株を二十五パーセント、「これはもともと決めていたことだから」といって渡された。
同じ様にエドワードも二十五パーセント、残りはローランドが所有している。
ヴァンソー商会はいまやアルデニアで一番どころか、この大陸で一番規模の大きな商会である。
株の二十五パーセントをもつアリエッタの資産は年々膨れ上がっていくが、その一方でそれだけ多くの人間の生活を保障しなければいけない立場である自覚も必要と言われ続けてきた。
(子どもがいれば遺産としてその子に渡るから、
「子ども……私に、子どもがいるのですか?」
「……そうだ、名前はリチャード。可愛い男の子だ」
エドワードの口元が優し気に緩み、その姿にアリエッタはなぜか泣きたくなるほど嬉しくなった。
しかし、嬉しさにただ浸っていてはいけないとアリエッタは気を引き締める。
「エド様、私たちの結婚式は
婚約者が夫になっていただけでも驚いたのに、さらに自分にはリチャードという息子がいるという。
「エド様、か……懐かしいな。どうやら君には約三年間の記憶がないということだな」
三年分の記憶がないといわれてもアリエッタにはピンッと来なかった。
「私が忘れている側だからでしょうね。申しわけありません、エド様たちのようにこの事態を深刻に受け入れられなくて……」
「気にする必要はない……本当に気にしなくていいんだ」
エドワードの声に不思議なものを感じたが、
「その頃の大きなイベントといえば……君のデビュタントのことは覚えているか?」
そう問う声は聞き慣れた声だったので自分の気のせいだと結論をだし、『デビュタント』について思い出す。
姿見に映った白いドレス姿の自分。
初めて見た、幾つもの照明で明るく輝く夜会の会場。
しかし、誰かと話したことは覚えているのに、それが誰か、そしてどんな話をしたのかが思い出せない。
「私にとってはひと月前のことですのに、誰と何を話したのか覚えていないということはあれから時間が経っているからでしょうか」
「おそらく」と、エドワードにしては曖昧な言葉に、アリエッタは自分だけでなくエドワードも動揺していると気づいて苦笑する。
そしてまだ痛む腹部に手をあてた。
「私の記憶喪失と、この腹部のキズは関係がありますか?」
「それは分からない。まずそのキズのことだが、君は暴漢に襲われたんだ」
「……暴漢?」
アリエッタは『暴漢』という言葉は知っているが、自分が暴漢に襲われるということは考えたことがなかった。
アリエッタは国でも有数の資産家の一人娘で、両親はアリエッタが物心つく前からその安全には十分すぎるほど気を配っていた。
両親が亡くなってから伯母の嫁いだ男爵家で暮らしていたが、いつも護衛が必ず傍にいてくれた。
「ここはウィンソー公爵家ですか?」
入口に立つ三人の侍女。
ただ一人、男爵家にいたときから自分の専属侍女だったミリアム以外は知らない顔だったので、ここは男爵家ではないとアリエッタは推察する。
「そうだ。王都にある
「私は暴漢にどこで襲われたのですか?」
この三年間の自分の生活が『結婚後の生活』なため、どんな生活をしていたかはアリエッタには分からなかったが、暴漢に襲われたというならば公爵邸の外しかないと思った。
「街中で襲われた」
「それなら護衛や御者は……いえ、答えはいりません。すみません」
エドワードの言いにくそうな様子から察したアリエッタは、それ以上の答えをエドワードに求めなかった。
警護対象であるアリエッタが致命傷を負ったということは、一般的に考えてそういうことだ。
「暴漢は逃げたので目的は分からない。君とは分からないはずだから物盗りだと思う……どうした?」
話の途中だったがエドワードは言葉を切った。
アリエッタが唖然とした表情をしているからだ。
「髪が茶色いのですが、病気……ではありませんわよね」
枕の傍に広がる髪が茶色いことに気づいた衝撃で、アリエッタはエドワードの話が聞こえなくなった。
アリエッタの質問にエドワードは言いにくそうに答える。
「その髪は、薬剤で脱色しているらしい」
「脱色……つまり、暴漢の目的は誘拐だったのでしょうか」
アリエッタは黒い髪が特長的で、その資産価値から『ヴァルモントの黒真珠』と呼ばれている。
そしてアリエッタが暴漢の目的は『誘拐』と思ったのは、父セシルから継いだ黒髪はこの国では珍しく、過去にアリエッタを誘拐しようと目論んだ者の中には毛染め粉を用意していた者が多かったからだ。
「暴漢が捕まらない以上は正確な答えは分からない。とりあえず君は体を治すことに集中したほうがいい」
エドワードの言葉にアリエッタが頷くと、エドワードの目が満足気なものに変わる。
エドワードとその父ローランドの表情筋はあまり仕事をしないほうだが、家族や友人など気を許した相手には少しだけ感情を見せる。
一番感情を映すのはその目、『ウィンソーの
(同じ瞳をもつ子どもを知っている……小さい頃のエド様ではなくって、もっと小さな、私の大事な子ども……)
「エド様、子どもに会いたいです」
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