25.4
ざぶーんと水音が鳴って、私の身体は水底に沈んでいく。冷たく清らかな水が身体を包み込んで、そのまま身を預けてしまいたくなる。だけど私の身体は水底にたどり着く前に勢いを失って、異物を押しだろうとする流体に押し出され、ゆっくりと水面に浮上していった。それと同時に私を強く抱き留めていた手が緩んで離れていった。私はそのことに危機を感じて、水中で急いで離れていくその体を掴みなおすと、必死に足をばたつかせて頭上の水面を目指した。
「ぷはあーー」
水面から顔を出して、大きく息を吸う。その後急いで周りを見渡して陸地を探した。幸いなことに落ちた先は完全な暗闇ではなく、薄暗い中で微かに見える陸地らしき輪郭も、泳いでたどり着けなくはない距離にあった。しかし――――
「だめ…………息していない」
私は抱き留めたロビンの口から呼吸音が聞こえないことに気付いた。私は急いで泳ぎやすいように、ロビンを抱えなおすと陸地を目指して一心不乱に泳ぎ始めた。ぐったりとしたロビンの身体を抱えて必死に泳ぐ。幸運な事にロビンが背負っていたかばんの中からは、完全に空気が抜けていないようで、それが浮きとなって一人の人間を抱えて泳ぐにしては幾分か早い速度で陸に向かうことが出来た。そしていくらか泳がない内に陸地の輪郭がはっきり見えて、地面は足がつくほどになっていた。私はその地に足を付けてロビンを岸辺へと引っ張っていった。
幸いたどり着いた岸辺は柔らかい土になっていた。高さもなく、これならそのままロビンを引っ張り上げる事が出来そうだ。私はロビンの頭が水につかないように慎重に岸に上がると、そのままロビンを引っ張り上げて、柔らかい土の上に転がした。
地面に転がしたロビンを仰向けにして、再度呼吸を確かめる。まだ息をしていない。私は大きく息を吸うと、ロビンに口づけて人工呼吸を行った。
吐いて吸う……吐いて吸う……
私はそれを機械的に繰り返して、ロビンの呼吸が自発的に行われるのを待った。
「がはっ…………がはっ――――」
人工呼吸を数回繰り返すうちにロビンは肺の水を吐き出して、自発呼吸を取り戻した。
「エ……レ…ナ…………?」
視界も正常で私も認識できている。どうやら彼は無事なようだ。
「ロビン、はあ、良かった………大丈夫?」
「エレナ……そうか君も…………すまないがもう少し眠らせてくれ…………とても眠いんだ」
「えっ?ロビン?まだ寝ちゃ駄目だよ………ロビン?………ロビン?」
しかし私の呼びかけも虚しく、ロビンはまた目を閉じてしまった。だけどさっきまでと違って今回はただ眠っているだけのようで、呼吸も正常だった。
「はあ………まあ仕方ないか…………」
私はそう呟くと顔を上げて落ちてきた場所を見上げた。見上げてみると崩落した橋が、入り組んだ石のアーチの隙間から覗いた。かなりの高さではある。だが、そこから飛び降りて、飛び降りた先が水面なら、よほど運が悪くない限りは人が死ぬような高さではないだろう。
「…………」
柔らかい地面で安らかに寝息を立てる少年を見る。私は橋から飛び降りるとき、万が一のことが起こらぬように細心の注意を払ってそのタイミングを窺っていた。しかし、私が彼を抱えて飛び降りようとした直前、あろうことか逆に彼が私を抱きしめてきた。きっと彼はこのまま自分たちは死ぬと思ったのだろう。私は驚きのあまり体勢を崩してしまった。私は彼と抱き合いながら落ち行く中で、何とか体勢を立て直そうとしたが、あまり上手く行かなかったようだ。結果的にロビンは私を抱えて着水し、頭を強く打ち付けてしまった…………
「はあ……」
でも不幸中の幸いだった。ロビンはちゃんと無事だったし、そもそも飛び降りる先を間違えれば入り組んだアーチに激突してそのまま死んでしまう可能性もあった。二人ともが無事だったのは、もしかしたら奇跡に近かったのかもしれない。でも――――
「私は知ってた……」
そう、私は知っていた。自分たちがまだここでは死ねないことを――――
――――――…………
「ん……よいっしょっと…………結局私が背負うことになるんじゃん」
私はしばらく待って、ロビンがまだまだ起きそうにないことを察すると、彼の背負い鞄からいくらか必要そうな物を抜き取って一つの鞄にまとめ、寝ているロビンを背中に背負うと、薄暗い地底湖の水辺を歩き出した。これ以上立ち止まっている時間は無いと頭の中の誰かが囁いた。背負ったロビンの腰に差した剣が揺れた。これは今は亡き彼の父の形見だったが、気の毒な事に今までそれは役に立つどころか、その重さから泳ぐときも歩く時も、邪魔にしかなっていなかった。だけどもしかしたら、この先でそれが必要になるかもしれない。私は目を眇めて、薄暗い地底湖の先の道を見据えるように、未だはっきりと見えぬ未来を幻視した。遥か遠くのものより、近くのものが見えづらい。それはきっとサロアの影響だ。私は彼女と再び会うことが出来るだろうか。
私はロビンの腰のベルトから剣を抜き取って、自らのベルトに差し込んだ。今私はサロアとの再会に期待と恐れを抱いている。この先に待ち受けているのは死だ。だけど彼女が関わらなければ私たちの死はもっと先に遠ざかるはずだ。一歩先の地面を踏みしめるたびに、死が近づいてくるのを感じる。だけど私はその足を止めることが出来ない。
また一歩足を進めると、唐突に地底湖の中央から光が差した。徐々に強くなる光に冷え切った身体が温められていくのを感じた。なんと幻想的な光景なのだろう。私は暗闇に慣れた目が光に慣れるまで目を細めて、その美しい地底湖の夜明けを見守った。地底湖の中央に配置されたプリズムが地下都市全体を照らす大結晶の輝きを受けてきらきらと煌めく。それは徐々に光を増して、日の光が届くはずのない地底湖の水平線に日の出をもたらしていた。日の光を受けた地底湖がその身に纏った宵闇のベールを脱ぎ捨てていく。地底湖は想像よりもずっと大きい空間だった。地底湖を囲む岸壁からは、険しい山々から溶けだした雪が、山脈の地層に濾過されて清純な水となって染み出し、壁を伝った水脈は湖を囲う余白となった柔らかい土の地面に数多の轍をつくって巨大な地底湖へと注ぎ込まれていた。柔らかい土の地面には驚いたことに所々植生が見られ、緑豊かな背の高い木々などもその地に根付いていた。恐らくこの地底湖を照らす光の正体は日光だ。下を見ればその恵みを受けた草葉や苔、それを主食とする虫や、それに連なる生態系の息遣いを感じた。これらの環境はこの地を創造したドワーフたちが意図して、整備したものだ。私たちの基準からすれば彼らは神にも近い技術と知恵を持っていた。しかし彼らの姿はもう無い。彼らはその神にも近しい技術を持ってしても、繁栄を維持することが出来なかった。そして姿を消した創造主と同じように、彼らが遺したこれらの遺跡もいずれ朽ちてなくなってしまうことだろう。地上の時間からは大分遅れてやってきた地底湖の夜明けが、それを物語っている。この世界に永遠など一つもない。地下都市の光の源となっている太陽光とマナ、それらを取り込み増幅させる巨大魔導結晶体は所々に綻びが生まれて、もうすでに多くの影をこの地下都市に落としている。この美しい地底湖も段々と日の当たる時間が少なくなっていって、いずれは常世の闇と沈むだろう。
この限りある日の光を受けてなお目を覚まさない背中の彼に目を向ける。願うなら彼と共にこの日を見て語り合いたかった。でもそれは一生叶わぬことかもしれない。脳裏にサロアの顔が浮かんだ。彼女ともそれは叶わぬ事なのだろうか。彼女なら全てを変えられる。今この場に彼女が現れてくれたなら、私たちはこの美しい世界を共有することが出来る。でもそれは願ってはいけない事なのかもしれない。死がすぐ目の前にあるのだから。
地底湖から注ぎ込む川辺に建てられた街灯が、ぽつぽつと私たちの行く末を示すかのようにその光を灯し始めた。どうやら巨大な地底湖から溢れた水と光は一筋の水路となって、ドワーフたちの国を血潮のように巡り、彼らの渇きを癒していたようだ。
街灯の明かりに導かれ、地底湖の入り口にある川辺にたどり着く。岩壁の隙間から除く彼らの国の夜景は、過去には絶景と言われるものだったのだろう。地底湖から注ぎ込む水路に沿って作られた石畳の通路に、それを見守るように建てられた精巧な装飾がなされた石造りの家々。天井を彩る石のアーチから覗き込む廃れた太陽が、所々欠けてひび入り、崩落したそれらをぼんやりと月のように照らして、彼らの栄光と衰退を物悲しい詩を謳うように浮かび上がらせていた。
川辺を街灯に導かれるように歩く。この道の果てに目的の地と死が待ち受けている。私は急こう配になっている為に設置された、街の入り口の階段を下って市街に入り、朽ちた石畳を歩きながら街の家々を眺めた。寸分違わぬ大きさで切り出された石、川に掛かるアーチやその脇に立ち並ぶ家々に施された、彼らの神話を象った精巧な彫刻。彼らの建築物は朽ちてなおその技術力と芸術性の高さを物語っていた。しかし、肝心の彼らの姿はここには無い。死体ですらも…………彼らは何処に消えたのか。その答えはすでに自らの中にある気がしたが、私はあえてそれから目を逸らした。今の私たちには関係の無いことだ。無理やり過去と自分たちの現在を繋ぎ合わせて、未来を知った気になる事に、私は何の価値も見いだせなかった。
神殿、図書館、商店街、広場…………それら彼らの生きた証を通り過ぎてようやく街の出口にたどり着いた。振り返って降りてきた地底湖の方を見ると、随分と遠くにその明かりが見えた。
ざあざあと水が叩きつける音が地下都市の岩壁に反響して鼓膜を揺らす。しかしその音を受けても、背中で眠る彼はまだ起きない。
私は朽ちて崩落した門の瓦礫の間を縫って、街と出口の間に掛かる大きな橋に足を踏み入れた。この大橋はこのドワーフの地下都市を囲む巨大な地下峡谷を越えるために掛けられたものだった。地底湖から下ってきた川の水が峡谷に流れ込んで滝となり、水しぶきと轟音を上げる。
その中心に地底の月に照らされた、小さな銀色があった。
私はその色を見て、彼女が生けるもの全てを死に至らせる、水銀(もうどく)なのだと気付いた――――
――――――――
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