22.
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「――――ロビン……その……私…………」
――――――――
――轟音。ロビンの背後の夜空が炎の色と混じりあって、黄昏時の寂しい藍をつくる。
「――――村が燃えている……?」
ロビンは受け入れがたい現実に直面して、狼狽したような声でいった。
「…………」
「一体何が……エレナ、エレナはここで待っていて。たぶんこれはただ事じゃない」
私はロビンの言葉に無言で頷いた。
ロビンが後ろ手に雪の上を駆けていく音が聞こえる。私はロビンが元居た崖淵に移動して燃え盛る村を眺めた。意外にもこんなに近かったのかと、そんなどうでもいいことを思う。
私はロビンの言いつけを無視して、雪の上を歩き出した。再び月が隠れて、暗闇が訪れる。しばらく歩くと、雪が深々と降りだして、燃え盛る火と憎しみを冷まそうとするが、きっとその炎はこの程度の粉雪では鎮火することはできない。
私は頬に落ちる雪の冷たさを感じながら、道なき道を歩く。目的地はサロアがいる場所。
私は夕暮れ時に交わしたサロアとの会話を思い起こした。
――――――――
――――
――
ロビンの誘いを断った私は、ただ一人、サロアのいる丸太小屋へと続く道を、ロビンに追いつかないようにゆっくりと歩いていた。
本当はあの屋根裏のベッドの中でじっとしていたかったけど、もうそれは一生叶わない。 今日が最後の日だと気づいたのは、あの地震があってからしばらくたった後だった。私は気持ちが暗く沈んでいくのを感じた。その日が必ず来ると知っていたとしても、こんな気持ちになるものなのかと、他人事のように思った記憶がある。
時折私は、今ではない現実を視る事がある。最近では頻度を増して、ますます今がどこにあるか分からなくなることが多くなってきた。
夕暮れ時の薄暗い小道を歩きながら、“今”を整理する。上の空で歩く道の先に何者かの姿が浮かび上がってこちらに近づいてくるのが見えた。
「……エレナか……ロビンはどうした?」
どうやらこれは“今”であるようだった。私を見つけたイオリアの表情は険しく、現状が彼にとって、いかに厳しい状況であるかわかる。
「先にサロアのところに行ってるはずですけど……」
「――――――…………そうか、なら都合がいい……お前もサロアの家についたら、彼女の言うことを聞いて、その通りにするんだ。決して、彼女の言いつけを破るな」
「はい……わかりました」
私の返事を聞いて、イオリアはただでさえ厳めしい顔を更にしかめて、長い沈黙をつくったが、その後に彼はその沈黙を、自ら切り上げてそういうと、未練を湛えた表情でサロアの丸太小屋の方向をもう一度だけ振り返っただけで、そのまま私とすれ違って、村へと続く小道を辿って去っていった。
私は去っていく彼の背中を見つつ、足りていない情報を補う。きっと丸太小屋にはサロアがいるのだろう。私の目にはサロアだけが映らない。
私はそのままゆっくりと歩みを進めて、ついにサロアの丸太小屋にたどり着いた。彼女は玄関先の階段の前に立って、森の方角を見つめながら、私を待ち構えていた。
「こんばんは、エレナ。早速で悪いのですが、こちらに来ていただけませんか」
彼女の言葉通り、もう日は沈みかけて、夜の挨拶がふさわしい時間になっていた。サロアは私に気付くと、手招きをして、丸太小屋の裏手に私を誘った。
「こちらの足跡を見てください。まだぎりぎり足跡を辿れますが、きっと今日の雪はこれを覆い隠してしまうでしょう」
サロアは丸太小屋の、ちょうど客間の裏手側にある何者かの足跡を指さしてそういった。暮れかけの日でぼんやりと見えるその跡は、確かに先ほどから降り出した雪が、全てを覆い隠してしまうのに、もう幾許かの時間もないだろう。
「大丈夫だよ、サロア。ロビンは帰ってくるよ」
私はただその事実だけを述べた。
「――――ええ、あなたが言うのならそうでしょう……」
サロアはそういって、少し寂し気な表情で、その足跡を見つめた。
「そう、ロビンは必ず帰ってくる。それをあなたは知っている」
「……うん」
サロアの雰囲気がいつもと違う。
「……エレナには何もかもお見通しですね」
私は俯いて、彼女の視線を避けた。もしかして、彼女は知っているのかもしれない、私の事を。
「でもあなたにもわからないことがあるのではないでしょうか」
――――私のわからない事……
まずはサロア。彼女の全ては謎に包まれている。だからこそ私は――
「ごめん、サロア。私にはわからない」
でもそれは間違いな気がした。
「そうですか……でも、今はあなたの力が必要です。協力してくれませんか」
彼女の双眸が“私”を捉えて、逃げるのを許さない。私はしぶしぶ首を縦に振った。
「では、一つ目の質問。今のロビンの居場所はわかりますか?」
「うん」
私にはロビンの居場所がわかる。
「では、なぜ彼がそこにいるのかは?」
「――――たぶん、わかる」
彼はイオリアとサロアの会話を断片的に聞いてしまったのだ。
「では、今のロビンの心の在り処は?」
「……?ごめん、サロアが何を言っているかわからない」
私は胸の内がざわつくのを感じた。
「ごめんなさい、ではもっと直接的に――――ロビンの脳の状態は今どうなっていますか」
それならわかる。
「ロビンの脳内は概ね正常だけど、外部的刺激によって、平常時よりやや偏桃体が活発化し、寒さによって血流が下がることによって、さらにそれは進行している」
「ではそれによってどんな生物的反応が得られますか」
「嫌悪感、虚無感、ネガティブ思考、自律神経の乱れによる、若干の吐き気とその他――――」
「はい、ありがとうございます。ではそれによってロビンは今どういう感情を抱き、何を考えていると思いますか?」
「うーん、言葉に表すのはとても複雑。まずは猜疑心、虚無感、バランスを取るように思考、前頭前屋の活発化、それに加えて――――」
「では、それを彼は知覚していると思いますか?」
「それは、考え辛い。人間は知覚領域において、生存に有利性を求め、脳は意識的に情報を遮断する。その為、彼が認知している反応は極めて断片的であると予測される」
「そうですか。では、その予測を、彼の視点で、今考えている事、思っていることの予測を私に伝えてくれませんか」
「……?それはできないよ。だってそれは私の予測でしかないから、それをサロアに伝えることに何の意味もないし、そもそもそれは彼のみが知覚出来得るものであって、誰にも予測がつくものではないよ」
そんなのわかるわけが無い。だって私はロビンじゃないから――――
「そうですね。わかるわけない。誰にもわからない。何故なら、それは目に見えないもので、目に見えないということは、この世の何処にも存在してないということだから……でも知りたいと思いませんか。それに触れたいと思いませんか。もしそれを知ることが、触れることができたのなら、きっと彼の役に立つと思いませんか」
存在していない物を、知る、触れる。それはすなわち、この世に存在しないものを創り出すということ。そんな魔法のようなことができるのだろうか、たとえサロアでもそれは難しいように見えた。
「――――サロアにはわかるの?ロビンの気持ち」
しかしサロアはその、存在し得ないものに心当たりが有るようだった。そしてそれが私にとって必要であるらしいことも。
「わかるといえばわかります。でもそれは特別な事じゃない。誰もがその力を持っていて、もちろんあなたにもその素養がある。ただあなたは少し目が良すぎて、それを養う機会が少なかっただけ」
「――――そうなの……?」
私はサロアの言うことがいまいち腑に落ちなかった。私は確かに、自分と他人の間に何か隔たりのようなものを感じて生きてきた。私には世界の理がわかる。この世は物理的な繋がりの中でそれぞれが持つ力の向きによって流れ、移り変わることによって世界が成り立っている。もちろんそれ以外の存在を認めてはいるが、結果的にこの世界に出力されず、影響を与えないそれらは、私にとっては存在しないものであり、無価値なものだった。
「ええ、いずれそれを手に入れたあなたは気付くでしょう。それがあなたにとって最も重要なものだったことに」
「…………」
サロアはそういうと、俯いて考えこむ私の頭を撫でて、頭に積もった雪を振り払い、微笑んだ。戸惑う私に彼女はそのまま背を向けて、村へ向かう小道の方へ向かった。立ち去る背中で彼女は語る。
「ごめんなさい、エレナ、私はこれから、行かなくてはいけないところがあるんです。だから今はあなたと一緒にはいけない」
なぜ……?私にはできない。わからない。
「エレナ、この世界の全てはあなたの中にある。もちろんそれを変えることはあなたにもできない事でしょう」
そう、それをできるのは、サロア、あなただけ――――
「それでもあなたは変わることができるはずです」
わからない。どうして?そこまでわかっているのなら、そう思うのなら、いっそのこと私の全てを、この世界の全てを変えて、そうすれば――――
「さあ、ロビンの所に行ってあげてください。彼を一人にしないで、そしてあなたも一人にならないで」
――――――――
――――
――
私はその後、サロアの言う通り、ロビンがいる場所に向かった。そして、サロアは私に魔法を見せた――
――――エレナ、俺は君が好きだ。君のことが好きなんだ
心の中が激しく揺れ動く。私はどうすればいいのだろう。いや、どうすることもできない。何故サロアはこんなことをしたのだろう。
雪と木とそして炎の匂い。村が近い。気付けば私はサロアの丸太小屋にいた。玄関の前に人影。サロアだ。
「お帰り、エレナ。ロビンとは会えましたか」
「――うん」
サロアの足元は泥だらけだ。彼女はきっとこの災厄から、一人でも多くの命を救うため、限られた時間と制約の中で必死に走り回ったのだろう。
「また早速で悪いのですが、ロビンが今どこにいるかわかりますか?」
「たぶん村の中、ロビンの家」
「ありがとうございます。では、私は行きます」
「待って!――――待って……行かないで……ロビンは無事。あなたならわかるでしょう?あなたが行けば、ロビンは死ぬかもしれない」
「そうですか……でも、私は今のあの子を一人にはできない」
私はサロアの身勝手な理屈にかっとなって言い返した。
「どうして!?あなたが関わらなければロビンは絶対に死なない。絶対に帰ってくる。今日は、今日だけは確信がある。だから、お願い、サロア」
サロアに声を荒らげて、反発したのは初めての事だった。見えない明日が怖い。彼を失うかもしれないと思うと、胸が張り裂けそうになる。サロアだって帰ってくる保証はない。私はあの日、森で大熊の爪に貫かれたサロアの事を思い出していた。
「ごめんなさい。でも私は行きます。明日が見えないことは当たり前のことです。見えない明日の為に、私は今出来ることをしたい」
「っ…………!」
でも私は言い返すことができなかった。凍てつく冬の寒さが唇を凍らせて、合わない歯ががたがたと揺れた。
「エレナは私の家でしばらく暖まっていてください。まだ暖炉の火は落としていません。大丈夫。私の家は安全です。人除けの術をいくつか施しましたから」
私を追い越したサロアが、背中越しにそういった。私は何も言えない。まるで何かの術にかかったみたいに、指一本身体が動かせなかった。
「ごめんなさい、少しだけ待っていてください。必ず戻ります」
彼女は去っていく。見えない何かの為に――――
私はサロアの見えない手に誘われるかのように、ふらふらと丸太小屋の玄関の扉を開け、暖炉の柔らかい火が灯る、リビングのソファに縮こまるように横たわった。外套に付着した雪と泥がぽたぽたと溶け出して、泥水となって清潔なリビングの床板とカーペットを汚す。私は自分がこんなにも汚れていることにようやく気付いた。
泥水の中に私の目から溢れ出した水滴が混ざる。私はサロアの隣にいるときだけは自由だった。私はその自由がたまらなく好きで、その時間は掛け替えのないものだった。さっきも同じだった。私はなんでもできた。もちろんロビンの元へ向かうことも。サロアを全力で引き留めることも。でも私は何もできなかった。こうして、怯えて、震えて、身を竦ませることしかできなかった。
――――私を好きだと言ってくれた人
きっと、サロアならば彼を連れて、帰って来てくれるだろう。でも帰ってきた彼に私は、なんと声を掛けて、どんな顔をすればいいのか、わからなかった。
ソファに身を縮こませて、ぱちぱちとはぜる炎を見る。ただただ、私は見えない明日に祈りを捧げた。
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