21.
21.
日も暮れかけようとする森の小道を、時折差し込む茜色の木漏れ日をたよりに、俺はただ一人歩いていた。
行き先は言わずもがな、サロアの元である。道はまだ、明かりが必要なほどではなかったが、油断しているとすぐに自らの指先すら見えなくなるほど、暗くなってしまうだろう。
冬の夕暮れは夏と比べると、滝つぼへと流れ落ちる水の如く一瞬で過ぎ去る。思えば、サロアと出会ってからこれまでの時間も、それと変わらない程あっという間に過ぎ去ったように思う。あの滝つぼへと向かう道で彼女を最初に見たときは、衝撃で一生の時間が経ったのかと思うほど、時間が引き延ばされていたのに不思議なものだ。
俺はあの時の衝撃を思い浮かべながら、勝手知ったる、あの丸太小屋への道を歩く。程なくして道が開け、彼女の家が見えてきた。広い敷地の中に整然と立ち尽くす、その丸太小屋はどうやらあの程度の揺れではびくともしない強度を持っているようで、見る限りではあの模擬戦の日に見た新築のまま、しっかりと根を張って、俺を迎え入れていた。
庭先の踏み石を辿って、玄関の階段に足を掛ける。そこでふと思いたって、村に残してきたエレナを待とうかと足を止めたが、思い直して玄関の前に立つ。
いつもは一緒にこの玄関をくぐるエレナは今日はいない。いつもサロアに会いに行くといえば、いの一番に「私も行く」と声を上げる彼女が珍しく今日は渋って、先に行くように言い、どこかに行ってしまった。俺は彼女の行動に疑問を抱いたが、あまり深くは詮索しないことにした。きっと女の子には色々あるのだろう。それに今回の訪問の目的は先ほどの地震による被害確認が主であるため、彼女にとってはサロアの安否は気になるものの、面白いことは何もないと判断したのかもしれない。何せ被害確認といっても、お互いがお互いとも、サロアがこの程度の事で怪我を負うなどとは、毛ほども思っておらず、今回の訪問はどちらかといえば、俺がこの地震について学術的な側面から、彼女の意見を聞く為に行われたことであり、エレナにとっては、ただ二人が自分にはよくわからない話をしている場面を永遠に見させられてしまう可能性があるからである。
玄関前に立って、呼吸を整える。どうやら少し緊張しているみたいだ。もう一度息を大きく吸って、ゆっくりと吐く。実は俺とサロアが二人きりになることはあまりない。理由は言わずもがな、エレナが原因ではあるのだが、いざこうして二人きりになると、なんだか緊張してしまう。ひとたび顔を見ればそんな事を考えずに済むのに、一体どうしてだろう。未だ常に肌身離さず持ち歩いている、例の布片をポケットの中で握る。もう既にそれは、恐ろしい未知の怪物ではなく、ある種のお守りのようなものになっているのかもしれなかった。
「――――――」
気持ちを落ち着かせて、玄関を叩こうとしたその時、中から何者かの話し声が聞こえたような気がした。息を潜めてもう一度聞き耳を立てる。誰かいる。恐らく俺以外の訪問者だ。エレナ?いや時間的に考えづらい。歩く速度は短い冬の夕暮れを考慮して早めにしていた。あの小道以外の道ではいくらエレナの足でも俺より早く着くことは難しいだろう。
では一体……?――――知らず胸の鼓動が早くなっているのを感じる。何故だか知らないけど、きっと嫌なことが起きる、そんな漠然とした不安が、どくどくと音を立てながら、血管の中を巡って体中に行きわたる。
「――――――」
間違いない。小屋の中からサロア以外の何物かの声が聞こえる――――俺はこの声を知っている。そして、彼がここに居ることは何らおかしなことではないことも。しかしだからといってこの漠然とした不安がなくなったわけではなかった。自分の気持ちがわからない。何故俺はこんなにも怯えているのだろう。
俺は息を殺して、二人がいるであろう客間の裏手側に回った。
「――もう一度、聞かせてくれないか。サロア、君はサリアではないのか」
耳の奥で何かが割れるような音が聞こえた。
「ええ、残念ですが、それはありえません。私はあなたの娘ではなく、そしてあなたの娘の代わりにもなれません」
俺は過去の記憶と疑問が、線を描いて急激に繋がって行くのを感じる。点と点が線で繋がって浮かび上がったその絵は、俺が目を背け続けてきた、とある虚像とそっくりだった。
「そうか、だが私は君を本当の娘だと思っている。だから――――」
「ええ、わかりました。それがあなたの願いなら」
父の――イオリアの最後の言葉は聞き取れなかった。でもそれより、サロアがその提案を受け入れたことに、俺は身が引き裂かれる思いだった。
サロアはイオリアの娘であることを受け入れた。彼女はイオリアの娘ではないといっていた。しかし、本当に彼女はイオリアの娘ではないのだろうか――いや、落ち着け。サロアがイオリアの娘の、血のつながった俺の姉なわけが無い。肌の色だって髪の色だって違う。彼女とは長い間同じ時を過ごしたからわかる。そもそも彼女は人の枠組みの中に納まる者ではない。たとえ、彼女が人であることを望み、そして俺たちも彼女が同じ人であることを願っていたとしても、彼女は人の理から外れている――――
「――では私は行くよ。さようならサロア」
「ええ、さようなら――」
彼女は一人だと思っていた。でももうそうじゃないかもしれない。
果たしてサロアは最後に彼を父と呼んだのだろうか。俺には聞き取れなかった。聞き取りたくなかっただけかもしれない。
玄関の扉が閉まる音がして、イオリアが庭先の踏み石を越えて、森の小道へ入っていく。俺はその背中を見ながら、胸が空虚な気持ちで満たされていくのを感じる。彼は他人だ。俺はそのことをその背中から、見せつけられているようだった。そしてそれはどうしようもなく事実だった。
俺は息を潜めて、そっと足を踏み出す。自分がどこに向かっているのか、自分でもわからなかった。でも、それでいいと思った。今はとにかく、誰もいない、誰も知らないところに行きたかった。
日が落ちて、自分の指先も見えない暗闇の中にある森を進む。しかし、不思議と歩みを止めるものはなく、いつもはでこぼこと蔓延って、足を絡めとろうとする木の幹や草木も、今はまるで独り身の俺を、森の奥へ誘うように、道を開けた。
ふらふらと上の空で歩くうちに、ずいぶんと遠くまで来たような気がする。今まで生きてきてこんなことは初めてだった。
少し冷静になる。そうしたら、今までこうして放心状態で、生きた死人のように歩いてきたことが馬鹿らしく感じた。木々の合間を縫って、冷たい冬の風が骨の髄まで冷やす。気が付けば夕暮れ時には晴れて、茜色の夕空を見せていた空も、今ではもうくすんでいるのだろうか、雪がちらちらと舞い落ちて、自らの肩口を覆っていた。
ふと来た道を振り返ると、自らの足跡に、新たな雪が積もって行くのが見える。きっと今日の雪は今年一番の雪になるだろう。もう冬の入り口が終わって、本格的な冬がやってくる。
俺は帰る道しるべを失って、むしろほっとしていた。一晩ぐらいならばサロアに教わった技術で凌ぐことは出来る。今は元々災害時だ。万が一のことを考えて一通りの野宿に使える道具は持ってきていた。
俺はそこまで考えて自分の事が嫌になった。きっと自分は無意識ながらに、ずっと自分が生きながらえる方法を考えているんだろう。どんなに感情に振り回されているように見えても、死なない程度に計算して、それらしいところで切り上げる。そうして生きてきた俺が、こうして同じように他人に利用されることはむしろ当然の事だったのかもしれない。
エレナもサロアもイオリアもカレンもトマスもカロルもソフィアも――――俺は利用して、生きてきたのかもしれない。そんな風に今まで大切にしてきたいろんなことも、自分が生きていくには取るに足らない、利用していただけの存在だった、そういわれているような気がした。
父を――イオリアの事を思い浮かべる。彼にとっては自分の子供は娘しかいない。思えば当然のことだ。彼は自分の子供を求めた。自分と血のつながらない偽物のましてや、自分が最も愛す妻の、最も憎き仇である魔術師の落とし子を生け贄に、それが手に入るのなら誰もがそうするだろう。
そしてサロアも――――彼女は一人だった。彼女もまた自分の場所を、認めてくれる誰かを求めていた。彼女は報われるべきだ。何故なら彼女はもうその手で、何人もの命を救い、対価を支払っているのだから。もし彼女が報われないのであれば、俺のやってきたこと全ても無駄だったということになってしまう。
言葉にしてみれば、なんてことは無かった。それぞれがそれぞれ、自分の欲しいものを求めて、追いすがる。それは誰もが持っていてしかるべきもので、それ自体に罪を問うことは出来ない。
最初から分かっていたことなんだ。あの日のエレナの言葉を理解するようになってから、自分がどういう立場にいて、何をしなくてはいけないかわかった。それから時が経って、正式にこの村の成り立ちをイオリアから教えられた時も、ただの答え合わせに過ぎなかった。きっと今回も答えにたどり着けたはずだ。自分はあるべき事実に目をそらさずに、もっとそれ以上を求めるべきだったのだろう。だけど俺はありもしない虚像を抱いて、それを手放すのが怖くなった――――
俺はそこら辺をうろついて、比較的乾いて火が付きやすそうな小枝を探した。火打石も火口も持っているから、あとは枝を集めて風をしのげる場所を探すだけでいいだろう。
空気の流れが変わる。暗くてよく見えないが、どうやら崖淵に出てきてしまったようだ。流れる風を見る限り、なかなかの標高にあるようだ。もし雲の間から月明かりが差せば村の方角がわかるだろうか。俺は吸い寄せられるようにその崖淵に歩みを進める。下から突き上がる風が顔を叩きつけ、ここが崖際だと知らせる。
足下は深淵だった。先も見えない真っ暗な闇。きっともう一歩踏み出せば、次の瞬間には
体は投げ出されて、一息つく間もなく崖に叩きつけられて、俺は生涯を終えるだろう。
俺は明日の事と、そして自分の事を考えた。きっと俺は明日も生き延びて、生き延びるために他人を利用し、そして他人に利用されるだろう。それは悪いことではない。人はそうなっているものだし、そうあるべきだとも思う。
――でももし、その根元の“生き延びる”が無くなったら?
深淵から吹きすさむ風が、手招きするように声を上げ、踊る。
まず、他人を利用する事もないから、誰かが利用されることもない。それに伴って、自分とそれ以外にダミーとして用意されている「感情」の事を考える必要もなくなるし、それだけじゃなくて、あらゆる雑多な苦労や責務から逃れることが出来る。
「うん、そもそも“生き延びる”が不要なんだ」
簡単だった。簡単すぎてつまらないような気がするけど、この世界の真理であることは間違いなさそうだった。
きっと誰かが生きていくには、他の誰かが必要なんだろう。でも今の俺にはその誰かの事なんか考える余裕なんてなかったし、その誰かに利用されて生きるのも、その誰かを利用して生き続けていくのも、この一歩を踏み出すよりは大変そうに見えた。
「ロビン、間違ってるよ」
雲の隙間から月明かりが差して、崖下の森に青白い月光のベールが掛かった。月明かりに照らされて、雪の白と常緑樹の緑がきらきらと光った。
「そうか、エレナがいうんならそうだろうね」
振り向くと月光に照らされた美しい一人の少女が佇んでいた。もう一つの深淵を秘めた彼女の二つの眼が、その青白い光を反射して、怪しく光る。それは自分が見てきたどの彼女よりも美しく、そして恐ろしかった。
「うん、だってロビンの“生き延びる”は私の“生き延びる”の前にあるから」
通り過ぎる雲が月光を遮って、彼女の顔を隠す。再び現れた彼女の瞳には、人非ざる神秘が潜んで、決して、ただ人では近づけぬ隔たりがある気がした。
「――――えっと、それは、エレナが生き延びるには俺が必要だって事でいい?」
俺はエレナの言っていることがよくわからなかったけど、彼女の言葉を自分に都合のいい解釈をして、その質問に一縷の望みを託した。もしそうであるならば、それはどんなに素晴らしいことだろう。
「うーん、そうだとも言えるけど、そうじゃないような……うん、ちょっと違うかも」
半ば予想していた気がするけど、やっぱり違ったみたいだった。彼女の人生にとって俺は必要ではない、その言葉が俺の胸を貫いて、傷口がたまらなく痛かった。
「そっか、そうだったらいいのになって思ってたんだけどね……」
「ううん、私にとってはロビンが必要だなって思うよ。だって今の私にはロビンがいなかったらなれなかったから」
エレナは事も無げにそういった。俺にはその言葉は矛盾しているように感じる。
「――――俺には君の言っていることがわからないよ。俺は君みたいになんでも知ってるわけじゃないから……」
「どうして?私よりロビンの方がもっといろんなことを知っているのに……」
噛み合わない。俺は彼女の言葉も、意味も、彼女自身の事も、何もかもがわからなかった。彼女はもしかしたら嘘をついているのだろうか。いや、彼女は真実しか言わない。きっと本当の事しか知らないんだ。
「…………」
俺は彼女に言葉を返すことができなかった。不思議そうに、そして少し不安そうに俺を見つめる彼女とは何処までも交わらない。彼女の双眸を見つめ返す。彼女に俺はどう見えているのだろう。その瞳の中の俺は彼女をどう見ているのだろう。
俺は彼女を知らない。
彼女を知りたいと、そう思い始めたのはいつのころからだろうか。俺は彼女が怖かった、彼女を哀れんだ、彼女に同情した、彼女に手を伸ばした、彼女と共にあろうと思った。それは何故だろう。自分らしくないと、今更ながら思った。
「エレナ、君だけじゃない。俺は俺の……自分の事すら知らないんだ」
「私は知ってるよ、ロビンの事。ロビンはいつも私を助けてくれて、いつも人の為に頑張ってる。私だけじゃなくて、サロアもソフィアさんも、他にもいっぱい助かった人がいるよ」
「……それは違う――――それは本当の俺じゃない。本当の俺は他人を利用することしか、自分が生きる事しか考えていない……そんな――」
人未満の獣だ。
「うーん、私はロビンの言ってることの方がよくわからないよ。私は本当の事を言っているんだよ。ロビンも本当の話をしているかもしれないけど、それは本当じゃないよ」
「…………」
彼女は相変わらず、その神秘を孕んだ眼で、不思議そうに俺を見る。
俺も相変わらず、エレナの言っていることの意味が解らなかった。胸中にもどかしさと虚無感が入り混じって、灰色の水面をつくる。その海の中で、俺は泳ぎ疲れて、その深く暗い水底へと落ちていった。沈んでいく身体は水の重みで手を伸ばすのもままならない。指一本動かせない深海の中で、俺は溺れていく。どうやら、這い上がる力はもう何処にもないようだった――――
――――――…………
誰かの声。でも、どういうことだろう、沈んでいく中、一筋、微かな光のようなものが差しているのが見えた気がした。俺はまじまじと月光に照らされて、白く幻想的に光る彼女の顔を見る。
自分の中でどこかの歯車が回りだした気がした。もう一度声が聞こえる。
――――人は皆生れ落ち、母親からの繋がりを断たれたとき、一人になります
俺は一人だ。自分の中の本当は本当じゃない。
――――だからこそ繋がりを求める
「でも、それは寂しいよ……」
「…………?」
何故、俺はここでこんなことをしている?何故、彼女の中に自分がいないことに寂しさを覚える?偽物である方が生き延びるには都合がいいのに、それはどうしてだろう。
――だから、愛しましょう
「俺は君を知りたい。俺を君に知ってもらいたい――――」
「――――――………」
――ああ、そうか、これも簡単な事だったんだ。自分が何者かなんて気にならなくなる、自分の中の絶対の真実。自分の中の嘘じゃない場所。
「エレナ、俺は君が好きだ。君のことが好きなんだ」
エレナの月光に照らされた両眼が、大きく見開いて、きらきらと光った。
そうか、なんで気付かなかったんだろう。この気持ちはこれ以上説明できない、分解できない。それはきっと“生き延びる”より前にあって、それがなぜそれより前にあるか説明ができない。でもその説明できない気持ちが繋がって、いろんな形を作っていた。
「――――ロビン……その……私…………」
エレナの大きく潤んだ瞳が、伏せられて、長いまつ毛に青白い光が反射する。きっと彼女の答えは俺の望んだものではないだろう。だけど俺はただ、彼女を知りたかったし、彼女に自分の事を知って欲しかった――――
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