19.

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 この村にサロアが居つくようになってから、数えて五回目の冬を迎えた。雪が深々と降りしきる寒空の下、彼女は初めてこの村の門の敷居を跨いだ。

 フードを目深に被り、ぽつぽつと雪の上に自らの足跡を刻みながら村の中を歩んでいく彼女を、村の人々は皆家の影に身を潜ませながら、見守っていた。


 「なんでみんな隠れてるのかな。自分たちだってサロアにはだいぶお世話になってるはずなのに」


 隣を歩くエレナの表情はあれから五年が経った今でも、サロアがらみの事になれば、幼子のようにその表情をころころ変えた。


 「きっと皆さん恥ずかしがり屋さんなのでしょう。エレナみたいに」


 「もう!それは昔の事だよ。今なら皆とも普通に話せるし……」


 とは言ってもエレナの歳は今年で十六を数える。サロアの影響もあってか、彼女の性格は昔よりは幾分か社交的になって、村の皆からも良く成長したと言われていた。

 

 「ね、ロビン、私大人になったでしょ?」


 彼女がこちらに笑顔を向けて言う。その言葉の通り、エレナはあの時から大分成長していた。内面でもそうだが、何より一番変わったのはその容姿だ。

 エレナが父親であるトマスの許しを得て、サロアの弟子に加わり修行を受け始めたときから、彼女の背丈は急激に成長した。一時期は俺の背丈も抜く勢いで、このまま自分の背が伸びなければ、今度は逆にこちらが目線を合わせるために背伸びをしなければならなくなるかもしれないと、内心焦りを感じていたのだが、つい一、二年ほど前にようやく抜き返して、その心配は杞憂に終わった。


 「そこでなんで黙るのロビン」


 何も言わない俺に、いじわるされたのかと勘違いしたエレナが不満げな顔で俺の顔を覗き込む。


 「そうだよ、もうエレナは十分大人だよ。村の皆も認めてる」


 俺は急に気恥ずかしくなって、サロアを説得するふりをして、エレナから視線をそらした。年を経るごとに俺はエレナをどんどん意識していっている。背丈とともに成長した女性らしい丸みを感じさせる肢体とサロアに影響されて伸ばし始めた長い髪は、自らの体とは違う、男女の違いが感じられて、なるべく意識しないように気を付けつつも、気付けば視線はいつも彼女を追っていた。


 「ふふ、ロビンが言うのなら間違いないですね」


 ふんわりと柔和な笑みを浮かべて笑うサロアの表情に、浮ついた心が落ち着いて行くのを感じる。彼女の顔の造りは正直に言えばエレナよりも整っていて、一般的に言えばまだまだ女性としての魅力ではサロアの方が勝っているように感じるのだが、サロアに対しては不思議とそういった気持ちは湧かず、むしろ安心感さえ覚えるのだった。理由は分からない。でもきっとそれは、彼女が出会った時から全くその容姿が変わっていないようにみえる事も関係しているのかもしれなかった。


 「やっぱ、サロアはロビンに甘いよ。いっつもロビンを特別扱いしてる気がする!」


 思わず横目でサロアの顔を覗き見る。普段そんなことは考えたことはなかった。むしろ彼女はエレナの方をより意識しているのだと思っていた。


 「おや、そんな事を話していたら着いたようですよ、今回の目的地に」


 サロアはエレナの詰問には答えず、まるで他人事のように俺たちの現状を解説した。

 そこは少々大きめの一軒家で、その平屋の壁に塗り建てられた土や、柱となっている木材の質から、それは最近新たに建てられたものだとわかる。


 「ソフィアさん大丈夫かなあ」

 

 そう、今回初めてサロアがこの村に立ち入ることが出来たほとんどの功績はこの新築の主、ソフィアさんにあった。


 「どうでしょう、月の周期ではここ数日辺りが最も確率が高いですが、トマスさんの話によるとそこまで差し迫っている訳ではないと――」


 「あっ!!先生……!?ソフィアが、ソフィアが大変なんです!!」


 サロアの話を遮るように家のドアが開き、その新築のもう一人の主、カロルが姿を見せた。カロルはドアを開いて俺たちを見つけると慌ただしくそういった。


 「カロルさん、まずは落ち着いてください。あなたには仕事があります。それは私をソフィアさんの部屋まで連れていくことです」


 サロアはあえて回りくどい口調で、カロルに自らの要求を伝えた。彼女はそれが一番の近道であると知っているようだ。


 「は、はい!!こちらです!!」


 普段のカロルからは想像もつかない程殊勝な態度でサロアを家の中に案内する。かくいう俺も唐突に訪れた、緊迫感溢れる状況と一瞬の油断も出来ないだろう空気にただのサロアの付き添い兼手伝いの身分ながら、浮足立つ心を鎮めることは出来なかった。

 家の中を通されたサロアは浮足立つ俺たちとは違って、毅然とした態度で廊下を進み、ソフィアさんのいる部屋にたどり着いた。扉を開けるとソフィアさんは、ベッドの上で大きくなったお腹を抱えながら、苦しみの表情に喘ぎ、天を見上げながらうわ言を繰り返していた。


 「ソフィアさん、もうひと頑張りですからね」


 サロアは素早くソフィアさんが横たわるベットに近づいていくと、服をめくって現在の母体の状況を確かめた。


 「もう破水しています。カロルさん、以前伝えた通り暖かな部屋と清潔な分娩椅子は用意されてますね」


 「は、はい!部屋を出て正面のリビングです」


 「よろしい。ではソフィアさん立てますか――エレナ、片側を持って。ロビンは産湯と薬類の用意、そして道具類の消毒を」


 サロアはてきぱきと指示を出して、新たな命を受け止める準備をする。指示を受けた俺たちは短い返事を返して、それぞれ訓練を受けた通りに自らの仕事をこなすため配置に向かう。


 「せ、先生……お、俺はどうしたら……」


 「カロルさん、あなたはソフィアさんに付き添って声を掛けてあげてください」


 後ろ手にカロルの狼狽した声と、サロアの冷静な諭すような声が聞こえる。俺は今のカロルを笑えなかった。たぶん自分もサロアに仕事を与えられていなければ、同じような状況になっていたことは間違いなかった。そして、その与えられた仕事も俺にとっては随分荷が重いような気がして、気持ちが不安一色になっていた。もし、自分が何かミスをやらかせば、母体か胎児のどちらか、ともすれば二人ともが、この世を去る。その重圧に、何度も練習して、全部頭に叩き込んだはずの手順が震える指と熱くなった頭の芯でぎこちなくなるのを感じた。


 「しっかりしろ、俺。サロアの方がもっと大変なんだ。これくらいできなくてどうする」


 大きく吸い込んだ息は、冬の冷徹な空気を孕んでいて、その冷たくて、一切の手心のない空気は今の熱くなった頭にはちょうどよかった。

 消毒した道具類と薬を届けた後、湯を沸かすためにキッチンに向かい、窯に薪をくべる。

赤ん坊はいつ生まれるかわからない。だから、この火を絶やさず燃やし続ける必要があった。

 先ほど道具類を届けるためにリビングに向かった時のことを思い出す。部屋はまさに阿鼻叫喚だった。「天使様、天使様」とうわ言を叫びながら痛みに耐えるソフィアさん(どうやらサロアの事を神が遣わした天使だと思っているらしい)とただただソフィアさんの手を握りながら、大丈夫と呼びかけるしかないカロル、あたふたとサロアの指示をこなすエレナ、そして涼やかな声で冷静に母親に呼びかけるサロア。

 俺は正直なところ、あの部屋に居続ける必要が無い仕事に割り当てられたことを神に感謝していた。薬や道具類や医療の知識についてはエレナより俺の方が幾分か上だったが、今回は女性の方が助手に適しているとのことで、エレナがサロアの隣についていた。エレナはその人選に喜んでいたが、俺も内心では同じように重荷から解放されて、ほっとしていた。


 「これじゃあ、だめだな……」


 ちょうどいい湯加減になったお湯を桶に移して、それを持ち上げ、廊下を進み、リビングに向かう。


 「ヒッ、ヒッ、フー……はいそうです。また力を抜いて、焦らないで、少しずつですよ」


 扉の中からサロアの涼やかな呼びかけが聞こえる。今は少し落ち着いているようだ。

 扉を開ける。ソフィアさんが玉のような汗を浮かべて、苦悶の表情を浮かべながら必死に生まれてくる生命のため、痛みに耐えている。


 「ロビン、それを移し終えたら、窓を開けてください。少しだけ気温を下げます」


 「わかった」


 桶のお湯を分娩椅子の足元のたらいに移し替えて、窓際に行って、窓を開ける。冷たい冬の空気が流れ込んで、上がりきった部屋の熱気を冷ました。

 真剣な顔をして、サロアの隣につくエレナを見る。彼女は変わった。それは皆がいう通りだけど、少しだけ間違っている。エレナは元から素直で、正義感があって、何事にも真っすぐなそんな女の子なんだ。今までそれをみんなに隠していただけで、元が変わったわけじゃない。


 「もういいですよ、ロビン」


 俺は言われたとおりに空けていた窓を閉めて、桶を持って部屋を立ち去る。

 それに比べて俺は駄目になった。心の中で何か、必死に守ってきたものが少しずつ崩れていくような、そんな事をサロアに師事したころから感じ始めていて、それが今回の事で浮き彫りとなったような気がした。

 減った薪を火にくべ、ぼおと火を眺める。もしかしたら俺の役目はもう終わったのではないか。俺が今ここで全ての仕事を放棄したとして、変わる未来は恐らくない。ソフィアさんの事はたぶんサロアに任せておけば問題ないだろうし、それ以外の事だって――さっき見たエレナの真剣な表情が脳裏をよぎる――俺が何をするまでもなく、あるべき形へとなるのだろう。

 あれから同じような事を繰り返して、数時間が経った。先ほど産湯を届けた時のソフィアさんの状態とサロアから事前に教わった知識によれば、もうそろそろ赤ん坊が生まれてくるはずだ。俺は万が一のことを考えて、事前に打ち合わせた通り、煤で汚れた手を念入りに水と石鹸で洗い、更にサロアが消毒液と呼ぶ、酒の香りに似た刺激臭を漂わせる液体を手に塗り込み、消毒を行った。消毒液には手指消毒用と、器具消毒用の二つがあって、先ほどの器具の消毒においてはまた手指消毒用のとは違う、独特な刺激臭がする後者の消毒液が使われていた。しかし、それらについては何から作り出したものなのか、そもそもこれらはいったい何なのか、具体的にどのような効果があるのかは、彼女の口からは結局明かされていない。ただ、危険な物質であるため、指示された以外の使用法はしてはいけないと言われただけだった。俺は今までサロアからたくさんの知識と技術を学んできたが、それと同時にある一定の水準を越える技術や知識に関しては意図的にはぐらかしている事を薄々感じ取っていた。今回の消毒液についてもそうだ。概念的には医療現場においては清潔にするべきであるという原則からなるもので間違いなさそうだが、それとこの消毒液の具体的な作用を結び付けるには何か決定的に事実や知識が欠けているような気がした。彼女は何のためにそれらを俺たちに隠しているのだろう。

 俺は出来るだけ周りのものに触れないように、キッチンを出る。さっき俺は彼女から消毒液の作用については何も教わっていないと言ったが、正直なところ、その原理のようなものについてはあらかたの仮説が自分の中では出来上がっていた。それはサロアがこれまで教えてきてくれたことや彼女の日頃の行動を統合すればわからなくもないことで、彼女にとってもそれは承知のはずだ。ならば何故彼女は隠すのか、明かされる知識と隠匿される知識の差とは一体何なのか。俺は彼女を信用していないわけではない。この数年間彼女を見続けてきた俺には利権のためにそのような事をする人では無いという確信がある。

 きっとサロアには俺たちには見えないものが見えているのだろう。この消毒液の仮説と同じだ。この消毒液は恐らく彼女にしか見えていない毒を滅ぼす物だ。これまでの経験と教えに照らせば、その毒は実はそこら中に有って、普通の者には見えない、もしくは――恐らくこれが最も現実的ではあるが――人の目には見えない程小さな生物であり、彼女はそれを何らかの方法で観測し、薬物を使ってそれを滅していると考えられる。もし、その毒が目に見えない程小さな生物だとする仮説があっているのだとしたら、それらを滅ぼすこの消毒液も恐らく劇薬となる――

 俺はゆっくりと足を進ませ、リビングの扉の前にたどり着いた。扉の中から、痛みに耐えるソフィアさんの叫び声とそれを励まし、適切な掛け声をかけ続けるサロアの声が聞こえる。果たして彼女はそれらの技術を俺たちに渡さない為にこれらの情報を隠匿しているのだろうか。それは最もありそうなことではあったが、何となく腑に落ちないような気がした。未だにポケットの中に潜ませ続けている、あの布片を思い出す。もっと根本的な彼女に関わる秘密を明かさない限り、その答えにはたどり着けないような気がした。

 扉を開けるのと、この世に新たな命が生まれ落ちたのは、ほぼ同時だった。おぎゃあと新たな鼓動が鳴り響く。それを確認したサロアは素早くかつ丁寧に器具を扱って、母親と繋がる臍の緒を切り落とすと、赤子を受け取ったエレナが産湯につけ、赤子の身体を清めた。

 赤子はこの時をもってこの世に生れ落ち、そして母親から切り離され一つの子となった。エレナによって洗礼を受けた赤子は清潔な布でくるまれ、母親の元へ連れていかれる。偉業を成し遂げた母親はその疲れを内に押し隠して、慈愛の表情でそれを受け取った。


 「……良かった……本当に良かった……よく頑張ったなソフィア……」


 新たに父親となったカロルが涙を目元にためながら、ソフィアさんの手を握る。ソフィアさんはそれに無言の頷きで答えた。


 「元気な男の子です」


 「そうか、ならば名前はルーイ」


 エレナが性別を伝えると、カロルはあらかじめ定めていたその名を赤子に与えた。


 「ルーイ……」


 ソフィアさんがその名を愛おしそうに呟く。


 「……ロビン、子、母体共に問題ありません。母体の出血量も正常で、まだ予断は許されませんが、このまま問題が無ければ追加の処置は必要ないでしょう。ありがとうロビン」


 出産後も油断なく、母体の処置をしていたサロアが、区切りをつけて隣に控えていた俺に声を掛ける。


 「ああ、そうみたいだね……本当に良かった……」


 言葉とは裏腹に心の内には何か釈然としない、もやもやとした正体不明の感情が渦巻いていた。出産が無事終わってうれしいのは本当の事なのに、どうしてなんだろう。

 幸せの中にある一つの家族の姿を見て、心がざわつく。でもそのさざ波の中心にあるのは空っぽの空間だけだった。


 「……ロビン、あなたは一人じゃありません。大丈夫。私がいます」


 「――――……!」


 俺ははっとなって、サロアの顔を見た。その完璧な顔が何故だか今は滲んで見えた。

 目元を袖で拭う。どうやら感動的な場面で少し感傷的になってしまったのかもしれない。

サロアはそんな俺を見て一つ息をつくと、優しくも冷たい感触のある声音で言葉を紡いでいった。


 「人は皆生まれ落ち、母親からの繋がりを断たれたとき、一人になります。それは神が与えたあまりにも厳しい試練かもしれません。しかし、孤独であり、それが覆せぬ道理だからこそ人は繋がりを求め、人を愛する事が出来るのです。確かに血の繋がりは濃く、最も強い繋がりといっても良いでしょう。でもそれでも、人が皆孤独であることに変わりはないんです。だからこそあなたは一人じゃない。一人だけが孤独じゃない」


 俺はサロアの完璧に整った、作り物の様な顔をまじまじと見た。彼女も一人なのだと、ただ何となくそう思った。


 「だから愛しましょう。世界を、人を。血の繋がりも、それ以外の繋がりも。人にはそれが出来る。そうしていれば、いずれはこの孤独な世界の中でも幸福を見つけることが出来るかもしれません」


 何となくその言葉はいつもの彼女とは違ったような気がした。それはきっと、その言葉がいつもの教えではなく、それが彼女の願望だったからかもしれない。


 「ありがとう、サロア。もう大丈夫だよ」


 俺は笑顔を作って彼女に向けた。彼女はゆっくりと頷くと、それを同じ微笑みで受け取った。

 俺は彼女の事を何も知らない。そして彼女は何も教えてくれない。だから彼女はこれからもずっと一人だろうし、俺も何かが出来るわけじゃない。でも何かが出来るわけじゃなくても隣にはずっといようと思った。それが彼女の望みだと思うから。

 幸福の中にある家族に目を戻す。あるべき形。それが最も幸福の答えに近いのだろう。でも俺にはそれが与えられていなかった。

 家族の様子を微笑ましそうに見守っていたエレナが視線に気づいてこちらに笑顔を送る。俺とサロアはそれに笑顔を作って返す。穏やかで幸福を感じる時間だった。俺の役目はもう終わった。あとはあるべき形になるだけだ。それが俺にとっての幸福になってもならなくても、それが誰かにとっての幸福の形になるのなら、それでいいと今は素直に思えた。

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