18.

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  切り立った崖の麓を埋め尽くす人々。彼らは皆粗末なぼろ布の衣服を着て、それぞれその足元には鉄の重しで出来た枷をはめられていた。彼らの表情は当然芳しくはない。重い足かせを掛けられたまま長い旅路を歩かされた人々は、皆それぞれ、自らをこんな苦境に追いやった憎き者共への恨みの表情を浮かべるか、もしくは閉ざされた真っ暗闇の未来に絶望して、瞳の色を失わせていた。

 疲労と絶望の中で、一人大きな声を上げて泣き崩れる者がいた。突然声を上げて泣き叫んだ女に、周りの人々は、ある者は顔を背けて憐憫の表情を浮かべ、ある者は心底迷惑そうに女の顔を睨め付け、ある者はこのような仕打ちをした者どもに対して怒りと憎しみを抱いて、肩を震わせた。しかし、女とは違って、誰一人として同じように声を上げるものはいなかった。そのような者はこの長い旅路の中で、小麦のもみ殻のように作業的に取り除かれて処理されてしまっていた。

 騒ぎを聞きつけた、革の鎧を纏い、鞭を手にした者達がそれを地面に叩きつけながら、人の群れに亀裂を入れて、騒ぎの中心になっている女の元にたどり着いた。


 「おい!どうした!女!貴様か!ほら、立て!」


 吠えるような慟哭と共に何かを抱えて蹲る女に、兵士の内の一人が怒号を上げて女の背中に鞭を叩きつけた。

 女は甲高い悲鳴を上げて地面に倒れこむ。倒れこんだ拍子にその腕に抱え込んだ物がその手を離れてごろりと転がった。赤ん坊だった。やせ細り、煤で汚れたその頬には、本来通っていた赤い血塩がもう既に途絶えていることが、その土気色の色合いから窺えた。

 腕から離れた、もう息をしていない我が子を、今一度その手に抱こうと身を起こそうとする女を、革の鎧をまとった兵士がその腹に蹴りを入れて止めた。

 女の口元から嗚咽と共に胃に収められていたはずの僅かな液体が漏れる。


 「おい!これ燃やしとけ」


 その吐しゃ物を心底嫌そうな顔で見届けた兵士は、女の腕についぞ戻ることが出来なかった赤ん坊の遺体をあごで差して、部下と思われる一人の兵士にそう指示した。


 「――は、はい!」


 指示された兵士は少し長すぎる空白を経て、そう返事をすると、指示されたとおりに赤ん坊を抱えてこの民衆の海から抜け出そうとした。


 「うわああああ!」


 赤ん坊で両手が塞がった兵士に対して、奇声を上げながら何かを振り上げて突っ込む男が一人。どうやら足かせにしていた鉄球がなにかの拍子で外れてしまい、彼は反撃の武器を手にしてしまったようだ。

 ごっと鈍い音が鳴って、鉄球が赤ん坊を持つ兵士の後頭部にめり込んだ。兵士は断末魔の声を上げることもなく赤ん坊を抱えたままばたりと倒れた。


 「ちっ、……取り押さえろ!!」


 すぐにその声に反応した兵士たちが男を取り押さえ、男はあっという間に無力化されてしまった。


 「ははっ、ざまあ見やがれ!っぐ……お前たちは人間じゃない!悪魔だ!当然の報いだ!いずれ救世主様が現れていずれ皆こうなる!……ぐあっ」


 しかし、取り押さえられた男はなおも抵抗し、組み敷かれ、口を開くたびに殴られていたが、その言葉を止めようとはしない。男の開ききった瞳孔を見るに、どうやら痛みも感じていないようだった。


 「もういい!舌を切れ」


 痺れを切らした隊の長と思われる男が、苛立ちを表に滲ませながら、部下に指示を出した。指示を受けた兵士は一瞬の淀みもなく懐からナイフを引き抜くと、もう一人の兵士に目くばせをして口をこじ開けさせると、男の口に刃を忍び込ませて一気に舌を切り裂いた。


 「ごわああああ」


 男は自らの血にごぼごぼと溺れながら断末魔の叫びをあげる。


 「ちっ、こういうのはもうちょっと早く出てきてくれねえかな」


 指示を出した兵士長は、事の顛末を見届けてそう呟いた。まさに紛れ込んでいたもみ殻を処理するように――


 空を見上げると、今にも泣き出しそうに積み重なった濃い灰色の雲が、それでも雨を落とさずに上空を彷徨って、辺り一面をその暗い色で染めていた。

 群衆の亀裂の入り口で、黙ってそれらの成り行きを見ていた私は痺れを切らしてその亀裂に足を踏み入れた。少し気分が悪かった。

 私の姿を見て、大げさに避ける群衆を横目に、騒ぎの中心に近づいていく。近づくたびに女の半狂乱になった叫び声は大きくなっていった。


 「うるせえ!黙ってろ!」


 くぐもった嗚咽が聞こえて、叫び声が止まる。どうやら兵士長はこの女の舌は切り離す必要はないと判断したようだ。

 中心にたどり着く。視線を変え、ごぼごぼと断末魔の叫びをあげていた男の方を見ると、声ももうだいぶか細くなって、蚊の鳴くような声になっていた。彼はこのまま自分の血に溺れて死んでいくのだろう。

 そのまま佇んでいると、私の存在に気付いた兵士長が焦ったように背筋を伸ばすとこちらに敬礼をして


 「申し訳ございません!私の管理不行き届きであります!しかしご安心を!もう静かになりましたので!」


 と、更に焦ったような口調で述べた。

 私は兵士長の敬礼には答えず、視線を移して舌を切られた男の息が無くなるのを見届ける。視線を戻すとさっきまで残酷な目つきで母親を蹴りつけていた兵士長が、今度はその成り行きを恐れを抱いて見つめていた周囲の群衆と同じ顔つきで私を見ていた。


 「……色の化け物……」


 何者かの声が聞こえる。視線を移すと、地面に這いつくばっている母親がこちらを見ていた。度重なる暴行で口元は吐しゃ物と血にまみれ、身なりは長旅と劣悪な環境によって、ぼろぼろになっていたがその目には未だ生気が宿っていた。

 彼女の焦点が私を捉え、瞳孔が開く。すると驚いたことに息も絶え絶えになっていたはずの母親がすくっと立ち上がって、奇声を上げながら私に向かって突っ込んできた。


 「この化け物!!銀色の化け物!!」


 強い殺気とは裏腹に彼女の体はぼろぼろで、足取りはおぼつかない。

 私は目を眇めると、ふらふらと走り寄ってくる女に片手をかざし、視線の先の指先に彼女の首元を合わせて指先をきゅっと縮めた。視界の端で自らの銀の毛先が魔力に反応してふわりと揺れる。すると彼女の首が“なにかに抓まれた”ようにぐいっとその場に引き戻された。


 「あがっ!!」


 女の瞳が今度は恐怖で見開かれる。

 私はそのまま指先を、見えない人形を吊り上げるようにすっと持ち上げた。すると直接触れていないはずの女の身体も、まるで手元の見えない人形のように持ち上がっていく。

 私は恐怖と憎しみに歪んだ彼女の目を見ながら、更に指先を縮めて力を込めた。左目の金色の義眼が熱く燃える。痛い。

 女は首元を手でかきむしり宙に浮いた足をばたつかせる。女は声にならない叫び声をあげ、私に精一杯の憎悪を込めて睨目付ける。私はその目をずっと見ていた。


 ――ごき……


 やがて彼女の首元から、鈍い音が響いた。首の骨が折れる音だった。宙に浮いた女は途端に抗う力を失い、手足がだらんと垂れ下がる。

 誰も何も言わなかった。静まり返った群衆の中で、私はしばらく、死体を持ち上げたまま、生気を失った彼女の目を見ていた。私には自分を囲む人々がどんな表情でこの光景を見ているかが、見渡すまでもなくわかった。

 私は気のすむまでそうした後、指先を動かして、吊り上げた女を、先ほど自分の血に溺れて息絶えた男と同じ場所に投げ捨てた。べちゃりと舌を切られた男の血だまりがはねた。


 「赤ん坊の父親はこの男か?」


 私は誰に問うでもなくそう呟いた。

 誰も答えない。沈黙が流れた。私は兵士長に視線を移した。


 「おい!赤ん坊の父親は誰だ!知ってるやつは名乗りを上げろ!おい、お前!何か知ってるんじゃないか!?」


 「しっ知りません……!」


 私に視線を投げかけられた兵士長は焦ったように手近にいた群衆の一人の胸倉をつかんで、問い詰めた。問い詰められたその男は恐怖に顔を引きつらせながらそう答えた。しかし様子を見るにどうやら本当に何も知らないようだった。


 「ちっ、おい!知ってるやつは正直に話せ!!さもないとこいつを殺す!」


 兵士長は胸倉をつかんでいた男を蹴って押し倒すとその首元に剣を突きつけた。どうやら追い詰められているのは兵士長も同じようだった。彼の表情は唐突に自らに降りかかった圧倒的な力と理不尽による恐怖で歪んでいた。


 「おいおい、もうそこら辺で良いんじゃねえか。部下は大切にしろよ?面倒が少なくなる」


 亀裂の根元から新たにやってきたのは、顔のほとんどを仰々しい黒のマスクで覆った、残忍な目つきをした男だった。彼の顔を構成する要素はほとんどそのマスクで覆われてしまっているのに、その覆われていないほんの一部分である、あの目元を見ただけで彼がどれ程残虐な性格であるのか、誰もが理解をするほどに彼の目つきは爛々と輝いていた。


 「それに、もうあんたの欲しがってた答えはもう出てるんじゃねえか。ほら笑えよ。この答えに満足してるんだろ?この綺麗な顔が台無しだ」


 そういうと彼は私の背後に寄って、不躾に頬を撫でた。私はその手を振り払うとただ無感情に彼に目線を投げて、剣を突きつける兵士長に向き直ると、彼に止めるように指示を出した。解放された両者は逃げるように自らの居場所へと帰っていった。


 「ふん、つまんねえ女だな。顔は一級品なのに生気が感じられねえ。やっぱ女は笑顔よ笑顔。お人形遊びじゃつまんねえもんな」


 彼はそういうと私が先ほど投げ捨てた女の方につかつかと歩み寄っていく。


 「その点この女は最高だったな。生命力の塊だった。きっと赤ん坊が命より大切だったんだろうな……全く、最高だ。人間はどこまでも強くなる。その強さは何より美しい」


 彼はそう言って目の前に手をかざすと、遺体の中心からごおと大きな音が鳴って、火柱が上がった。


 「――――……」


 地獄の業火は二人を燃やして、彼らの生きた証と清らかな魂を天へと還していく。そう、ここは地獄だ。生き残った私たちに残されたのは、彼らの憎しみと怨嗟、そして辺りに漂う血と肉が燃える臭いだけだった。


 「ふん、良い香りだ。出先の焚火が一番気分が高揚する」


 彼は火遊びが大好きだった。彼のその性格は、下界に降りるのを極端に嫌う魔術師にとって理解できぬ異端の存在で、彼はその異常な性癖も相まって常に同胞から鼻つまみ者にされていた。


 「でもまだ特上の素材がこの先にあるんだよな。全く楽しみだなあ!」


 彼は切り立った崖のその奥を見据える様にその残忍な目元を見開いた。

 彼は過去に大きなミスを犯している。いや、彼にとっては別にミスでもなんでもなく、それこそが望んでいた結果なのかもしれないが、少なくとも彼がこの黒い不気味なマスクを手放せなくなるほどの怪我を負った原因がこの先にあるのは間違いなく、そして彼がその原因との再開を、長年心待ちにしていたこともまた事実だった。切り立った崖の先を見据える彼の目には私には推し量れぬものがある。しかし私は彼の過去に何があったのか一部分しか知らされてなかったし、例えこれからの仕事に関わることであっても、それ以上の事を知りたいとは思わなかった。

 その狂気に満ちた後ろ姿から目をそらす。最悪の気分だった。私はこの男が嫌いだった。幼稚な思考と言動とは裏腹な、冷徹なまでの残虐性と留まるところを知らぬ性欲。きっとこの男を好きになれる人間は例え、地獄の隅々を隈なく探したって居やしないだろう。この男と短くない時間同じ職場に居なくてはいけないことを考えると、気分が滅入った。

 目をそらした先に、彼が作り上げた焚火を絶望的な表情で見つめている一人の男がいた。その表情には、後悔と恐怖とそして自分自身を嘲るようなそんな自虐的な笑みが張り付いていた。彼の表情は他の民衆とは少し違う。恐らく彼があの赤ん坊の父親だ。

 彼は母親とは違い、何よりも自分の命を優先した。彼の自虐に満ちたうすら寒い笑みには、生き汚い人間の醜悪な生存本能が見え隠れしていた。

 私は確かに彼の言う通り満足していた。人間とは、人とはそういうものなのだ。彼が特別な訳じゃない。でもそれは生物学上、仕方のないことだった。男は自らの種を蒔くために生き残る必要があり、女は過酷な育児を全うするために、自らに強力な暗示を掛ける。私はこの下界に降りて何度も同じような場面に立ち会ってきたし、同じような場面をこの手で作り出してきた。どれもほとんど似たようなものだった。人間は元からそう創られている。それが証明される瞬間はこの世界には吐き捨てるほどありふれていた。

 こうして下界に落とされて、今日みたいに嫌なことはたくさんあったけど、悪いことばかりでもないのかもしれない。私だけが一人なわけじゃない、皆同じなんだって思えたから――


 私は火に炙られ、天に還っていく親子を炎の外から見つめる。私はそれに少しだけ羨ましさを感じた。


 「――――様……メルクリオ様……メルクリオ様?」


 “水銀(メルクリオ)”……まるで誰かを呼ぶようにその物質の名を言う一人の少年……“水銀”……メルクリオ――そう、それは私の名前だ。


 「――ああ、何だ」


 「ああ、良かった。メルクリオ様はお耳が使えなくなったのかと思いましたよ」


 毒気が無さそうに毒のある言葉を言うその少年は、確か名前を――ユーリといった。


 「…………」


 「ちょっと、黙らないでくださいよ。冗談ですよ、冗談。冗談に決まってるじゃないですか……だから殺さないで」


 彼は私の沈黙を怒りの感情と捉えて、身を縮こませて、必死に命乞いをする。彼は私とさほど年も違わないし、背だって私より少し高いはずなのに、その姿はとても小さく見えた。


 「良いから要件を言え」


 「は、はい!」


 彼は額に脂汗を浮かべながら、急いで背を正すと、急に真面目な顔になって、てきぱきと連絡事項を連ねていく。


 「――――以上がシャリネからの報告です。つまり、今回の“協力者”で最後ということです。良かったですね」


 「何も良くない」


 「も、申し訳ございません……」


 再び少年は縮こまって小さくなる。私はいまいちこの少年について理解が及んでいない。臆病で常にびくびくしているのに、いつも余計な一言を言って更に自らを窮地に追い込んでいる。そういう性分なのか、はたまた、ただの阿呆なのか……とにかく彼はそんなんだから最低限のやり取りを心掛けている他の部下たちと比べて、相対的に私との会話量が多く、それ故に私の中の彼に対しての情報量も多かったが、しかし不思議なことにそれに比例するかのように、彼の謎も増えていってしまっているようだった。


 「いい。配置につけ。今から儀式を始める」


 「い、今からですか……?お疲れでしょうし、明日でも日程的には――」


 彼は燃え盛る三人の死体をちらちらと横目で見ながらそう意見を述べる。理解できない。私に意見をして彼にメリットがあるとは思えない。


 「早くしろ」


 「は、はい!」


 彼はそれ以上は何も言わず、自らの仕事を完遂するために人込みの海の向こうに消えていった。

 私の心は先ほどとは違った意味で波立っていた。彼の余計な一言はいつも私の凪いだ水面に波紋を起こす。私の心をまるで見透かすようなその一言は、彼の最大の神秘だった。なぜ彼は私の知らない私を知っている?


 「おいおい、アオハルかよ。蓼食う虫も好き好きって事だな。へへっ、精々彼には頑張って欲しいところだねえ。ひょっとしたら路傍の石が宝石になるかもしれねえからなあ」


 訳の分からない台詞を吐きながら、下卑た視線を私に投げる彼――私と同じく追放され、“硫黄(サルファー)”という名を与えられて下界に落とされた彼――サルファーはすれ違いざまにその臭い息を私の頬に吹きかけるとそのまま背を向けて去っていった。

 “硫黄”と“水銀”、その二つの名は言うまでもなく下界に落ちていく私たちに与えられた蔑称だった。

 トーラス――私たちが過去に住まい、生を受けた場所に住む人々は、トーラスでの名、つまり“真名”を下界で使うことを禁忌としていた。故にトーラスを追放された私たちには、かの地での名、“真名”は剥奪されてすでになく、その名だけが残されていた。

 サルファーの去っていく後ろ姿を見る。“硫黄”――火を好み、醜悪で腐ったような臭いを放つその趣向を持つ彼にぴったりな名前だ。


 ――メルクリオ様……!とても素敵な名前ですね……!


 自分の意志に反して脳裏に響いたのは、いつも余計な一言がある彼と交わした最初の言葉だった。

 “水銀”――彼は果たして、その物質が持つ凶悪な毒性を知っていたのだろうか。

 彼は下界では有力とされているエクエスの一氏族、カイゼル家の三男坊だった。彼の家は裕福で、恐らくそれなりの教育を施されてはいるのだろうが、トーラスと下界ではその知識量と教養には大きな隔たりがあった。知識の独占。それがトーラスの支配構造において最も堅固な土台となっており、そしてその格差が、最も越えがたい壁となって二つの世界を隔てていた。私はこの地に降り立って初めて、例え我々メギストスと最も近い身分であるエクエスであっても、それが残酷なほど適応されているのだと気付かされた。

 知識の独占、そしてそれによって引き起こされる格差は、貧しさと劣悪な衛生環境として表れていた。トーラスでなら一晩で治る病気がこの下界では命を奪う不治の病になる。取るに足らない切り傷もここでは、凶悪な感染症の元となって、多くの命を奪う。やせた大地では知識のない人々では成すすべもなく、限られた肥沃な大地を巡って人々は醜い争いを起こす。知識の共有が為されればきっと多くの命が救われるだろう。でも下界の人々はその事実すら知らない。これは罪なのだろうか。神は私たちにだけそれを与えた。もしそれが罪であるならば、私たちは罰を受けなくてはならない。そしてそれを引き起こし、死をまき散らしてきた水銀(わたし)には最も重い罪と罰が与えられることだろう。

 彼はたぶん知らない。水銀という物質が巷で言われている万能薬などではなく、人を、生きとし生けるものを全て死に至らしめる、猛毒であることを。

 私はサイファーが去っていった方とは別の方角に向かい、人々の海を割って進んで行った。

 私たちのやり取りを十分すぎるほど距離を離して見守っていた群衆は、私が歩き始めると蜘蛛の子を散らす様に去って道を開けた。

 海が割れ視界が開けると、崖の麓に鎮座した祭壇が現れた。

 私はそれに向かって歩を進める。祭壇の中心にはやや大きめの宝座が設置されており、それには不可思議に宙に浮かぶ、光り輝く宝石のようなものが収められていた。祭壇から距離の離れたこの位置から見ても“それ”の異様な大きさがわかる。祭壇に近づくたびに“それ”に共鳴した左目の義眼が熱を持ち、疼いた。

 祭壇に上り、透きとおる結晶を通して下界の人々を見る。プリズムに歪んで屈折した光の中であっても彼らの怯えと憎しみに歪んだ表情がわかる。

 私は“それ”に手を掲げ意識を集中させる。更に輝きを増した“それ”に連動するように人々の足元に魔術印が浮かび上がった。足元の異変に気付いた彼らは、必死でその円から逃げようとあがくが、どうやらその足は根についたまま動かないらしい。

 あちこちで悲鳴が聞こえる。魔術印の端っこでは運の良い“協力者”が地を這って脱出していた。しかしすぐさまそれに気付いた魔術印の周りを固めていた兵士が幸運な彼を蹴り飛ばして、不幸のどん底に叩き落とした。

 反対側では同じように円から脱出したものが、同じように兵士に抑え込まれそうになっていたが、彼は渾身の力を振り絞って堪えることに成功していた。もう一人の兵士がやって来て、力の均衡が崩れる。彼の幸運もここまでかと思われたが彼は最後に大きな戦果を挙げた。力の均衡が崩れた三人は勢いあまって円の中に入ってしまったのだ。


 「うあああ!助けてくれ!!」


 仲間に助けを求める兵士と引きずり込んだ兵士を逃さぬよう、必死に引き留める“協力者”たちとそれを黙って見守る周りの兵士。よくある事故だった。もしかしたら“彼”はこういったことを懸念して、儀式を遅らせようとしたのかもしれない。

 私はそんな光景を他人事のように見ながら、更に熱を上げる左目の義眼の熱さに耐えながら、更に意識を集中させた。

 想像するのは桶に入った水。私はそれに手を突っ込みそれらを引き裂き、攪拌する。

 ぐるぐる、ぐるぐる。溢れない様に、そして良く混ざるように次は逆回り。ぐるぐる、ぐるぐる――左目が熱い。正常な思考が失われていく――


 ……どれだけ時間が経っただろう。私は頃合いだと思った。私は桶を手に持って、中の液体を、光り輝く“それ”に注ぎ込んだ。水を掛けられた“それ”は不思議なことに、渇いたスポンジのようにその液体を吸収して一滴残らず吸い込んでしまった。

 桶の最後の一滴を“それ”に吸収させる。それを見届けた私は堪らず桶を投げ捨てて、その場に倒れこんだ。


 「――メルクリオ様!!」


 胃の中身が逆流しているのを感じる。頭の芯ががんがんと鳴り響く。世界がぐるぐると回ってどっちが空か地面か分からなくなる。


 「メルクリオ様!」


 耳朶に響く聞きなれた声。少し気分が晴れる。


 「うーん、まあ悪くはなかったな。でもなんかこう、違うんだよなあ。まあ、燃やすぐらいはしといてやろう」


 鼻につく、卵が腐ったような臭い。私は胃の中身を盛大に吐き出した。


 「おおう……なんだよお人形さんみたいなのにちゃんと生き物ではあるんだな」


 「サルファー様!!……ここはお離れになった方がよろしいかと」


 「おお、いいねえ……じゃあ俺は楽しいキャンプファイアーとでもしゃれこもうかね」


 腐った臭いが薄まっていく。少し気分が良くなった。


 「もう大丈夫です。これが最後です。しばらくはお休みになれますよ」


 「――まだ」


 そう、まだやることがあった。


 「今は良いんです。伝令が行き来するまではまだ時間があります。だから今はゆっくりとなさってください」


 「だめなの、それじゃあ――それじゃあお母さんが……」


 私は何を口走ってるんだろう。


 「お気持ちは分かります。でも今はお休みになってください」


 確かにこれは尋常じゃない。最初の儀式ではここまではならなかった。回を重ねるごとに体の中に何かが積み重なって、私を内側から苦しめた。プリズムの中のあの歪んだ人々の顔が脳裏をよぎる。限界だった。


 「わかった。私は少し休む」


 「ええ、そうなさってください、あとは僕に任せて」


 私はその声に妙な安心感を憶えて、体が少し軽くなった。意識が遠のく。


 「おい、侍女を呼べ!!メルクリオ様をお部屋まで運ぶんだ!!」


 ユーリが私の前では見せない芯の通った声を響かせた。

 私の頭上の水面がまたしてもざわつく。でもその正体を知る前に私の意識はその深い水の中へと落ちていった。

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