15.

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 夜の森は真っ黒なインクを紙に溢したかのようにじっとりと木々を暗闇に染め上げて、走る私の顔に纏わりつき、足元を暗ませた

 ついに足元の木の根が足を捉えて、私は勢いよく地面に激突した。

 幸いなことに地面が比較的柔らかい土の上だったのと、親譲りの鋭い神経が両腕に働いて、致命的な傷を避ける事が出来た。


 「……いたい」


 私は小さくそう呟いて、受け身によって犠牲となった腕をさする。夜露に濡れて湿った土が頬を汚して、夜の冷たさを教えた。

 草葉に隠れた虫たちの蠢く音が鼓膜を揺らす。私は驚いて身を起こした。風か夜に紛れる何者かが起こした、かさかさと不規則に葉がこすれる音が、賑やかさではなく、夜の闇の不気味さと孤独を私に伝える。

 私は急に不安になって、後退りながら背を木の幹に預けたが、その木の幹にさえ何者かの気配を感じて、私はたまらずまた走り出した。


 「はあ、はあ、はあ――」


 私はどこに向かっているのだろう。木の根が今度こそ完全に私の足をからめとろうとして、その度に私はつんのめりながら、必死にその手から逃れて、足を進めた。

 私はあのサロアがいる丸太小屋に向かっていたはずだ。でもたどり着けない。場所は知っている、方角もあっているはず。でもあの森を切り開いてつくられた丸太小屋には一向にたどり着ける気がしなかった。

 夜の闇が私の喉に侵入して、息が苦しくなる。

 思えば生まれてからこれまで道に迷ったことは一度もなかった。小さい村だったのもあるけど、いつも隣にはロビンがいて、手を引いてくれていた。今、私の隣には誰もいない。ロビンもサロアも誰も……

 私の目からはついに涙が枯れて、心細さはそのままに熱情を失った体の芯が冷えて、空寒い夜の闇が指先から体全体を凍えさせていった。

 息苦しさと寒さから足が段々と重くなっていって、動かせなくなる。

 夜の墨が纏わりついて私の体を段々と染めていく。もしかしたらこのまま真っ黒に染まってしまえば息苦しさも寒さもなくなって、楽になれるのかもしれない。何故だかそれが正解に思えて、小さく笑みがこぼれた。もう頑張らなくていい。そんな気がした。

 

 ――ぽっ……ぽっ……


 あれは何だろう。火?二つの火。私は火に群がる蛾のようにうつろな目で吸い寄せられるようにそれに足を進めた。

 二つの炎の火に照らされて影絵のように人影が浮かび上がる。あの後ろ姿は――


 「……サロア?」


 「ええ、こんばんは、エレナ。こんな夜遅くに出歩いてはいけませんよ」


 二つの火に照らされた人影は私が今一番会いたい人だった。


 「――サロア……どうしてこんなところに……?というよりここはどこ……?」


 そう、ここはあの丸太小屋ではなかった。森が切り開かれ中央に二つの火が並んでいる光景はどこか神秘的で、松明に照らされ、幻想的に浮かび上がるサロアの火影も相まって、霊的な力を予知するような場所だった。


 「ここはロビンがつくった場所です。ほらこれを見てください」


 中央に佇んでいたサロアの大きな影が身を引くと、そこには三角屋根の小さな家のようなものが建っていた。

 家は木造でサロアの腰あたりほどしかなく、立てつけられている物も、両開きの扉が一つついているだけで、もちろん人が住めるほどの広さはなく、かといって物置に使うには明らかに手狭で、用途が全く不明だった。その小屋に住めるのはたぶん、おとぎ話に出てくる妖精さんぐらいしかいないだろう。


 「小さなおうち……?」


 「ええ、これは祠です。あなたたちの村にはありませんか?」


 「うん、たぶん無いと思う」


 「では、ロビンが自分で考えて、この形にしたのですね。やはりあの子には武より学の才がある」


 サロアは口元を綻ばせて、自らの弟子を褒めた。


 「――で、その祠って言うのは何なの?」

 

 今の私は少し気分が良くなかった。


 「祠というのは本来、神を祀る祭壇のようなものです。こういった木や石で造られた小さな社に神への供物や神のいた証、もしくはその象徴を祀って、神を敬ったり、祈願をしたりする簡易的な宗教施設です。でも彼はそれに似たような形でこの建物を神ではなく私の為につくりました。――ふふ、うれしいですね。もしかしたら元の祠も本来は同じような目的と意志で建てられたのかもしれませんね」


 そういうとサロアは私を手招きして、その小さな家の両開きの扉を開けた。

 私はサロアの手招きに応じて祠の前に歩を進めると、その前で膝を折ってしゃがみ、その中を覗き込んだ。

 

 「……暗くて良く見えない」


 「羊皮紙とペンです。そしてインクも」


 サロアが脇に刺さったトーチから、手持ちの燭台に火を移して、仄暗い社の中を照らした。がらんどうに思われたその中には確かにサロアの言う通り、何も書かれていない紙とペンが置かれていた。


 「ロビンによるとこの村の識字率は非常に高いようですね」


 「……?うん。この村に子供は私とロビンしかいないし、大人で読み書きが出来ない人はいないんじゃないかな」


 良くわからない単語だった気がするけど、言葉のニュアンスからサロアが何を言っているのかは理解できた。でもその質問の意味は私にはあまり理解できなかった。何故なら読み書きが出来ることは当たり前のことで、わざわざ確認するまでもないことだったからだ。


 「それは素晴らしいですね。人は歴史や叡智、心を書に書き止め、それを他の誰かが読み解いてまた書を仕上げる。そうして人は進化していくのです。その技術を受け継いだ幸運を大切にしないといけません」


 「うーん、そうかな……サロアが言うならそうかも」


 「ごめんなさい、話がそれましたね……この紙とペンは村の診療所――つまりあなたのお父さんですね――でも対処しきれなかった患者の為にあるものです。患者はこの紙に病状を記入し、それを読んだ私が薬を作り、この祠の中に入れます。――ええ、もちろん患者が直接私かロビンに病状を伝えれば済む話です。しかしこの村にとって未だ私は脅威で、いくら病気を治せると評判があったところで、社会的には、直接接触を持つことはそれ以上のリスクがあります」


 「……そんな人たち放っておけばいいのに」


 なんだか私はそのことに無性に腹が立った。サロアにそんな酷い扱いをしておいて、自分だけ助かろうとするなんて……


 「いえ、私が望んだことです。私はあなたたちだけでなく、村の人たちとも関わりを持ちたかった。人は人と繋がってこそ生きていけるのです。時にはそのためには役割と立場が必要になることもあります」


 サロアが更に近づいて、私の隣にしゃがみこんだ。サロアのあの、ハーブのような優しく清潔な香りが鼻腔をくすぐって、私はどきりとした。


 「ロビンはそんな私の気持ちを汲み取って、この仕組みをつくりました。こういった仕組みならば双方に過度な負担を掛けずにゆっくりと、生活に馴染んで行けると考えたのでしょうね」


 「……そんなの上手く行きっこないよ」


 私の心は渇いて、ざらざらしていた。ざらざらと渇いた砂をため込んだ喉からはそんな言葉しか出てこなかった。会いたい人に会えて、こうして時間を共有できているのに心はちっとも満たされていなかった。


 「ええ、仕組みというのはつくっただけでは意味がありません。それを使う人があって初めて成り立つものです――ロビンはその為にいろんな人とお話をしました。例えばそう、あなたのお父さんとか」


 「ロビンがお父さんと……?」


 全然気づかなかった。


 「ええ、この仕組みにはいくつか欠陥があります。その一つは私が直接患者を診察できない事。薬を処方するには医師の診断が必ず必要になります。確かにあなたのお父さんは医師としては未熟かもしれません――」


 「――そんな事はっ……ないんじゃないかな」


 自分の頬が赤く染まるのを感じる。とっさに自分の口から出た言葉に自分自身で困惑して、その自分の言葉に勝手に気恥ずかしくなっていた。


 「ふふ、ごめんなさい、その通りですね。彼はれっきとした医師です。医療の心得も診断の作法も師に叩き込まれている事が良くわかります。彼の診断であれば信用できるでしょう――当初私は彼に接触して、彼の診断に沿った薬を調合して、彼に渡すことで自らの役目を果たそうとしました。でもロビンの方が一枚上手でしたね。それでは私の存在が表に出ないし、逆に秘密裏に薬を横流ししてそのことが村の皆に明るみになれば、あなたのお父さんは医師としての信用を失って、更にこの村の医療環境は悪化するでしょう。薬の性質が変わればわかる人にはわかるんです」


 「――――……」


 この数か月の間、私の知らないところでそんなことが行われていたなんて……私は自分の事しか考えてなかった。私はどうしたらサロアの弟子になれるのかとかそんな事しか考えられなかった。


 「他にも自分のお父さんにここの噂を流すのを手伝ってもらったり、重傷を負ったカロル君やそのお世話をしている、ソフィアさんにこのことを伝えて実際に運用してみたり……まあ、まだ利用者はそのカロル君とソフィアさんだけなのですが、彼の傷がいつもより早く治れば、もしかしたらロビンの目論見は上手く行くかもしれませんね」


 彼女は微笑みながらそう話を締め括った。

 ロビンはこんなにも努力して、彼なりに叶わないかもしれない理想を実現しようとしている。私は自分の理想を叶えるためにどんなことをしただろうか。私は逃げてばかりだ。ロビンとのことだって、剣の修行だって、さっきまでのお父さんとの喧嘩だって、いつも逃げて成り行きに任せて、考えない様にしてた。でも――


 「わかりませんか?自分がどうなりたいのか、何をすればいいのか」


 サロアの長い純白のまつ毛の下にある灰色の瞳は優しく問いかけて、私はまた涙が零れそうになった。


 「でも時間です。お迎えが来ましたよ、エレナ」


 そういうと間近にあったサロアの顔が離れて、立ち上がった彼女はそのまま振り返ると、いつの間にか入り口に佇んでいた何者かに視線を移した。


 「ごめんなさい、サロアさん、私の娘が迷惑をかけて」


 「いいえ、カレンさん、私も寝入る前に楽しい時間が過ごせました」


 「……お母さん」


 私も立ち上がって振り返る。


 「さあ、帰るわよエレナ。それとも帰るのが嫌ならここで野宿でもしてく?そろそろ野宿のやり方も覚えた方が良いわ。初心者は夏の方が良いのよ。虫が多いけど死ぬよりましだから」


 今は夏というにはまだ早く、凍死する可能性は十分考えられたけど、これがお母さんなりの優しさなのはなんとなく分かった。でも、その気の使い方はやっぱりおかしい。


 「エレナ、やり方なんてロビンみたいにごちゃごちゃしてなくて良いんです。大切なのは自分の心をきちんと調べる事。あなたが出来ることを自分で考えて、あなたなりのやり方で全力で向き合うことが大事なんです」


 サロアは私にだけ聞こえるぐらいの声でそう耳元でささやいた。


 「うん」


 私もサロアだけに聞こえるぐらいの声でそう呟くと、


 「ううん、私、帰る。野宿のやり方はまた今度教えて」


 少し距離が離れたお母さんにも声が届くように少し大きな声でそういった。

 サロアの隣を離れて、歩き出す。今の私には帰る家があった。




 ――――――………




 天候は晴れ。絶好の決闘日和。準備は万端。相手に不足なし。

 

 「ロビン、今日は絶対負けないから……!」


 木剣を正眼に構え、強敵を見据える。


 「お、お手柔らかに頼むよ」


 でもなんだが相手は自信がなさそう。


 「では私が『はじめ』と言ったら勝負を始めてください。時間内により多く有効打が取れた方の勝利です。判定は私と隣のカレンさんが務めます」


 「二人とも正々堂々、全力で頑張るのよ!エレナ、私はあなたに勝ってほしいけど、審判でずるはしないわ。誰が見ても勝ちといえる試合にしなさい」


 「うん!」


 私はあれからいろいろなことを考えて自分のこころにいろいろなことを聞いた。

 そして私は結局、逃げた先に答えがあると、そう思った。たぶん正しくない。でも自分なりのやり方がそうだった。


 ――お父さん……!今度の模擬戦、必ず見にきて!私、頑張ったから!私、強くなったから……!


 久しぶりに娘から話しかけられて、唐突にそんな事を言い出す娘に、お父さんはたぶん困惑したに違いない。でも私にはこれくらいしか出来ないから、決闘の約束とは関係なく、ただ自分の事を見てもらって、自分の事を伝えたかった。

 今日この場にお父さんの姿は見えない。でも感じる。お父さんはここで私を見てる。

 

 「それでは――よーい……はじめ!」


 私は見せるだけ。私の精一杯の覚悟を――

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