14.

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 「エレナ、お父さんショックだぞ」


 俺は衝撃を受けていた、まさか


 「グラタンが苦手だったなんて……」


 「うん、言い出せなくてごめんなさい」


 「そうか、お父さんがお母さんのグラタン大好きだから我慢してくれてたんだな」


 「……うん」


  そうか……そうだよな……普通の子供は食べ物の好き嫌いがある。だがエレナは出されたものはなんでも食べたし、それについての感想も大体が「うん、美味しい」で、食物に対しての強い主張をした記憶が無かった。


 「じゃあ、食べ物は何が好きなんだい?」


 そこそこ大きくなった娘に実の父親がする質問ではなかった。なかったが、そうしない訳にはいかなかった。


 「うーん……りんご……かな?」


 エレナは目線を上にやって、何かを思い出す様にそう答えた。

 そうか、りんごか……りんご、グラタンとは真逆の食味だな……


 「そうか、なら今度持ってきてやる。まだ貯蔵庫に残ってたはずだから」


 「ううん、そこまでしなくても良いよ……」


 エレナは首をふるふる横に振ってその提案を拒否した。その所作は単に遠慮しているというよりも、本当に要らないと思っているような所作で、俺には娘の言っていることがどこからどこまでが本当の事なのかわからなかった。


 「なら、いいが……他にも欲しいものがあるならお父さんに言うんだぞ」


 「……うん」


 本当はこの先の話題を切り出したくない。しかし、彼女の服の下にはカレンに負わされた傷があるはずで、医者として、それ以前に父親としてここで立ち止まる訳にはいかなかった。


 「じゃあ、痛い所、見せなさい」


 「…………」


 エレナは黙って服をまくると罰が悪そうに視線をそらした。

 自らの顔の皺が険しく寄っていくのを感じる。


 「…………」


 無言でエレナの傷を検めていく。

 ざっと調べたところで腕と腹部に青あざが一か所ずつ、膝に擦り傷が一か所。いずれも軽傷で顔にも外傷は無かったため、カレンが気を使っていたのは間違いないだろうが、やはりこれはやりすぎだ。

 それを見て俺は、それらの傷に治療薬としてオトギリソウのしぼり汁を使った軟膏を塗りこんでいく。

 エレナは患部に軟膏が塗られるたびに、痛みで息を漏らしたが、一度も声をあげることは無かった。


 「他に痛いところはないか?」


 俺は努めて優しい声音を出そうとはしていたが、言葉の端々に角が立ってしまうのを避けることが出来なかった。


 「ううん」


 エレナは首を振った。たぶん嘘だ。

 腹部の痣が出来ていない方の脇腹を軽く小突く。


 「いたいっ」


 「ふん、正直に言わんからこうなる」


 似てる。カレンの娘だ。初めてそう思った。


 「他にあるだろ?正直に言いなさい」


 「……こことここ」


 エレナが示した場所に同じように塗りこんでいく。

 心を無にして黙々と作業を進める。お互いに言葉はなく、部屋には痛みの反応で軋む、椅子と床板の音と、時折エレナの口元から漏れる苦痛の吐息だけが響いた。


 「――はあ……」


 すべての治療が終わった後、俺は大きくため息をついた。


 「エレナ、お父さんはお前が強くなりたいと思ってることも、そのために修行してこうして傷だらけで帰ってくることも――お父さん的には嫌だけど、本当に嫌だけど――お前が本当に望んでいることなら、許すし、否定もせん」


 「お父さん……!」


 「ただし!……ただし、例え模擬戦でロビンに勝ったとしても、あの旅人の弟子になることは俺が許さん」


 「お父さん……?どうして……?」


 「どうしても、こうしてもない。駄目なものは駄目だ。今のままでも十分だろ?時折仕事終わりに会いに行く、それだけで良いじゃないか。それぐらいだったお父さんも許してやる」


 「お父さん、知ってたんだ……」


 「ああ……もっとよく考えるんだ。もう考えられない年じゃないだろう。それぞれにはそれぞれの居場所がある。そうやって人間は生きていくんだ」


 エレナは俯いて俺の言葉を聞いていた。その表情は陰になって見えない。


 「――わかんないよ……」


 少しの沈黙の後、エレナはそう呟いた。俯いた表情の奥で肩が震えている。


 「エレナ――」


 「私にはわかんない!」


 顔を振り上げたエレナの瞳には大粒の涙が浮かんでいた。

 

 「どうして?みんな見えない、本当じゃないものばっか見て、縛られて、わけわかんない事ばっか言って……こんなの、おかしいよ……お父さんはここが私の居場所だって言うの?……そんなわけない……こんな場所が私の居場所なわけないよ……!」


 俺は何も言い返せなかった。突然の感情の発露に俺は戸惑って、伝えるべき思いも言うべき言葉もわからなかった。そんな俺をエレナは見限って、診療所の椅子から立ち上がると扉をばんと大きな音を立てて開けるとそのまま走り去ってしまった。

 俺はエレナを追いかけることもできず、椅子に座ってうなだれた。

 初めての経験だった。そして、自分が親として、大人として、未熟であることを思い知らされた。


 「トマス、やっぱあんた最低ね」


 エレナが走り去った扉の影から、過去に何度も聞き馴染んだ、自らを蔑む言葉が聞こえてきた。今日ばかりは浮ついた気分になれない。


 「ああ、さすが良く分かってるなカレン」


 「そりゃそうよ、何年一緒に居ると思ってるのよ」


 カレンが扉の影から姿を現した。


 「で、あんたの妻である私も最低」


 彼女の顔は後悔の念で歪んでいた。


 「ああ、あれはやりすぎだ。痣になってたぞ」


 俺の顔もきっと同じような顔をしているに違いない。


 「そうね、私も反省してるわ。でもあなたも気付いてるでしょ?もっと最低なのはあの娘に正面からぶつかってあげられなかったあの娘の両親よ」


 そう、こうなってしまったのは俺たち二人の責任だった。俺たちは彼女に嫌われない様に、彼女の内なる神秘を刺激しない様に、失うことを恐れて彼女をほったらかしにしてしまった。俺たちが大切にしていたのは、彼女の心じゃなくて、彼女を失いたくないという自らの心だった。


 「ああ、だから今からでもやるしかないんだ。あの娘を本当に失う前に」


 たとえ娘に嫌われようと彼女の未来を守る。ここ最近の村と自らを取り巻く一連の出来事は、その覚悟をより大きく、そして頑なにさせていた。

 その言葉を聞いたカレンは悲しみと後悔と罪悪感、そして覚悟のこもった複雑な表情をして大きく息を吐いた。そして目をつむると一言一言噛みしめるように言葉を選んで紡いでいった。


 「そう、あなたはそう思うのね……私は……私は、例えエレナが自分自身の選択で後悔するとしても私はエレナに好きに、自由に生きてもらいたい。きっと私だったらそうしたいし、例え後悔の感情があったとしてもあの時の思い出は本物だったって思えるから」


 最後の言葉で目を開き、真っすぐに俺を貫くその瞳は、在りし日の彼女そのままの若さで、その青さは今の俺にはあまりにも自分本位で無鉄砲に聞こえた。だが――


 「そうか、お前が言うんだったらそうなんだろうな、あの娘はお前に良く似ている」


 「そうね、私も最近それに気づいたわ」


 「――――……」


 「――――……」


 部屋に沈黙が流れた。診療所のつんと来る薬品の匂いが鼻をついた。


 「平行線ね」


 「ああ」


 俺はカレンに背を向けて先ほど娘の治療に使った薬草類を整理するふりをした。


 「さっきの会話を聞いていただろう?俺の意見は変わらん。俺はお前が昔から嫌っていた、つまらない大人になっちまったんだ。自分の居場所で家族が平穏に暮らせればそれでいい、そう思うようになっちまったんだ」


 「本当につまんないわね……でも昔ほどそういう人、嫌いになれないわ」


 カレンはそういうとエレナが先ほどそうしたように扉の外に出て、診療所の廊下を駆けていった。恐らくエレナを探しに行ったのだろう。

 俺は間違っているだろうか。少なくとも村の状況やあの旅人の危険性を鑑みれば決して間違いではないだろう。

 でも俺は親としては、ずっと間違え続けていた。

 俺はロビンのようにエレナに手を差し伸べることが出来なかった。親としては悔しいが、エレナにとってロビンの存在はきっと親よりも大きいものだろう。

 そしてあの旅人、サロアはもうすでにエレナの中で大きな存在になりつつあった。

 きっとサロアはエレナの全てを変える。

 あの森の中で脳裏に焼き付いた彼女の“死体”――

 きっと彼女は善人だ。でも彼女は人では無い。森で生きる猛獣が人と同じ時を過ごすことが出来ない様に、彼女もまた人と同じ道を歩むことは出来ないだろう。見かけは同じ人のようであっても、あの森の中で見た、彼女のあまりにも美しい臓器とその神秘は、やはり人が持つものではなかった。

 エレナもまた神秘をその内に秘めている。エレナとサロアが出会ったのは決して偶然では無く、神が巡り合わせた奇跡なのだろう。

 彼女は娘の全てを変える。そして俺たちから、人から、娘の全てを奪い去って、遠いところに連れて行ってしまうだろう。俺にはそんな確信があった。

 エレナはまだ人だ。人と同じ道を歩めるのなら、きっとそれなりの幸福を得られるだろう。しかし人の道を外れればその道はきっと、想像も出来ない程過酷なものになるだろう。森の中でのイオリアとサロアの会話には、彼女が歩む過酷な道の一端が垣間見えた。

 俺はエレナにとっては自らを縛る煩わしい枷なのだろう。だが俺は彼女にそんな過酷な運命を歩ませたくはなかったし、何より俺自身が未だ彼女を失うことを恐れていた。

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