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11.


 私はどうしても鳴ってしまう古びた床板の音を恨みながら、この狭い廊下を歩いていた。 時刻は昼下がり、昼食も終わって皆仕事に帰って、家主も最近は忙しそうにしているから恐らく帰ってくることはないだろう。

 出来るだけ床板を鳴らさない様にするすると歩いて目的の扉の前に立った。

 ノックもせずに扉を開けて、そのまま後ろ手に扉を閉める。


 「久しぶりね」


 私の挨拶に部屋の窓際で外の景色を眺めている人影は何の反応も示さなかった。


 「ねえ、最近おかしなことになってるの、あなたは知ってる?」


 私は構わず一方的な会話を続ける。


 「まあ、知ってるわよね。あんたの旦那最近ちょっとやばいもん。前からちょっとやばめだったけど、最近はちょっとひどいわね。あーあ、昔はあんなんじゃなかっただけどな」


 私が軽口を叩いても彼女はなんの反応も示さない。昔だったら旦那の悪口を言おうものなら、そのかわいらしい口を膨らまして、必死に旦那をかばっていたことだろう。


 「私よりも弱いくせに……」


 いつからだろう、彼女が私より強くなってしまったのは。たぶん彼女が本当の恋を知って、その結晶が実を結んだあたりだろうか。私はそれを見て自分がどれだけ弱い存在なのか思い知った。でも、それでも私は幸せだった。彼女の幸福が私の幸せだった。

 はあ、と私は大きなため息をついて、部屋の隅に置かれた化粧台に近づいて、その中身を漁った。


 「あった……そりゃそうよね」


 目的の物はちゃんと見つかった。それを手に持って窓際の彼女に歩み寄ると、懐から櫛を取り出した。


 「今日は久しぶりにあなたの髪を結びに来たわよ。ずっと家に居てもおしゃれは大切でしょ。なんせあなたが見せたい相手は家にいるんだもの」


 彼女と私の時間はあの時から止まったままだった。

 まずは髪を梳くために、手に持っていた化粧台から取り出したものを、脇の机に置く。化粧台から取り出したものは、サギュリティアの花を模した髪飾りだった。かなり古いもので損傷も激しかったが、度重なる補修がされていて、まだ髪飾りとして使えないこともなかった。

 手に持った櫛で彼女の髪を梳いていく。彼女の髪は櫛を入れるまでも無くさらさらで、その艶は在りし日のままだった。彼が毎日手入れをしているのかそれとも、もう痛むことすらないのか――

 それでも彼女の髪に櫛を入れながら物思いに耽る。

 彼女がこんな状態になった原因は誰にも分っていなかった。たぶんあの憎き魔術師に何かされた事は間違いないだろうが、エルフですらこの症状に心当たりがないようだったから――あの信用できないエルフどもの言ってることが嘘でないのならばだが――私たちにどうにか出来るものでもないのだろう。

 “彼女”に診せれば、何か進展があるだろうか。狩猟小屋で見た、あの冷たく、人には推し量ることが出来ない美しい作り物の様な顔が脳裏に浮かんだ。

 あの底知れない灰色の瞳の奥からならば何か新しい情報を得られるかもしれないが、それを実現するのはもっと長い時間と理解が必要かもしれなかった。

 櫛を入れながら耳を澄まして、彼女の息遣いを感じる。

 息もしているし、心臓も動いている、そして彼女はこの体で子供を産み、命も繋いだ。でも私には分かる――狩猟で多くの命を奪ってきた私にはわかる――彼女の魂はもうここには無いことが――

 私は彼女の髪を梳くのをやめて、三つ編みを作り始める事にした。

 方法はあの狩猟小屋でエレナがやっていたのと同じ。というより私はこのやり方しか知らない。だからエレナもこのやり方しか知らない。

 アイリスは――彼女は本当にいろいろな方法を知っていた。私は彼女からいろいろ教えてもらったけど、その時の私は全く興味がなかったし、何よりそうして彼女が得意げに教えてくれるその顔が私は好きだったから、覚える気がそもそもなかった。今では少し後悔している。狩猟小屋でエレナの髪を結ぶサロアを見て少し。

 結び終わった私は最後の仕上げにあのサギュリティアの花の髪飾りをまいた。


 「うん、良いわね。やっぱりあなたが一番似合うわ」


 あの包みの中に紛れていた髪飾りは恐らく彼が作って忍び込ませたものだろう、一体何を考えてるのか……


 「うーん、やっぱり似てはいないわね」


 後ろから首を回して逆さまに彼女の顔を見る。やっぱり似てない。

 そもそもあんな絶世の美女と幼馴染の顔が似ていたら、こんなに長い間友達として居続けていられたか自信がない。

 でも似てると思った。彼の言う通り、彼女の娘である可能性も完全には否定できないかもしれない。


 ――あなたはあなたの言葉で話してください。私は大丈夫ですから


 「ああ、だめだめ、私は、私だけはちゃんとしなくちゃ」


 それはかつての彼女の言葉だった。そんなに珍しい言い回しではないが、どこかが似ていた。

 気を紛らわす様に、目をそらして窓の外を見た。自分が家庭菜園で育てているカモミールの蕾が見えた。

 あのハーブティー……ありふれた香りでありつつもどこか懐かしい香りがした。

 目を閉じる。彼女もお茶づくりが趣味だった。実家でもトマスの家に薬草として納品するためにカモミールを栽培していた。だからあの香りは故郷の香りであり、私たちの思い出の香りだった。

 そして、ブレンドの中には彼女の思い出の味があった。今では誰も作ることが出来ないはずの……

 これは偶然だろうか……

 私は幼いころから、狩りの修行で、一度失った命が帰ってこない事は嫌になるほど叩き込まれていた。それを理解せずに命を奪うことをしてはいけないと。

 “彼女”は一度失った命を取り戻した。私は確かに見た。“彼女”が大熊の凶爪で貫かれ、血の海の中で倒れているのを。そこに命は無かった。

 私は後ろから彼女を抱きしめて、その体温を、息遣いを、鼓動を確かめた。生きている。でも彼女はここにいない。

 頭がおかしくなりそうだった。これは自然の摂理に反している。もしこれがこの世界の理の内にあるのなら、人間は正気ではいられなくなるだろう。

 みんなみんな、おかしくなってる。私を含めて。

 私が何とかしなくちゃいけない。

 彼女にとって、そして私たちにとって、今一番必要な事――

 私は身を起こすと、手をそのままアイリスの首筋に持って行って両方の手のひらでその細い首を掴んだ。このまま力を入れればアイリスの息の根は止まって、彼女の体はその魂と同じ場所に行ける。そして私たちはやっとこの娘から解放される。


 「――――……」



 手のひらに伝わる熱に彼女の呼吸と血潮のうねりを感じる――


 私は力を抜いてそのか細い首筋から手を離した。やっぱり私にはそんなことは出来なかった。私の一番大切なもの。きらきら輝いて透き通る泉の水のような綺麗な思い出。それが自分たちにとって今一番必要な事だったとしても私には出来なかった。


 ――ごめんね。ごめんなさいね、アイリス……


 私は声も無く泣き崩れた。

 そうだ、彼女は何も悪くない。悪いのは残された私達だ。

 勝手に人に似せて、勝手におかしくなって、死人に縋って、でもそれしか無くて――

 あのブレンドはアイリスのものとは全く違った。ブレンドの中に彼女の一かけらがあっただけだった。たぶんそれが正解なのだと私は直感した。


 「――――……」


 頭上にある、ここではないどこかを見つめる彼女の横顔は何も語らない。

 

 私は涙を拭って立ち上がると、彼女の頬に手のひらを重ねて「また来るわね」と言って、部屋を後にした。彼女の頬は暖かく、その造形はこの世界の何よりも美しかった。

 ぎいぎい鳴る床板の音を聞きながら、来た時と同じ道をたどる。

 彼女を殺める必要があるのは恐らく本当だった。

 たぶん彼女の魂はここには無く、もう一生目覚めることはない。もし彼女の体が魔術師の卑劣な魔術によって今もなお苦しめられているのだとしたら、一刻も早くその魔の手から解放して、永遠の安らぎを与えてやるべきだろう。

 

――ごめんね


 でも私たちには出来なかった。出来ずにこうして、亡霊に魂を囚われて幻影を見続けている。

 “彼女”は恐らく彼女ではないし、その娘でもない。それこそ、彼の息子が言う虚像だった。

 あの日私は“彼女”と言葉を交わして、同じ時を過ごして、少しだけその心に触れた。“彼女”は――サロアは誰でもない、一人の人間だと私は思った。

 彼ら親子が見る虚像は全く違う形をしている。

 その差異はどれくらい現実に影響してくるのだろう。もしかしたらその虚像たちは共存して、現実には何の影響も及ぼさないかもしれない。でもそれで彼らは幸福なのだろうか。同じ幸福を望みつつ、その実は決定的な差異がある。そしてそのずれはいずれ、彼らの関係に修復不可能な傷を残すかもしれない。


 ――――アイリス、私、どうしたらいいんだろう


 家を出た私は彼女が未だ取り残されている二階の部屋の窓を見上げた。

 私は弱い。自分の娘の面倒すらろくに見られない私が、彼女が残したものを守れるんだろうか。

 自信がない。でも残された私たちには彼女の為に幸福になる義務があった。

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