10.5
またしても沈黙が流れた。すでにカップの中の茶は冷めてぬるくなっていることは間違いなかったが、それまでの緊張感から誰もそれに手を伸ばすことが出来なかった。
「あの」
その重たい空気の中で一番最初に口を開いたのは、今まで押し黙っていたエレナだった。
「私にはよくわからなかったけど、その……サロアとロビンは……えっと、結婚するってこと……?」
さすがはエレナだった。理解は出来ていなくても、あらゆる過程をすっ飛ばして、最も正解に近い答えに辿り着いていた。いや、ある意味生贄と婚約は同じ事なのかもしれなかった。
「いえ、私にロビンとの婚約の意志はありませんし、将来どなたともそういった関係になるつもりはありません」
「ふーん、そうなんだ……良かった……?いや良くないかも……?」
エレナのあまりにも突拍子もない質問に、サロアは顔色一つ変えないどころか、一つのよどみも無くそう言葉を返して、その全てを否定した。
エレナはその言葉を受けて、安心したようながっかりしたような複雑な顔をしてそう返した。後半の言葉は小さくて聞き取れなかったが、なんとなく納得いっていないような顔がその複雑な感情を表していた。もしかしたら自分も同じような表情をしているのかもしれない。
「もう!あんたたちは無駄なことをぐちゃぐちゃ考えすぎなのよ。ガキはガキらしく毎日テキトーにげらげら笑って走りこけてりゃ良いの!」
またしても押し黙ってしまった俺たちを見かねたのか、自分たちのせいでこんなことになっていることは棚に上げて、酒をあおるように、やけ気味にカップの中身を飲み干しながら、カレンはそう言い放った。その品性のかけらもない言動に、どっちが子供なんだよと言いたくはなったが、カレンが俺たちに伝えたいことは言葉通りの意味ではないことはなんとなく分かってしまったから、それを口に出すことは出来なかった。きっとこういうところが彼女の気に入らないところなのだろう。自分でも嫌味なガキだと思う。
「……失礼。わたくしとしても婚約云々の話は時期そうしょ――尚早だと思いましたので……」
サロアの若干冷ややかな視線を感じたカレンは今更ながらも取り繕おうと、何とかその言葉をひねり出したが、しっかりと途中の台詞を噛んで台無しにしていた。
「そんなことはともかく!サロアさん!そちらの包みを開けて見てくださいな。気に入るかはわからないけど、今よりはましだと思って持ってきたの」
そのまま誰も何も言わないと、カレンは焦ったように語気を強めて無理やり話を続けると、先ほど書巻と一緒にサロアに差し出した包みを指さして開けるよう促した。
「ふふ、許しましょう。安心してください、言葉なんて伝わればいいんですから――ではお言葉に甘えて頂きます――えっと……これは服ですか?」
俺はきゅっと自分の心臓が縮みあがるのを感じた。しかしサロアが手に持つ衣服はエレナやカレンが普段着るような一般的な衣服のようで、あの森の中で出会って、未だにポケットの中にある生き物とはどうやら全くの別物であるようだった。
「ええ、そうよ。もっと早くに渡せればよかったのに……ごめんなさいね」
サロアの今の服は恐らくあの時エレナが手渡したトマスの服を手直ししたものだった。継ぎ接ぎだらけのその服は丁寧な補修がなされていて、最低限人前にさらされても一つの衣装として堪え得るものではあったが、さすがにみすぼらしさが勝り、彼女の美貌とのギャップで更にそれは強調されて見えた。
「いえ、そんな、ただでさえもう一着頂いているのに、無理は言えません……でも嬉しいです。とっても」
「それならよかったわ。でももしかしたらサイズが合わないかもしれないわ。女性もので一番サイズが大きいものを持ってきたのだけれど……」
「じゃあ、じゃあ、今ここで着てみてもらおうよ」
カレンが少し困ったようにそういうと、少し興奮気味のエレナが少し被り気味に割り込んだ。
「そうね。申し訳ないけど、それ、一回着てみてくれるかしら」
「ええ、もちろん喜んで」
サロアはそういうと、包みに衣服を戻してそれを抱えると、階段を上って二階に消えていった。
俺はサロアが二階に上がっていったのを見届けて改めて胸を撫で下ろした。どうしてさっきまでこの布片の事を忘れられていたのだろう。彼女は本当に化け物かもしれないのに、生贄に出されたのは事実だったのに、あの時はそんな事よりも彼女の心の中の方が気になっていた――
「楽しみだね、ロビン……ロビン?」
「……ああ、サロアだったらどんな服でも似合うさ」
「……?そうだね、私とっても楽しみ」
絶妙に噛み合っているようないないような会話になってしまった気がしたが、さすがにそれだけでポケットの中のものに感づかれることはないだろう。
「そういえば、さっきはあまりよく見えなかったけど、どんな服だったの」
「えーと――」
「だいたいあなたと同じような服よ、エレナ」
怪しまれない様に思い付きで繋いだ会話は、横からカレンが割って入ったことによってあっさり答えが得られた。それはそうだろう、あの服を選んだのはカレン以外いないだろうから。
「といってもそうなると、私が着ているものともほとんど同じって事になるけどね。うちの村じゃまともに服作れるのなんて何人もいないし、大きいサイズってなればなおさらね。たまたま誰も使ってない服が見つかって助かったわ。ほら、ブラウンさん家の奥さん、少し大柄じゃない?新しく服作るってなった時に採寸を間違えて更に大きく作っちゃったみたいなの。でも捨てるのは勿体無いから、唯一可能性があるエレナにってくれたの。もらった時はこんなの着れるぐらいでかくなるわけないじゃないって思ったけど、念のため取っておいてよかったわ。そうじゃなきゃまたお父さんの服持ってこなきゃいけなかったもの」
確かにサロアぐらいの背丈になってるエレナはどうにも想像できなかった。想像したら少し笑えて来た。
「ロビン……?今絶対おかしなこと考えてるでしょ?」
「そんなことはないよ……ふっ……エレナはどんな姿になってもエレナだからね」
「もう……ロビンなんてきらい」
「ああ、ごめんごめん。エレナは世界一かわいいよ。今も、きっと将来も。俺が保証する」
「んー……本当?」
「うん、本当」
「……なら許す」
とエレナはかわいらしく頬を膨らませながらも、哀れな子羊に許しを与えた。
視線を感じて振り向くと、カレンがそれこそはちみつを入れすぎたハーブティーを飲んだ時のような顔をしていた。
「……いや、やっぱおかしいでしょ、これ……やっぱり育て方を間違えたのかしら……」
よくわからないけどカレンが首を傾げながら何やらぶつぶつと呟いていたが、これはいつもの事なので、あまり気にしなくていいだろう。
ふと、また部屋の中を爽やかな空気が流れた気がした。その中にはさっき飲んだハーブティーの薬草のようなそれでいて優しくほんのり甘く漂う香りが混じっていた気がする。
二階から床板が軋む音が聞こえ、サロアが階段を下りてくる。本来なら耳障りな、古くなった木材があげる悲鳴も、今は新たな衣装を引き立てる演出となっていた。
天界からの階段を舞い降りる様に、古い木の階段をしずしずと降りてくるサロアの衣装は、さっきカレンが言っていたように普通の村娘が着るような、紺を基調としたコルセットワンピースに、白のブラウスを合わせた一般的な衣装だった。幸いなことに色合い的には、今カレンが着ている赤やエレナが着ている緑を基調としたコーディネートよりはサロアに合ったものになっていたが、さすがに普通の村娘が着るような服では彼女の美貌に釣り合うような代物ではなかった。しかしスカートの裾やブラウスの袖口についたフリルや、腰元を引き締めるリボン、肩口のケープなどが彼女の少し大き目な体格を緩和し、より女性らしく仕上げられていて、先ほどのぼろぼろのトマスの服よりかは、十二分に彼女の魅力を引き出していた。その証拠に俺はエレナが思わず鼻息荒くつぶやいた「これもいい……」という台詞を聞き逃さなかった。
階段を下りきったサロアは長机の前まで出て来て、少しおどけたように
「どうでしょう」
といった。動きに合わせて、サギュリティアの花の意匠をかたどった髪留めで結んだ長い髪が揺れた。
「!?……その髪飾り――」
「うん、似合ってるよ。かわいいよ!」
カレンが何やら呟いた気がするが、エレナが口の前で手を合わせながら、目を輝かせてサロアを褒める声に遮られて良く聞こえなかった。
「似合ってるよ。サロア」
「……ええ、似合ってるわ。でもやっぱりちょっと丈が短かったかしら。でもそれはそれでかわいいわよ」
俺の淡泊な感想の後に少し遅れてカレンが感想を述べた。確かに少し丈が短い気がしたがそういうデザインだと言われれば不自然さはないような気がする。
「ねえ、その髪飾りもかわいいね!」
そういいながらエレナは席を立って、サロアの後ろに回り込んだ。
「そうですね。これはサギュリティアの花ですね。私もとっても好きなお花です」
サロアは髪飾りに触れながら首を傾げて、自らでは見えないていないはずのその花びらを思い起こす様に微笑んだ。確かにその真っ白で優雅に咲いた花びらはサロアのきらきらと輝く銀髪の中でも映えて、花びらの根元を飾る薄い黄色の着色が、彼女の無機質な色彩に彩を与えていた。
「あ、そうだ!サロア、もし良かったら私に髪を結びなおさせてくれない?」
とエレナがサロアに問いかけると、彼女は「ええ」と一拍置いた後に「もちろん」と言って笑顔をつくると、エレナがやりやすいように、椅子を持ってきてそこに座り、頭の後ろで一つに結んだ髪をかきあげた。
エレナは「ありがとう」と満面の笑みで言って、その髪留めに手を掛け、ほどいた。
サロアの綺麗な銀髪がふわりと広がる。隣でカレンがはっと息を飲んだ。
「うわあ、さらさら」
エレナは何度も濾した小麦のように、淀みなくさらさらと流れるその髪に触れてそう呟いた。
「うーんどうしようかな……」
エレナはそういいながら、名残惜しむようにその髪に手櫛を入れ、しばし思案していたが、心を決めるとその長い髪を三つ編みに仕上げていった。
エレナはサロアの長くて艶やかな髪を綺麗に一つにまとめ上げていく。エレナは長くて癖のない真っすぐの髪をあまりきつすぎないゆったりとした一つの三つ編みでまとめ上げる方針にしたようだった。一つ一つ丁寧に編み上げて、やがて毛先まで編み終わると、その先に自らが持っていたリボンを結んで、先ほどの髪留めを、少し広がった三つ編みの根元をまとめる様に優しくまいた。
まとめ終わったサロアは更に村娘らしく、そして少し幼くみえた。
「ふふ、ありがとうございます。似合ってますか?」
サロアはエレナに礼を言うと、机に座る俺たちの方を向いて、編んでもらった三つ編みを持ちながら自慢するようにそういった。ぼおと二人の成り行きを眺めていた俺は突然話を振られて、少しどぎまぎしてしまった。
「……うん似合ってるよ」
さっきから感想が淡泊になっていけない。
「ええ、似合ってるわ」
でも隣のカレンも同じようなものだったから、すこし誤魔化せたかもしれない。
「お礼に私もあなたの髪を編ませてください」
サロアの言葉にエレナは一瞬顔を輝かせたが、
「もちろん!……と言いたいところだけど今日はいいかな」
と意外なことにエレナは気まずそうに自らの毛先を見ながらそういって、その申し出を断った。よく考えれば無理もなかった。エレナは最近寝込んでいたこともあってか、その少し色素の薄い栗色の髪は、今では少し髪が痛んでぼさぼさになっていた。今日の様子じゃ朝に髪の手入れなどしてきてはいないだろう。
「うーん、そうですね――」
「それならこれを使いなさい」
いつの間にか隣に座っていたカレンが席を立って、片手に持った何かをサロアに渡していた。
「もう、お母さん、そんなものがあるならもっと早く教えてよ」
それは動物の骨を削って作られた櫛だった。造りは精巧で、作り手の几帳面さが表れていた。
「ありがとうございます。エレナの髪質なら、これで少し梳けば編めるようになると思います」
「いいのよ。でもそれは後から返してね。大切なものだから」
「ええ、もちろんです。では改めて……いかがでしょうお嬢様。きっと綺麗になりますよ」
「そう……かな……えへへ、じゃあ、お願いしようかな」
自分のぼさぼさの頭を見られることに若干の躊躇いがあったものの、サロアにお嬢様と呼ばれ、更に髪まで編んでもらえるのだから、さすがにその誘惑には勝てなかったようだ。
サロアは部屋にあった一番背の高い椅子にエレナを座らせると、エレナの髪をあまり強く引っ張りすぎない様に気を付けながら、丁寧に櫛を入れていった。
「サロアの髪が羨ましい……だって櫛なんかしなくてもあんなにさらさらなんだもん」
「いえ……私はエレナの髪の方が羨ましいです……だってこれはちゃんと生きているから……」
「サロア……?」
エレナの少し突っ張った髪を指先に乗せながら言うサロアの言葉は、少し暗い音を含んでいて、それが単なるお世辞ではないことは伝わって来ていたが、それ以上のことは誰も踏み込めない領域の中にあった。
サロアのその言葉の意味を考えていると、隣の席にカレンが帰って来ていた。
「サロアさん、たぶん櫛持ってないわね。あんたが櫛をつくって渡しなさい」
確かにあの髪質なら櫛など不要だろう。でもそれならなんで櫛が必要なのだろう。それ以前に
「あれって動物の骨を使ったものですよね?俺、狩りなんてやったことないし、無理ですよ」
「そんなの気合で何とかすんのよ」
「そんな無茶な……」
「別に今すぐじゃなくていいのよ。あの人に弟子入りするなら狩りなんてすぐ覚えられるわ。で、櫛の作り方を知りたかったら、トマスかイオに聞きなさい」
「……なるほど、分かったよ」
それっきりカレンは口を閉ざした。俺もカレンのその言葉から、櫛を作らなくてはいけない理由に思い当たって、それ以上聞くことが無くなってしまった。俺は口を真一文字に閉ざして、視線をその櫛を使って髪を梳かしている二人に戻した。今は櫛の事については何も考えたくなかった。
「これくらいで大丈夫でしょう」
エレナの髪をだいたい梳き終ったサロアは、エレナの肩口まである髪をしばらく眺めた。
「この長さなら私と同じようにするのは難しいので、こうするのはどうでしょう」
と言って側面に立つと、反対のもみあげの部分を頭頂部からもって、三つ編みにしていった。その鮮やかな手つきは、浅瀬を流れる川の水のように滑らかで優しく、まさに熟練の腕前といっても過言ではなかった。
サロアは素早く、そして丁寧に三つ編みを編み終えると、それを手前側の耳の裏まで持ってきてカチューシャのようにした。
「へえ、こんなやり方があるんだ!」
エレナが感嘆の声を上げながら、手で触ってその出来を確かめた。ここに鏡があったのなら、その見事な出来を自分の目で確かめることが出来ただろう、
「それと、これをあなたに送ります」
サロアは懐から何かを取り出して、手で仮止めしていた三つ編みの毛先を、それで止めた。
それはアルステリアの花を布で模して造られた髪留めだった。その花びらの部分はあり合わせの素材で作られていたにしてはよくできていて、アルステリアの淡いかわいらしいピンクの花ぴらを忠実に再現したそれは、エレナの幼くも可憐で端正な顔立ちをより一層引き立たせていた。
「え?なに?ありがとう!……あ、でもこれじゃあ見えないよー」
送られた本人は自分には見えていないので、少し不満そうであったが、送られたこと自体がうれしかったのか、髪型が崩れない程度に気にしながらも、満面の笑みでその贈り物を受け入れていた。
俺はその二人の様子に見惚れていた。二人ともかわいらしく、綺麗だったけど、それ以上に二人がこうして仲睦まじく触れ合う姿に、何か心の隙間が埋まっていくような感覚を得ていた。
二人の姿はまさしく姉妹だった。もちろん顔も似てないし、身長差は実際の親子よりもっと大きかったが、二人ともほとんどお揃いのような服を着て、お互いの髪を編みこんだ姿は血のつながり以上の、何かを感じさせた。
ポケットに入れたあの布片を握りしめる。エレナはあの日、目の前で失った彼女が、こうして再び現れ、お互いに言葉を交わし合っているこの状況をどう思っているのだろう。サロアがどのように蘇ったのかを彼女は恐らく知らない。エレナであれば、本当のことを知ったとしても、気にはしないかもしれないし、そもそも既知の事なのかもしれない。でも俺は今この場でポケットの中で握り締めている布片をサロアの目の前に突きつけ、糾弾する気にはどうしてもなれなかった。
エレナがこちらを向き、さっきのサロアの真似をして、スカートの裾を持ちながら「どう?似合ってる?」といった。俺はその問いに対して、いつもと同じように、少し微笑みながら「うん、似合ってるよ」といった。たぶん上手くできていたと思う。
俺の言葉を聞いた二人は、またお互いに向き合って、微笑み合った。
――良かったですね、エレナ
――うん
「不思議ね、ずっと一緒に居たみたい」
どうやらカレンも同じことを思ったようだった。
虚像。まさに目の前の光景がそれだった。俺はこの光景を求め、サロアもそれに応じた。この幻はいつまで続くのだろうか。
俺はポケットの中の布片から手を離した。
またしても部屋を風が駆け抜けた。今度の風のなかには新しい二つの花のような香りが混ざっていた気がした。俺にはこの香りが何の香りなのか分からなかった。
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