10.3
次の日の朝、まだ日が山の間から顔を出し切る前の、まだ朝露が乾かず、湿って大地の香りを豊潤に漂わせる森を俺とエレナそして、エレナの母親であるカレンは歩いていた。
父とトマスはここにはいない。恐らく、警戒態勢が解かれたとは言え、まだ緊張感の残る村で、その村の中心的な存在である二人がこぞって村を離れたとなれば、今日行われることを完全に隠蔽するのは難しいと判断したからだろう。
俺たちは皆が寝静まっているだろう早朝に夜逃げするようにして村を抜け出した。父たちが今日の事を誰にも知られないよう隠蔽する気だということは、彼らが口にしなくても明白だった。俺たちは普通に村の門から外に出たが、門番は誰も居らず、道中も誰とも出くわさなかった。父が手を回したのだろう。
案内と付き添いはカレンがするようだった。カレンはその実力から普段でも一人で狩りに出かけることもあるから、不在の言い訳は他の二人より容易だろうし、何より昨日の父たちの会話でも出ていた通り、大熊に対応できる唯一の人物だった。たぶん彼女の狩人としての知識と経験があれば、大熊と遭遇することなく狩猟小屋まで辿り着くことが出来るだろう。
「今日は」
前を歩くカレンの、娘によく似た髪色の一つ結びが止まって、そう切り出すとそれをふわりとたなびかせてこちらに振り向いた。彼女は父とトマスから持たされた、今日の訪問に必要な様々な品物を入れる中量ほどの背負い鞄と愛用の狩猟道具を身に着けていてそこそこの重装備であるはずだったがそれを感じさせぬ身のこなしだった。
「私があの人――サロアさんだっけ――のところにあなたたちを連れていくけど、この事は村の人たちには絶対話さないでね。もし今日の事を聞かれても、エレナ、あなたは自分の部屋で寝ていたと言いなさい。ロビン、あなたもエレナの看病をしていたことにして。くれぐれも余計なことは話さないようにね」
カレンはその若々しく活発な見た目に似合わない、母親らしい顔と声音をつくって俺たちにくぎを刺した。
「それとロビン、あなたはこの先一人で来られるように出来るだけ道を憶えてね。イオと何よりあなた自身が選んだことだからね」
特に俺には念を押す様に少し強い口調でそういった。少し機嫌が悪いのかもしれない。
俺はその言葉を受けて、家を出る前、トマスとカレンとそして父に「本当にそれでいいのか」と聞かれたときと同じように、相手の目をしっかりと捉えて「はい」といった。自分の意志を理性的にしっかりと伝えるという行為は、自分の意志だけでなく相手に信頼感と安心感を与えるものだと俺は知っていた。
俺の返事にカレンは何か言いたげな顔をしていたが、それ以上は追及しなかった。
「ねえ、お母さん、本当にサロアは生きてるの?」
今日の朝からずっと黙っていて、一言も話さず後ろを付いてきたエレナが母親に対してそう切り出した。
「――ええ、たぶん生きているわ。私も姿は見ていないからわからないけど、お父さんとイオが言うんだから間違いないわ……きっと」
久々の娘との会話に少しぎこちなくなりながら娘にそう言い聞かせた。そのぎこちなさはただ単に久々の娘との会話だからというよりも、そもそも自分自身の言葉が真実であるか確信が持てていないからでもあることは、カレンの少し下がった眉から見て取れた。
その言葉を聞いたエレナはじっと母親の顔を見た後に、また下を向いて黙り込んでしまった。
辺りに少し気まずい空気が流れた。
「エレナ、行こう」
俺はエレナの隣に立ち、顔を目線の高さに合わせてそういった。
下を向いていたエレナの顔が上がって、目があった。彼女の瞳は少し震えていた。
いつもそうだった。俺は彼女の事を何一つ理解できていない。今だって何を考えているんだか正直よくわからない。
しばらくそうした後、俺はエレナに向かって手を差し出した。
でも彼女の事を想像して、理解しようとして、力になりたくて、気づけばいつもこうして彼女の隣にいた。
彼女はこくりと頷いて、その手を取った。
「ああ、もう!そうよ!行けばいいのよ行けば。寝てても何もないんだから」
カレンはさっきまでの母親の顔をどこかに投げ飛ばして、少し投げやりな態度でそういった。
「特に何も言わない限り、私からは絶対離れないでね!迷って熊に食べられちゃっても知らないんだから。じゃあ行くわよ!」
あまりにも配慮に欠けた発言は、却っていつものカレンらしくて何か安心感があった。
カレンは右手を上げながらずんずんと森の奥につき進んで行った。俺はエレナの手を引きながらそれを追う。引かれた手は少し抵抗を感じつつもそれに素直に従った。俺は繋いだ手から伝わる力が少し強くなったことをその暖かな感触から感じ取っていた。
さらさらと流れるなめらかな絹糸のような川面が、天頂を目指す日の明かりによってきらきらと反射して、木陰で休む二つの影を照らしていた。
川のせせらぎが二人の間を駆け抜けて、目に見えない溝がつくられる。先ほどまで繋がっていた二つの手は今は離されていた。
サロアがいる狩猟小屋を目指していた俺たちは、一旦道をはずれ、傍にある川のほとりで長めの休息をとっていた。
隣の木陰で座りながら川面を眺めるエレナの端正な横顔は、どことなく儚げで、遠慮がちに見える彼女の下がった目じりはいつもより角度を落として更に不活発な印象を助長していた。
彼女が疲れているのは恐らく事実だった。母親譲りの頑強さで普段であればこれくらいの距離であれば問題にもならないはずだけど、病み上がりであり更にその原因となった場所に向かっているとなれば、普段以上に疲れを感じてしまうのも無理はなかった。
狩猟小屋への道のりを半分ほど過ぎたところで娘の体調不良に気付いたカレンは、道を外れてこの川のほとりに俺たちを案内した。
彼女の話によると、この川辺は普段から狩人たちの休息所となっているようで、人の匂いも強く、森の中では比較的安全に休める場所なのだそうだ。
それでも彼女は入念に周辺の安全を確認した後、この先の道中に新たな危険が無いか偵察に出かけて行った。もしかしたら元からこの休憩は、彼女の今日の行程に組み込まれていたのかもしれない。
ふと、エレナの形の良い横顔の角度が変わって、視線がぶつかった。
俺は少し気まずい気持ちになったが、それを出来るだけ顔に出さない様に、泥を投げ入れてこの静寂が流れるせせらぎをせき止めた。
「俺は本当に生きていると思うよ」
エレナの表情は変わらなかった。
「なんで?ロビンはあの場所にいなかったでしょ」
「それでもわかるんだよ」
泥でせき止めた流れは当然のように水に溶けて流され、すぐにその濁りは取り払われて、元の清らかさを取り戻した。
エレナの目が俺を捉えた。俺は今日もポケットの中に忍ばせているあの布片が見つかったのではないかとひやりとした。でも彼女はそのまま少し困惑した表情になった後、また川面に視線を戻した。
エレナにはサロアが生きているということが何よりも力になると思って、この言葉が口をついて出たが、失敗だったかもしれない。ポケットの中のものが見つからなかったことに俺は安堵したが、見つからなかったことになぜか少し落胆もしていた。
俺は後ろめたい気持ちを抱えつつ再び川面に視線を戻した。滑らかにそして優雅に流れる川の調べは、気まずい二人の間の空気を知ってか知らずか、変わらぬ拍の速さでその美しい音色を奏で続けていた。
俺自身もエレナの体調については少し楽観的に考えすぎていたのかもしれない。エレナにサロアを会わせれば全て上手くいく、そう考えていた。
人が目の前で死ぬ――それが人にとってどれほど衝撃的な事か考えられないことも無かったが、想像するのと実際に体験するのとはたぶん訳が違う。それが自分にとって大切な者だったなら、なおさらその傷は深くなるだろう。たとえサロアが生きていたとしても、彼女にとっては一生残る傷になるかもしれなかった。
もし自分の目の前で、例えば村の誰かが、父が、サロアが、そしてエレナがその命を散らすことがあれば、きっと自分は正気ではいられないかもしれなかった。
「待たせたわね――」
そう、森の奥から声が聞こえたかと思うと、音もたてずにカレンが森の木々の静寂から現れた。俺は川のせせらぎに紛れる彼女の気配に全く気付くことが出来なかった。先ほどの妄想に引きずられて、少し気分が悪くなった。
カレンはそんな俺には気付かずに、エレナの座る木陰に近づいて行って、彼女の前で身を屈め、心配そうな顔をしてその頬に触れると
「エレナ、体はもう大丈夫?無理そうなら帰ってもいいのよ」
といった。
「ううん、もう大丈夫」
エレナはそんな母を安心させるように、自分の頬に当てられた手を取ってどかし、木陰から立ち上がった。その足取りは思った以上にしっかりしていて、本当に回復していることは間違いなさそうだった。
俺はそんなエレナの姿に内心かなり安堵しつつ自らも立ち上がった。
「エレナ、本当に無理しちゃ駄目よ。時間ならまだ十分にあるんだから」
確かに時間は人の家を訪ねるには少々早いぐらいの時間帯だったが、それにしてもカレンの言動は、この休憩所に着いた時から少し過剰だった。
「ありがとう、お母さん。でも大丈夫」
一番大丈夫じゃなさそうなのは、カレンだった。なまじ自分が頑丈だったからだろう、カレンはこういう場面にとことん弱かった。特に自分の娘の事となると少しそれが顕著になり、いつもは医術の心得があるトマスが隣にいることもあって、実力としては一流の狩人なのに、一部分の能力が著しく欠落していた。それが彼女が一人での狩りを好む理由でもあった。
「おばさん、エレナはここまで頑張って歩いてきたんです。その努力を無駄には出来ないでしょ」
しばらくあたふたしていたカレンに痺れを切らした俺はそれらしいことを言って、話を先に進めることにした。
「うっ、ロビン、それはそうだけど……あといい加減おばさんっていうの止めて……なんかちょっと傷つくから……」
カレンはばつが悪そうな顔をして、言葉を詰まらせた。正直なところカレンの言い分は真っ当で彼女からしてみれば、いろいろな意味で今すぐにでも娘を家に帰らせるべきだとは思うが、彼女の弱ったメンタルでは二対一の状況をひっくり返せるほどの力はなかった。
それにしてもいつも同じことを言われるけど、人の家の母親をおばさん以外の呼称でなんと呼べばいいのだろうか、カレンさんと名前で呼ぶのは自分としてはなんとなく抵抗があったし、それ以外の呼称は思いつかなかった。
「そうだよお母さん。私頑張るから……」
エレナは健気にそして儚げに自分の胸に手を置いてそう言った。
俺は人知れず頭を抱えた。村の人々とカレンがエレナが体が弱いと勘違いしている原因はこれだった。カレンにとっては普通の子供は皆、貧弱に思えるだろうし、村の人たちにとっても事あるごとにこんな茶番を見せつけられれば、勘違いするのもやむなしといったところだろう。
「そうですよ、もう少し見守ってあげましょう。今日、目的が達成できなければ問題が明日に先送りになるだけです。きっと父は認めないでしょうから……だからもうちょっと挑戦してみましょう」
しかし今日はそれを逆手にとって説得の材料とすることにした、が
「そうね、全部イオが悪いわ……確かに村の為なのはわかるし、決めたことには従うって約束したけど……やっぱり納得できない!!」
そういってカレンはそばに置いてあった背負い鞄をひっつかむと、森の方へ背を向けて歩き出してしまった。
完全に裏目に出た。また失敗してしまった。どうやら父の話題は禁句だったようだ。肩を怒らせて歩くカレンの背中にどう声を掛けて説得すればいいのか迷っていたが、カレンは歩みを止めて後ろを振り向くと
「何やってんのよ、早く行くわよ。さっさとサロアさんに会って帰るの!……一応娘の命の恩人だし、顔を合わせないわけにはいかないでしょ……それに約束は破れないわ!エレナ、ちょっと辛いだろうけど頑張んなさい」
と腰に手を当てながら、まるっきり納得してないような顔をして俺たちに声をかけて急かした。
俺たちは急いで小走りにカレンに追いつくと、それを見届けたカレンはまた背を向けて森の奥へ入っていった。一つ結びが元気よく揺れる。
揺れる髪を追いながら木の根っこが蔓延る森の中をしっかりと足を付けて歩く。
ふと心配になって隣を歩く少女を見た。でもその心配はすぐに杞憂だと気づいた。何せエレナの顔は、さっきのカレンのまるっきり納得してない顔とそっくりだったからだ。
俺はカレンとエレナが親子だということを今更ながら再認識した。
そうだ彼女にとってこの数日間は納得できない事の連続だったはずだ。目の前で死んだはずのサロア、でも帰ってみればみんながみんなサロアが生きているという。きっと怖かっただろう。でも期待もあっただろう。今まではそれを確かめる気力と負った傷に立ち向かう体力が無かった。でも今は違うらしい。
相変わらず彼女の考えていることはわからない。でも今は手を差し伸べる必要はなさそうだった。
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