10.2
部屋が夜の帳に包まれて真っ暗になったころ、暗闇の中の、姿の見えないエレナにさよならを言って俺は部屋を出た。
エレナにはあんなことを言ったが、正直なところ全く当てはなかった。
こんな状況で村を抜け出せるはずがないし、そもそもの話、サロアがいるだろう狩猟小屋の場所すら俺は知らなかった。
自分の部屋に帰った俺はベットに寝転がって、エレナの部屋より幾分高い天井を見た。もしかしたら、一度狩猟小屋までたどり着いたことがあるエレナがそのまま狩猟小屋まで案内してくれる可能性もあったが、もし“彼女”自身がサロアに会うのを拒否していた場合その案内では一生狩猟小屋までたどり着くことは出来ないだろう。
だから狩猟小屋にたどり着きたかったら場所を村の誰かに聞くしかなかったが、この状況で聞き出すのは正直現実的ではなかった。まともな大人ならば危険であるはずの狩猟小屋の場所を教えるはずがないからである。それどころかすぐにこのことは父に知れ渡って、余計状況が悪くなることは間違いなかった。
家の建付けの悪い玄関のドアがぎいと鳴った。噂をすれば何とやらで、どうやら父が帰ってきたようだ。
「それでトマス、エレナの様子はどうだ?」
居間への扉が開いていたのか、父の声が聞こえてきた。どうやらエレナの父親であるトマスおじさんが招かれているようだ。
「ああ、あれは駄目だな……全然聞く耳をもたねえ。全く誰に似たんだか……」
「それが彼女の良い所でもあったからな」
どうやらうちの両親とエレナの両親は旧知の仲らしいが、父やエレナの両親はあまり昔のことを話したがらない。やっぱり母があんな状態になっている事と関係があるのだろうか。
「――まあ、無理もない。人の命が失われる瞬間を受け入れるにはまだ幼すぎる年齢だ。それが自分を守るための犠牲となれば尚更だ」
「そうだよなあ……まだそいつが生きてるって言われても、あのやられ方じゃあ信じられなくて当然だよな」
「ああ、エレナは気休めの嘘だと思ってるだろうな」
父はそう分析した。真っ当に考えれば概ねその通りだと思うが、エレナにその真っ当な理屈が通用するかは俺にもわからなかった。
「――西地区のネビンはどうやらもう限界らしい。明日にでも村から出て行って、山に逃げ込むんじゃないかって」
トマスがとある一人の住民についての情報を報告した。ネビンさんはもとより臆病な性格で有名だった。
「山に逃げ込めばどうなるか、自分が一番よく知っているのに……」
父はため息をつきながらそういって、自らのこめかみを抑えた。
「とにかくネビンが逃げない様に監視を付けよう。一人逃げ出すともう止められなくなる可能性がある」
人と羊の群れは似ていると思う時がある。今の村は囲いに追われた羊たちの群れと同じなんだろう。
「ああ、わかった。あいつには甥がいたはずだ。畑は休ませてネビンと一緒にいてもらうようにしよう」それととトマスが続けた「こっちは逆にやる気がありすぎてるやつだ」
トマスは更に三人の名前を挙げた。タイア、アッシュ、クルトガ彼ら三人の中年男性は特に血気盛んで勇猛であり、ちょっと扱いずらい三人でもあった。
「ああ、彼らには特に腰に負担がかかる農作業をやらせろ。どんなにやる気があっても彼らも歳だ。警戒態勢明けの農作業は身体に来るだろう。たとえ腰をやっても大熊に食い殺されるよりはましだ」
酷い言い草だが、的確な判断だった。やはり脅威となるのはサロアよりも大熊だろう。未だに村人たちの中では大熊の存在に半信半疑の者も少なくない。そんな中で何の対策もなく、大熊のうろつく森の中に突入すれば、いくら勇猛果敢な戦士といえどひとたまりもないだろう。
「俺たちもカレンが居なけりゃあそこで死んでたからな、なんか異様にでかかったし……多分あいつは魔獣だな」
「ああ、そうだな。それと爪が他と比べてもかなり長くて凶悪だった。間違いなく通常の個体ではないだろう。そして、魔獣となればまだ死んではいないはずだ」
野生の動物の中にはいわゆる魔獣と呼ばれる特殊個体がいる。例えば特別に角が生えていたり、単純に体が大きかったり。彼らが一つの種族として存在しているのか、どういう成り立ちかはよくわかっていないらしいが、人間にとってはそれらは大抵の場合脅威となって、被害が出る。そのためそういったものが現れた場合魔獣として扱い、脅威に備える。
「とはいえ奴らも動物だ。手ひどい傷を負って、更には狩猟小屋にはよくわからん化け物がいる。もしかしたらもうあそこらへんにはいない可能性も高いが、この森のどこかにいることは間違いない。警戒するに越したことはない」
化け物という父の言い草に少しむっとしたものの、狩猟小屋周辺に熊の気配が無くなっているかもしれないという情報は悪くない情報だった。もし自分たちがサロアのところに行くとしてもやっぱり大熊が一番の懸念点だったし、何より、サロアが危険な目に合っていないかどうか心配だったからだ。たとえサロアが父の言う通り不死身の化け物だったとしても、大熊の脅威にさらされているかもしれないことを思うと心が痛んだ。
「やはり、エレナが問題だな。このまま実被害がなければ、彼らも収まってくれると思うが、実際には旅人によってエレナに被害が出てる。実情は少し違うかもしれないが、村の皆から見ればそうじゃない」
父の言葉に、トマスは苦虫を噛み潰したような顔になった。父は続けた。
「カロルは傷も治れば立ち直って、村の皆も忘れることが出来るだろう。だが、エレナはどうだろう。寝込み続けるエレナを村の皆はどう思う」
「娘は立ち直るさ。お前さんの息子だっている」
トマスの声音から空気が重くなっていくのを感じる。いきなり怪しくなった雲行きに、俺は少し置いてけぼりになっていた。
「それは何か月後だ?何年もかかるかもしれない」
「だからって、あの娘を旅人にもう一度引き合わせるのは危険すぎる」
トマスの言葉に胸がどくんと高鳴るのを感じた。自分で思っていたのとは真逆の展開だった。
「旅人自体に危険はない。お前もそう思うんだろ?だったら危険な事なんて何もないじゃないか。熊だってカレンが居れば問題ないだろう」
「お前、本当にそう思ってるのか?自分の子供が逆の立場だったらって考えてみろよ……確かにあいつは多分良いやつだ。恩だってある。でも娘をこれ以上あいつと関わらせるのは反対だ――娘の……エレナの旅人への入れ込み方は異常だ。俺は何かいやな予感がするんだ。将来あいつのせいで娘が不幸になってしまうんじゃないかって」
「トマス……それは親が子を思うこととして当然の不安だ。俺だって不安だ。もちろん引き合わせるときは、ロビンも一緒に連れていく」
「――違うだろ……違うだろ、お前はただ――」
「ロビン!」
「ロビン、お前……」
トマスの声が小さくなったから、もっと良く聞こうとして、足を踏み出したら、床が鳴って二人に気付かれてしまった。
所在無さげに視線を泳がせながら、次の言葉を探していると、父がつかつかとこちらに寄ってきて
「ロビン、旅人――いやサロアにもう一度会って、剣の師事を乞いなさい。そしてその元で力を付けなさい」
といった。
「お前……何いってんだ」
当然の疑問はトマスの口から発せられた。
「私からは以上だ。明日の朝いちばんに出立できるよう準備しておきなさい。ではお休み、ロビン」
父は俺の頭を撫でて、そういってから背を向けた。俺は一言も言葉を発することが出来なかった。
「おい、イオ!どういうことだ、説明しろ!」
「当然のことだが、エレナにも明日は同行してもらう。村の為だ、諦めろ」
「そんな事したら、お前、どうなるか分かってるだろう」
「知らん。他の事はともかく、自分の娘のことはお前が何とかしろ」
そのまま俺は扉口で突っ立っていたが、二人の無言の圧に負けて、結局一言も話せずに部屋に引っ込むことになってしまった。
部屋に入って扉を閉めた俺はしばらくその場から動くことが出来ないでいた。
父のあの頑なで有無を言わせぬ、冷徹とまで言える表情はつい最近、行方不明のカロルとエレナを連れて帰還したときと同じ種類のものだった。
俺は今日初めて父親からその表情を向けられた気がする。当然父親であり村の主導者でもあるのだからこういった場面は何度もあったはずなのに、今日はなんだか少し違った気がした。
扉の向こうでトマスの抗議の声が聞こえる。トマスの反応から見ても、父親の様子がいつもと違うことは間違いなかった。
扉の前で立ちすくみながら、先ほどの父の無の表情を思い出す。父があの表情をするときは必ず何か考えがある時だ。そしてそれは大抵、近しいもの以外には言えない事情がある時だった。俺に隠すべきことがある。それはいったい何なのか、それを考えると胸の内にそら寒い感覚を得るのだった。
少し時間がたって頭の中の情報が整理されてくると、凍てついた困惑と疑念の中にも、それから身を隠す暖かな希望の光があることに気付いた。父がなにかを隠していて、それを俺に秘密にしていたのだとしても父の提案は俺にとってはまさに渡りに船だった。またサロアに会える、エレナの顔にも笑顔が戻るかもしれない、そう考えると胸のあたりのもやもやが少しだけ晴れるような気がした。
その日の夜、父とトマスとそして後から駆け付けたカレンおばさんの三人で秘密の会議が行われた。今度は盗み聞きをされない様に声を潜めてそれは行われていたが、時々気持ちが昂ったのか、大きくなった声が時々建付けの悪い隙間風だらけの扉を漏れ出て聞こえてきた。
――彼女はサリアじゃない!
――でも君の娘は……た……そして君には……
――それとこれとは……
――ちょっと!声が大きい……も……大切なのは……でしょ
途切れ途切れの断片は意味を理解することは出来なかったが妙に心がざわつくのを感じた。
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