10.1

10.


 牧場の柵に体を預けながら、中で羊の子供たちに混ざって遊ぶ子牛を、俺は暗澹とした表情で眺めていた。

 生まれてくる子牛はこの土地の在来種と掛け合わせた羊と違って、皆明らかに虚弱だった。やはりこの土地の気候が合わないのか、それともこの土地自体に特殊な何かがあるのか――しかし、この子牛だけはその例外となるだろう。

 子牛が虫か何かに驚かされたのか、元気よく飛び上がった。

 はしゃぐ子牛の身体は雪の上を跳ね回る野兎の如く軽快で、風邪で苦しそうにしていた過去の面影は今ではまるでなかった。

 ポケットの中のあの布片を握りしめ、かばんに忍ばせたナイフを取り出すために手を伸ばす。しかし俺の指先はかばんの取っ手を掴んだままその先のナイフまで手を伸ばすことが出来ないでいた。かれこれ数十分と同じことを繰り返している。かばんの取っ手を掴むたびに、俺の脳裏では風邪に倒れていた頃の子牛の姿と森で見たあの蠢く触手の映像がよぎった。知らなくてはいけないことがあって、目の前と手元にはそれを確認するための材料が揃っている。やるべきことは明白であるはずなのに、かばんの取っ手を掴んだ後の指先は、まるで冬眠中の蛙のように緩慢でやる気がなく、その重いかばんの蓋を開けるには少なくとも雪解けを待つ必要があるかもしれなかった。

 あれから数日が経った。

 村は緊張感を保ちつつも、徐々に日常を取り戻しつつあった。いや、日常を取り戻すという表現は適切ではないかもしれない。ただ単純に村のみんなの集中力が切れて日常に戻らずにはいられなかったといった方が正しい。それくらいあの日と比べるとその後の数日は何の音沙汰もなかった。

 俺はあの日、自分が見積もったよりも数段早く村に戻ることに成功していた。

 空を見ながら、方角を求め、村があるだろう場所を目指して進む。あの日サロアの隠れ家に辿り着く前と同様の方法だったが、結果はまるで違っていた。少し歩かない内にあの滝つぼに向かう小道に合流したときは、さすがに何かの間違いだと思って、引き返そうかと思ったほどだった。

俺が村に帰ると、村はちょっとした騒ぎになっていた。当然といえば当然だった。何せこの緊急事態下で村の子供たちがこぞっていなくなっていたのだから……

 質問攻めにあった俺は状況を理解した。カロルはともかく、エレナの行方不明は完全に予想外だった。俺は内心では村の人達に負けず劣らず冷静さを失いかけていたが、とっさに機転を利かせて、村人たちの一体どこに行っていたのかという質問に、エレナとカロルを探すため外に出ていたことにして、本来の目的を隠蔽した。

 恐らくエレナはサロアの居る場所に向かったのだ。カロルも目的は違えど、目的地自体は同じだろう。

 しかし、俺はエレナが今どこにいるかはさっぱり分からなかった。なぜならエレナはサロアの居場所は知らないはずで、カロルの後を追ったとしても、たどり着けるとは限らないからである。それともエレナだったらそういったことも可能としてしまうのだろうか。エレナであれば危険は無い……というより降りかかってこないだろうという確信はあったものの、こんなことは初めてで内心ではかつてない程動揺していた。

 据わりが悪く、かといって何の当てもない状況で、村の住民もろとも、何かが爆発しそうになっていたところ、寸でのところでそれは抑えられた。

 交渉に出ていた父たちが行方不明になっていたカロルとエレナを連れて帰還したからだ。だけど、それは村人たちの不安を解消する根本的な解決にはならなかった。それどころか、行方不明になっていた二人の内一人が、手ひどい傷を負って帰ってきたという事実は、村人たちの不安に更に火に油を注いで、場はまさに一触即発の空気となっていた。

 父は意識を失っているエレナと、見るからに重傷のカロルを尻目に、旅人が村の外れの狩猟小屋で逗留することが決まったことを村の皆に伝えた。

 もちろん村の皆は納得しなかった。村の指導者である父には非難が集まったが、それも父の計算の内だろうか、カロルは突然襲ってきた大熊に襲われて手傷を負ったとだけ説明をして、血気盛んで好戦的な村人に厳格な声音で寝ずの番をすることを命じた。

 闘争を求めていた彼らはすぐに敵が攻めてくると勘違いをして、急いで持ち場に向かっていった。

 また、カロルの証言も場を収める要因として重要な役割を果たした。あんなに血気盛んだったカロルが、こんな手傷を負い、さらにはしおらしい顔をして、父と同じように大熊に襲われたといったのだ。大熊の存在が本当か嘘かはともかく、もとより侵入者の脅威に怯えていた者たちは冷や水を浴びせられたかのように静かになった。

 とにもかくにも旅人の逗留という最重要事項への関心が薄まり、代わりに来るべき脅威に警戒態勢を敷くことによって、場の混乱はひとまずは落ち着き、膠着状態へと突入していった。

 そして一晩経てば皆冷静になるものである。それとも侵入者に対する恐怖だろうか。いずれにしても、この数日、村から出て侵入者の排除をしようという極端な行動を行うものは一人も出てこず、村人たちは塀の中で、悶々とする気持ちを抱えながら過ごすことになった。

 何も起こらない日々は村人たちに負担を強いて、疲れからか徐々に警戒態勢は緩慢になっていった。昼夜問わず警戒を続け、固い駐屯小屋の寝床で少ない睡眠時間を消化した見張り番は、目元に隈をつくって立ったまま見張り中に船を漕ぎ、逆に自宅待機を命じられたその他の住民は、外にも出ず、仕事のない日々に体力を余らせ、まだ見ぬ新たなる脅威とそれによって思い起こされた過去の幻影に苦しめられながら眠れぬ夜を過ごした。

 そして今日、ついに村の指導者たるイオリア・レーヴェンは家畜の放牧および農作業のため村の外に出ることを許可し、実質的に警戒態勢を解除した。

 一部の過激派と、侵入者に怯え身動きが取れなくなったものはそれに反対したが、それ以外の者は各々の仕事に向かっていった。過激派の一部は疲労によって気勢がそがれ、それ以外の現実的な村民は、いい加減外に出れず体も満足に動かせない日々にうんざりしていたし、何よりこのまま警戒態勢を続けても飢えて死ぬことをしっかり理解していた。

 多くを語らない村の指導者に対して、さまざまな疑念や憶測が飛び交ったが、警戒態勢の窮屈さから解放された村人たちには、今のところ表立った行動を起こそうとする者はいないらしく、思ったよりスムーズにこの日常が消化されていった。


 「おーい、そこで何やってんだ!もう帰るぞー!」


 遠くでテオルさんが手を振りながら大きな声でこちらに向かって叫んでいた。

 ポケットの中の布片を指先でいじりながら、これからの事を考える。当然のことながら前科によって警戒態勢下の村を抜け出すことは出来ず、この布片について現状何の手掛かりも得られていなかった。そして目の前の重要な手掛かりについても俺はきっと究明することは出来ないだろう。少なくとももっと体力がついて、切り傷一つじゃ大事に至らないくらいに子牛が成長するまでは、それを行う気にはどうしてもなれなかった。

 そして俺の懸念はそれだけではなかった。

 テオルさんの声にせっつかれるように牧場を後にする。これから俺は、その悩みの種と向き合うためにとある場所へと向かわなくてはならなかった。久々の農作業で疲れた足は今日は一段と重く、目的の場所へと向かうその足は自分でも驚くほどのろまだった。

 俺はいくつかの寄り道をして、その目的の人物がいる場所ににたどり着いた。

 彼女は自宅の屋根裏を自らの部屋にしていた。幼いころ同じような状況で彼女の部屋訪れたとき、なぜこの子はわざわざこんな天井の低いところで寝起きしてるんだろうと思った記憶がある。下にはきちんと彼女用の部屋が用意されていたのに、今では物置と子供部屋は互い違いの関係になっていた。

 奥の台所にいたカレンおばさんに一言告げて屋根裏への梯子を上り、壁板で仕切られた部屋のドアをノックする。


 「エレナ、起きてる?少しだけ顔を見せてくれないかな?」


 かつてと同じように扉の前で耳を澄ませた。うんと微かに聞こえたような気がする。いや言われてなくても扉を開けたかもしれない。

 扉を開けるとベットの上で布団にくるまったエレナがもぞもぞと蠢きながらこちらに顔を向けた。彼女はこの数日で少しやせて、あの色素の薄い栗色の肩口まである綺麗な髪は、傷みが入って、少しだけぼさついていた。

 俺は適当に部屋に置いてあった椅子を彼女のベットの横に置くと

 

 「これ、食べる?」


 と貯蔵庫からくすねてきたリンゴを見せながら聞いた。彼女は首を横に振った。だけど俺は構わず、かばんからナイフと皿を取り出して、皮を剥いていった。エレナは贅沢なことに皮付きのリンゴはお気に召さないようで、いつも皮を剥いて一口大に切ってあげないと口にしようとしない。

 さっと皮を剥いて、一口大にしたリンゴを一つ手に取ってエレナの口元に持っていく。

 

 「はい、食べて」


 エレナは口元に突き出されたリンゴを何度か逡巡しながら、ちらちら見ていたが、やがてそれを口に入れるとしゃりしゃりと音を鳴らしながら食べていった。

 エレナの咀嚼が終わって喉が鳴ると俺は


 「おいしかった?」

 

 と聞いた。エレナは目を合わさずに微かに頭を縦に振った。俺はエレナがリンゴが好物なのを知っていた。前の冬のリンゴが比較的いい状態で貯蔵されていて助かった。ここでは冬に野生のリンゴが採れる。その中からまだ青いものを採って土蔵で寝かせ、保存食とするのだ。

 もう一度一口大のリンゴを口元に運ぶ。今度は素直にそれを口に入れた。しゃりしゃりとリンゴが咀嚼されている音が聞こえる。

 ここ数日間エレナは誰に対しても口を閉ざし、部屋から出ることも拒否していた。ここ数日間は警戒態勢が敷かれていて、皆に気付かれることは無かったが、これからは違う。今日もただの風邪だと誤魔化したが、きっとエレナの体調不良は、件の旅人と関連付けられ、村中ではまた良くない噂が流れ始めるだろう。

 エレナだってそれは不本意なはずだけど、エレナは誰の言葉にも耳を貸そうとしなかった。


 「サロアは生きてるよ」


 「嘘」


 彼女は今日初めて言葉を発した。あの事件の後初めてここを訪れたときにもこの問答は行われていて、ほとんど同じ答えだった。

 あの事件の後俺はエレナがこんなことになってしまった理由を何とか知りたくて、父親にしつこく食い下がっていた。あの日エレナを一人にしてしまった責任が俺にはあるし、何よりエレナがあんなにまでなるのはサロアに関することだけだろうから、心当たりが有る身としては、何としてでも聞き出したかった。

 父親は話すことをためらいつつも、エレナの事がやはり気に掛ったのか、俺にあの日起きたことを話してくれた

 たぶん父自身もあの日起きたことが信じられていないのだろう。いつも冷静な父にしては珍しく、少し動揺したような口調で、あの日起きたことが語られた。

 にわかに信じがたい話だったが、今の状況や俺自身が知り得る情報と合わせれば、有り得ない話ではなく、むしろ妙に納得してしまう話だった。恐らくサロアの事をある程度知っている俺でなければ信じられる話ではないだろう。  

 でもそれを聞いてそれとは別にまた新たな疑問が浮かんだ。そもそも父はなぜサロアの逗留を許可したのだろう。

 エレナを助けたから?サロアの医術が村の役に立つと信じたから?どれもありそうな話だったが、普段の父の性格を考えると、そのどれもが違うような気がした。

 ――あの布片は父に見せるべきだろうか

 様々な疑念が身を取り巻く中、その答えを探して、ポケットの中に手を入れ、布片に手を触れたが、結局それを取り出すこともなく、父の部屋を後にした。

 やはり父はまだ何か重要なことを隠している気がする。その気掛かりがポケットの中の手を止めてしまった。

 ――俺は何が知りたくて、何を求めてこんなことをしているんだろう

 低い天井の薄暗い部屋の中で、目の前の全てを諦めたような少女の横顔に対しても、俺はまたしてもポケットの中の真実を告げることが出来なかった。

 彼女ならこれを見た瞬間全てを理解するかもしれない。でもそれが起こった瞬間、エレナとサロアとそして自分の間で何もかもが修復不可能な亀裂が入ってしまうような、そんな予感があった。

 エレナはサロアが死んだと信じ切っている。それも当然だ。何せ自分の目の前で大熊の爪に貫かれた瞬間を見たのだから。でもエレナは特別で、そして俺は本当にサロアがまだ生きていると確信している。エレナの中の彼女はもう真実を知っているのだろうか。それともこれも彼女が選んだことなのだろうか――


 「サロアに会いに行こう」


 その言葉が俺の口をついて出た。それが最も正解に近い気がした。


 「うん」


 エレナは死んだような目でそういった。

 それっきりエレナは口を閉ざした。俺も無理に会話を続けようとはしなかった。

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