9.2

 するりと右手に持った鉈が手から滑り落ちた。それは少し地面の土を傷つけた後、和解するようにその土の上に横たわった。


 「おーい、小屋から持ってきたぞ」


 後ろの森からトマスの声が聞こえた。

 

 「いや、すまなかった。あなたが大熊を呼んだ可能性は低い。もしあなたが自作自演をしていたのなら、カロルの存在が不可欠で先ほどのカロルの反応を見る限り、あなたと接触した形跡はない。もし我々にに危害を加えるつもりで大熊を呼んだのならそれこそ体を張ってエレナを守る必要はない。あなたが行動不能となり、その体の秘密を知られることの方がよっぽどリスクがある。そのリスクを乗り越えてエレナを守ってくれたのなら例え本当に敵だったとしても、その恩義だけは返したい」


 全て詭弁だった。もしこの目の前の化け物が魔術師もしくはそれに準ずる存在だった場合、カロルの事についても魔術で恐らくどうにでもなるだろうし、託宣と呼ばれる未来予測のようなものを可能としている彼らが、この程度の謀を行うことは造作も無いことだろう。


 「まあそういうこった。はいよ、これでカロルの頭縫うんだろ?」


 トマスは持ってきた救急箱を手渡した。その中には救急用の裁縫セットや包帯なども含まれていた。


 「ええ、はい――本当は消毒してからでないと危ないのですが……」


 消毒液といえば水銀であったが、当然そんな高級なものは、この場末の救急箱にあるはずがなく、しばらく救急箱を漁っていた旅人は諦めてカロルの傷口に向き合った。


 「まあ大丈夫だって。カロルはやんちゃだったから、良く怪我して帰ってきてたんだ。さすがに針で縫うほどの怪我は二回ぐれえしか無かったが、俺が縫ってどっちとも大丈夫だったぜ」


 「……ええ、なら、この子の生命力と運を信じて、このままいきましょう」


 旅人は急に緩慢になった空気に少し戸惑っているようだった。トマスは元からこんなだったろうが、私も成り行きとはいえ旅人に対する礼儀を忘れ、普段と変わらない口調になってしまっていた。

 旅人は戸惑いながらも鮮やかな手つきで針に糸を通すと、一瞬で二度傷口に針を通し、瞬く間に縫合を終わらせた。


 「おお、うまいもんだな。途中でカロルが起きて騒ぎになるかと思ったが。大丈夫だったな」


 カロルは最初こそ額に大量の汗を浮かべて呻き声をあげていたが、薬を飲んだ後はいつの間にか寝息を立てて眠りについていた。


 「ええ、相当疲労が溜まっているのでしょう……あとは腕に添え木を付けてしばらく寝かせてあげましょう」


 そういってこれまた手慣れた手つきで鉈の鞘を使った即席の添え木を包帯で巻き付けていった。


 「ああ、それにしてもこいつは相当運が良いやつだな。二度も命の危機があったのにこうしてあっさり助かっちまうんだから――ああ、そういえば水持ってきたけどこれはいいのか」


 「ああそれなら俺が持ってたから、問題ない。もう全部使ってしまったようだから、それは俺にくれるか」


 「ああ、いいぜ。お前さんも大丈夫だよな」旅人は頷いた。「そういえばお前もようカロルほどじゃないが熊にやられてたじゃねえか。一応見てもらえ」


 「ん?ああ」

 

 手渡せられた水を飲みながら、適当に相槌を打つ。それを聞いた旅人がこちらによってきて、頭を覗き込んだ。


 「ああ、気にしなくていいよ。もう痛みもないし」


 思わず傷を抑えて後退ってしまう。すこし気まずい空気が流れた。


 「遠慮すんなって。ほらさっさと見せろ」


 少し重くなった空気を取っ払うように、トマスが少々強引に催促した。


 「なら……ここだが問題は無いか」


 私は髪をかきあげて額の傷口を指さした。


 「えーと、ここですね」


 旅人はじっと傷口を眺めた後、傷口を優しくなでた。ちょうど目の高さに、大熊によって裂かれた服の隙間から、同じように引き裂かれたはずである、彼女の白い素肌が覗いた。彼女の着る服は最低限衣服として役割を果たしてはいるが、女性が着る服としては少々露出が多すぎた。


 「少しこぶになっているようですが、今の様子を見る限り、恐らく問題は無いでしょう」


 裂け目から除く白い素肌は、先ほどの衝撃を忘れたかのように、傷どころか汚れも一つとしてなく、そして彼女の声に合わせて微かに上下する胸と腹部は、確かに生きた人間のそれであった。私が更に詳しく彼女の傷口を観察しようとしたところで、彼女は私から離れていった。旅人は恐らく気を使ったのだろう。安堵するとともに、私はなぜだか名残惜しく感じた。


 「ありがとう……ええと、そういえば君の名前を聞いてなかったな」


 そういえば名前については息子からも話に出てなかった気がする。名前は重大な情報源である。たとえ偽名であっても、音の響きや発音から生まれが特定できる可能性もある。トマスをちらりと見る。彼の忠告が昨日のうちに私に届いていればもしかしたら、息子からもっと知れることは多かったかもしれない。しかし、私と目を合わせたトマスは何故だかばつが悪そうな顔をしていた。


 「私の名はサロアと申します。苗字も無いただのサロア――」


 私はその名を聞いた瞬間どくんと胸が高鳴るのを感じた。頭をがつんと誰かに殴られた衝撃だった。繰り返される既視感に一つの答えが与えられた。もしかしたら……


 「おう、サロアだな。娘から聞いてるぜ。ちなみに俺の名前はトマスだ、トマス・マーギュリス。エレナの父親だ。改めてさっきの事の礼を言わせてもらう。ありがとう」


 トマスはサロアのロを心なしか強調していった。そうだ有り得るはずがない。全てはあの日炎に焼かれて消えたはずだ。


 「いえ……自分に出来ることをしたまでですから」


 私はサロアの顔をまじまじと見た。自らの体の特異性について思うところがあるのか、憂いを帯びた声音と少し瞼を失せたその顔はただただ美しく、当時の二つか三つだったころの娘の成長した姿を彼女の顔だちと照らし合わせてみても、似ても似つかない存在であることは間違いなさそうだった。そもそもサリアはアルビノではなかったし年齢も若干の齟齬があるように見えた。というより、旅人のいやサロアの年齢はいくつなのだろうか。背格好だけみれば完全に成年ではあるものの中性的な顔立ちは、年齢の判別が難しく、見ようによっては十六かそこらの少女にも見えるし、別の角度から見れば妙齢の女性が醸し出す色気も感じ取れる。


 「苗字が……無いというのは……」


 やっと必死に絞り出した言葉がそれだった。村の指導者としてこれらを追求するのは決して間違ったことではなく、むしろ義務ではあった。口の中は緊張と得も知れない期待でカラカラになっているのがわかる。トマスが心配そうにこちらにちらちらと目くばせをしているのが目の端に映った。


 「私には親がいません。帰る国も家もありません。だから縁るべき名が無いのです。私からはそれ以上のこと言うことは出来ません。ごめんなさい」


 私はその言葉を聞いて心が打ち砕かれるような気持ちになった。これは幻覚で、村の指導者としてはもっと追及して糺さなければならない事柄であるはずなのに、今脳内に渦巻いている幻覚はそれを肯定し、その気持ちに同情して、そしてさらには、自分に都合のいい解釈をさせようとしていた。


 「そうか、すまなかった。それならば私からはこれ以上追及することはよそう」


 そして私はそれに負け、また一つ罪を重ねた。


 「ただし、先ほど述べた通り、村の中に君を入れることは出来ない。そして、秋には小屋を退居してもらうことも同様だ」


 「ええそれで構いません、お心遣い感謝いたします。そしてその礼として、私に出来ることであれば、いつでもおっしゃってください。必ず駆けつけ、力になることを誓いましょう」


 彼女の言葉は今の私には悪魔のささやき声に聞こえた。姿を変え、人の弱みに付け込み、惑わす――


 「それならば最後にこれを」

 

 私は着ていた外套脱いで彼女に差し出した。彼女の服は大熊の一撃と返り血によってほとんどその機能を果たせていなかった。

 外套を受け取った彼女は礼を言った後、自らの無残な姿になった外套を脱いで、受け取ったそれを着用し、自らのさらけ出された神秘を覆い隠した。

 私は悪魔と契約したのだろうか。確かにものの見方では彼女は、医術と超常的な身体の能力と特異性をもってして救世主になり得るものなのかもしれないし、それはそのまま反転して我々を滅びの道へと導く悪魔ともなる。しかしながら、今の私には彼女が悪魔か救世主かなんてどうでもよかった。そして彼女は恐らく救世主ではないだろう。人の上に立ち、導くものとして教育を受けてきた私にはわかる。私たちが受け継ぐ、終末思想や救世主の予言は私たちがこの過酷な現実を生き抜くためのまやかしであり、鎮痛剤である。そして私は彼女を鎮痛剤として受け入れた。

 彼女の濁って底が見えない灰色の双眸が私を貫いた。私は失った一欠けらをそこに見た。

 それこそが最も罪深いことだろう。彼女が何者であれ、もう私は悪魔に魂を売ったも同然だった。

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